百九十二話 兵馬と詩乃
「うっ……」
もぞ……と詩乃が身を起こすと、そこは自室のベッドの上だった。
記憶が飛んでいて、何故だか頭がくらくらする。寝落ちする前に何をしていたかを思い起こして、そうだ、食堂で間違えてお酒を飲んだんだったと思い至って小さく呻く。
「……頭いたっ」
どうもアルコールに向かない体質らしい。
すぐに気分が悪くなって寝入ってしまったし、今もまだ体の中にアルコールの熱がぐるぐると回っているような感覚がある。
半身を起こした姿勢で寝具の上に乗せた腕を横にずらせば、横に寝ていたプリムラに手が当たった。
すかーとばかりに口を半開きで、時折へらへらと笑いながら眠る自律人形。
良い夢でも見てるのかなと考えながら、朦朧としたままに部屋を見渡せば、片隅にしゃがみこんだロッタの姿が目に留まる。
ナトラはリオの元で統制が取れている組織だが、構成員は基本的に荒くれ者たちだ。
酒で眠ってしまった無防備な詩乃たちを放っておくのが憚られたのか、どうやら見張りをしてくれていたらしい。
今は眠ってしまってこくん、こくんと船を漕いでいるが、抜け目なく扉の内側に自分の剣を立てかけている。もし誰かが入ってくれば、それが倒れてすぐ気がつく簡単な仕掛けだ。
殺し屋一族らしい気配りだな。そう考えながら、詩乃は立ち上がると掛け布団を彼女の肩に掛けた。
「駄目だ、お酒が抜けてない……」
今は夏場だ。外着のままで寝てしまったせいでひどく汗ばんでいる。
着替えようかと考えるが、それよりも先に換気をしようと窓に歩み寄る。
時刻は一時を回った深夜。二階の窓越しに見上げる夜空には星が瞬いていて、ガララと引き開ければ涼風が室内に吹き込んだ。
思わず深く呼吸をしてから、軽く伸びをしながら夜の景色に目を凝らし……少し離れた木陰の人影を見て、詩乃ははっと息を飲む。
そして考えるよりも先に、勢いよく二階の窓から飛び降りた。
「兵馬!!」
「うわっ!? あ、危ないな!!」
スカートを風に膨らませながら、飛び降りた詩乃へと人影が慌てて駆け寄る。
背を下にしたスライディングのような格好で、見事に衝撃を殺しながら青年の腕が詩乃を抱き止めた。
「なんで飛び降りたんだよ、怪我したらどうするんだ」
「……っ、兵馬……!」
窓の下は小さな庭になっていて、二人は芝生の上にいる。
数日ぶりに顔を合わせた兵馬。
新人類は詩乃とは時間の流れがまるで異なる長命種なのだと、兵馬がきっと隠したがっていた真実を知った。
もう二度と会えないんじゃないか。会えたとして、旧人類と自分は違う世界に生きているだとか、そんなことを言われるんじゃないか。そう心配していた。
けれどこうして顔を合わせてみれば、口ぶり、態度、少しだけ眉根に力を込めた驚き顔まで、詩乃の知っている兵馬樹そのままだった。
違うのは服装ぐらい。いつも着ている濃紅のシャツと黒のベストではなくて、夜の散歩にふらっと出ました、そんな具合のゆるい白シャツに袖を通している。
帽子も被っていなくて、その姿はほとんど部屋着に近い。
そんな兵馬は詩乃をキャッチして上に乗せた姿勢のままだ。
どけるタイミングも見当たらなかったのか、そのまま神妙な表情で口を開く。
「会うつもりはなかった……いや、じゃあなんでここに来たんだって話だよな。……その、ナトラは明日動くつもりだろ? 調べてたら様子がわかったから、あー、君がどうしてるのか気になって……」
歯切れの悪い口調でもごもごとそう言ってから、困ったように頭を掻いて台詞を切り替える。
「いや、僕がゴチャゴチャ言うより先に聞くよ。多分、君も色々言いたいこととか、聞きたいこととかあるだろうし」
(それは……もちろん、言いたいことなんていくらでもある。ええと……)
考えながら、詩乃は探り探りに口を開く。
「……晩ごはん、ちゃんと食べた?」
「ん? ああ、うん、適当に」
「何食べたの」
「その辺の店でパン買って、ライ麦のやつ。ミルクティーと一緒に」
「他には?」
「や、それだけだよ。派手にやらかして手配されてるし、街中を長くうろつくのはまずかったから」
「……野菜も食べなきゃダメだよ」
「お母さんか」
前にもしたようなやりとりを交わして、二人は小さく笑い合う。
だけど話さないといけないのはそんなことではなくて、詩乃は首を左右に振った。
それから、もう少し考える。
姿を消してから連絡もくれなかったことへの腹立たしさ。新人類の長命について黙っていたことへの不信。
得体の知れない存在だとわかった兵馬への少しの恐怖と、それら全てを塗り潰してしまうほどに大きな寂しかったという気持ち。
色々な感情がないまぜになって、生来の口下手さも相まって、そこにアルコールでぐらぐらと揺れる思考までが合わさって。
適切な言葉を見つけられず、詩乃は唸り……
ぐあっと、兵馬の首筋に歯を立てた。
「うおわっ!?」
緩めのシャツの首回りから左肩にかけての場所を詩乃に噛まれて、兵馬の口から今日二度目の驚き声が漏れる。
「なんで噛むんだよ! 君、そんな電波キャラだったか!?」
「…………」
詩乃は無言のままで五秒ほど噛み続ける。
それから口を外して、ぽつりと小さく呟いた。
「ムラっときたから」
「は、はあ……!?」
「あ、違う。ムカッときたから」
「……さっきから気になってたけど、君ちょっとだけアルコールの匂いがする。間違えて飲んだとか」
こくりと、詩乃が黙って頷く。
「はあ……」
困ったように嘆息する兵馬。姿勢は未だに芝生に腰をついて半身を起こした状態のまま、詩乃を抱きかかえたまま。
どうしたものかなと辟易する彼を、詩乃は正面からじっと見つめてきた。
詩乃の瞳は淡く澄んでいる。東国人、ミアズマの国の血だけでなく、父がザシャならユーライヤ西方の血も混ざっているのだろう。
混血だからこその不思議な色合いをしていて、兵馬はそんな詩乃の瞳が好きだ。
その詩乃は、噛んだことで落ち着きを取り戻したらしい。
相変わらずの口下手ながら、ゆっくりと落ち着いて言葉を見つけ、口を開く。
「聞いて、兵馬」
「……うん、聞こう」
兵馬はゆっくり頷いた。言葉を急かしはせずに、呼吸を合わせて静かに待つ。
「兵馬は私を守ってくれた。戦いに私がついてくのを許してくれた。私に戦い方を教えてくれた。それだけじゃなくて、色々なものを私に残してくれた」
並べる言葉の一つ一つに想いを込めて、それから詩乃は次の言葉を力強く口にした。
「でも私はまだ、兵馬に何もあげてない」
そこで言葉を切ると、兵馬の腹に軽めのボディブローを一発当てる。
「うぐっ!?」
「気になることは色々あるよ。プリムラは年齢詐欺じゃんって言ってた。私も、最初そう思った」
「……うん」
「でも……数字より、今まで接してきて、私は兵馬は子供みたいだって感じたの。何百歳だとかは知らないけど、兵馬は私より子供っぽい」
「子供っぽいって、それはどうだろう?」
「ううん、子供っぽい。マザコンだしね」
「うっ……」
以前から、マザコン呼ばわりされると兵馬はあからさまに嫌な顔をする。
それはきっといくらか自分でも図星なところがあるからだろうと詩乃は思っている。
そもそも、数百年以上も義母の死を引きずって引きこもっていた男がマザコン以外のなんだというのか。
「でも、そんなことはどうでもよくて……」
ぐっと溜めて、詩乃は兵馬の肩へと手を添える。
まっすぐ。今よりももっとまっすぐに深くまで、兵馬が閉ざした心の深層にまで届くように言葉の手を伸ばす。
「もしこのままあなたが私の前からいなくなって、あなたが新人類としてこれからもずっと生きていくなら、佐倉詩乃は兵馬樹にとって、いつかただの思い出になる。ああ、そんな子もいたなって」
「それは……そうだろうね。みんなそうなんだ。新人類と旧人類ってのは」
「それは嫌」
きっぱりと言葉を遮った。
兵馬の言う新人類や旧人類、そんな枠組みに意味などないと言うように短い否定を述べる。
また少しの沈黙が流れて、二人は静かに呼吸をする。
息を吸えば夜の澄んだ空気と、芝生と土の青い香り。そこに混ざってお互いの微かな香りが鼻をくすぐり、世界に二人しかいないような酩酊感がゆっくりと湧き上がる。
最初に落ちて捕まえて、そのまま体は添わせたまま。
お互いが息をするたびに肺の膨らみが伝わって、お互いが声を発するたびに声帯の震えが伝わってくる。細かな身じろぎの衣擦れまでが心地よい。
「私は、私のことを絶対に忘れられなくなるようにしたい。だから……」
「……何ももらってないなんて、そんなことはないよ。君とプリムラといた時間は楽しかったし、それにほら、食事や宿代はもらってたわけだし」
「違うの、そういうのじゃない」
詩乃はぐっと身を離して、強くかぶりを振る。
「私をあなたに刻み付けたい。誰にも負けないぐらい、一番強く。ターシャさんよりも強く」
「……うん」
「だから兵馬がいいって言ってくれるなら、私はもう一回噛む。もっと強く。血が出て、歯型が二度と消えないぐらい強く」
「だから、なんで噛むんだよ」
まるで所有権を主張するような物言いに、兵馬は小さく苦笑する。
思っていたよりも存外、詩乃は嫉妬深かったり独占欲の強いタイプなのかもしれない。
それと、アルコールが入ると少し性格が変わる。いつもの引っ込み思案とシニカルな物言いは鳴りを潜めて、感情表現がストレートになっている気がする。それと噛み癖と。
いつもの詩乃も今の詩乃も、そのどちらもが大切に思えて、兵馬は頷いてからゆっくりとその背に腕を回した。
「噛めばいいよ」
「……うん」
兵馬の肩、さっきと同じ位置へと詩乃は口を付ける。
小さな歯をあてがって、宣言通りに強く噛む。皮膚を裂いて、肉に歯をぐっと深く立てた。鋭い刃物で切られるのとは違う、じんと痺れる鈍痛が広がる。
その上を柔らかな舌が控えめに、ソフトクリームを舐め溶かすように這っていく。
応じるように、兵馬もまた詩乃の体を強く抱きしめた。
華奢だけれど柔らかい。アルコールのせいか、首筋に触れた頬はわずかに火照っている。
暗く冷えた夜の中、その温かさが心地よくて、兵馬はもう少しだけ腕に力を込めて身を添わせる。
薄めな胸の厚みを感じられるほどに身を寄せて、呼吸を合わせて、どれくらいそうしていただろうか。
「腕、痛い」
くすくすと笑いながらそう呟いたのは詩乃で、「痛いのはこっちだよ」と兵馬は笑い返した。
詩乃の口元には噛み跡から滲んだ血が付いていて、兵馬はハンカチでそれを拭ってあげる。
「うわ、血ってまずっ……」
「そりゃそうだろ、口に入れるもんじゃない。ほら、ハンカチ。そこに血も吐いていいから。血は催吐性があるから飲んじゃ駄目だよ」
「うん……兵馬も噛む?」
「いや、僕にそういう趣味はないな」
「噛みたくなったら言って。断らないから」
詩乃は目を伏せて、少し恥ずかしそうにそう口にする。
湧き上がった倒錯的な愛おしさを噛み殺して、兵馬は詩乃から身を離した。
「詩乃、僕は明日も一人で動く。君にはできれば戦いに混ざってほしくないけど……」
「ううん、私も戦うよ。私にしかできない役割があるの」
「……それなら止めない。決めるのは君の意思だからね」
それから、はっきりと口を開く。
「詩乃、君が大好きだ」
「私も大好きだよ、兵馬」
簡潔な言葉で思いを伝え合って、笑みを交わして、それだけで二人の気持ちは通じ合った。
もっと伝えたいことはあるが、今はこれで十分だ。
立ち上がると、兵馬は夜陰へ去っていった。
詩乃はその背を見送りながら、まだ残っている温もりの余韻に深呼吸を一つ、芝生にもう一度しゃがみこむ。
どこか現実味のない浮遊感の中、詩乃はまだ火照っている自分の頬をピシャリと叩いた。
「痛っ……夢じゃない、ね」
「ぷふっ、くっくく……」
不意に、頭上から笑い声が降ってきた。
見上げれば、詩乃が飛び降りた窓からプリムラが顔を覗かせている。
あからさまにコケにしたような笑い方に、詩乃は眉をしかめて声を投げ上げた。
「……なに笑ってるの、プリムラ」
「だって、詩乃がそんな乙女みたいなリアクションして……ふふふふ」
じとりと睨む詩乃を意に介さず、ひとしきり笑ってから、プリムラは夜空に向けてぐあーと伸びをする。
「あーあ、詩乃が全然稼いでこないヒモに捕まっちゃったよー」
「……ふふ、大丈夫。ちゃんと働かせるから」
「よし、私がビシバシ指導してやらなきゃ!」
プリムラはからからと笑う。
詩乃の護衛人形として最初は兵馬を警戒していた彼女も、詩乃と同じように彼と接してきて戦友としての信頼を抱いている。
それから「明日、勝とうね」と。
プリムラがしみじみと口にしたその言葉に、詩乃は「そうだね」と短く、深く頷いた。




