8.
一月ほど、シャーロットは週に一度の頻度でエリオットに誘われ診療所まで出かけた。そのうち、話し相手だけではなく受付まで任されるようになって、迷惑になっていないか心配になりながらも、楽しく過ごしていた。
毎年このくらいの時期になると決まって熱を出し、決まって同じ、嫌な夢を見ているが、今年はそのことをすっかり忘れていた。
けれど身体は忘れてくれてはおらず、当然のように毎年と同じことを起こしたのだった。脚が動かなくなった、あの日の夢をまた今年も見る。脚が動かなくなったこの時期に。
髪を引っ張られて、頬を打たれながら、シャーロットは声をあげていた。
ごめんなさい、ごめんなさいっ!
何が起こったかわからないのっ!
ごめんなさい叔母様っ!
ごめんなさいっ! もうぶたないでっ!
泣き叫びながら謝っても、叔母の顔から憎しみが消えることはなかった。
怖くて怖くてたまらなくて、叔父も叔母も、自分の知らない人のようで、とくかく他の誰かに助けてほしかった。助けて、助けてと叫んだ。
だけど今では心底後悔している。だって、誰かに助けてほしかったのは本当だけれど、あの子の心に傷を作る気なんてなかった。
***
「おはよう」
「……おはようございます」
ベッドの横に椅子を置いて座っているエリオットに、何から訊くべきか迷ってしまう。
「エリオット様は、なんのお医者様なのでしたっけ?」
「歯以外はなんでも」
「あらぁ……虫歯は治せないのですね」
「そう。勉強不足で申し訳ないね。他に訊きたいことはあるかな」
困ったように笑うエリオットを見ながら、シャーロットは自分の額に手をあてた。氷が置かれている。
「今日は、土曜日では……?」
「いいや、日曜日だよ。昨日から寝たきりで時間の感覚がわからなくなっているんだね」
「そうでしたか……」
ふぅっと溜息をつくと、息まで熱かった。
生理的に涙が出てきて、エリオットの顔がぼやけて見える。
「診てくださったのですか?」
大きな手で、涙をぬぐわれた。悲しいわけではないのですよ、と言うと、苦笑してわかっていると返された。
「そうだね。風邪だね」
「そうですか……」
わかっているけれど、初めて知った風な態度をとった。
冷たい手が頬を撫でて、気持ちよくて目を瞑った。
「ごめんなさい、せっかく来ていただいたのに……」
「いやいや、僕は医者だからね。君の体調が優れないときこそ本領が発揮されるというものだよ。君が健康であるに越したことはないんだけど、いやあ、仕事をしているなあと自覚する仕事をするとほら、どんな女性も僕に惹かれてくれるらしいから、君が謝る必要なんてまったくない」
頬をつつかれて、シャーロットは目を開けた。
「ですけど、ずっとついていてもらうわけにはいきません。エリオット様は、皆のエリオット先生ですもの。風邪がうつってお仕事をお休みすることになれば大変です」
エリオットは何が楽しいのか、頬をつつくことをやめない。
「こんなことは言いたくないけどね、甘えるのが下手な女の子は可愛くないなと、僕は思うんだよね」
あ、これ、お見舞いね、と、花束が差し出された。
「だからこの際、君、僕に甘えてしまいなさい」
シャーロットが花を受け取ると、手の上に、エリオットの手が重ねられた。
「君と知り合ってそう長くないから、君のことをわかったように語る気はないよ。ただ、短い期間でも君と接して思ったのは、君は言葉をのみこみ過ぎていること。それと、大きな隠し事が本当は辛くて、苦しんでいて、自分の身を滅ぼしかねない危うい状態なのだろうということだよ」
大きな秘密。家族と、家族になる予定の人にしか話せていない秘密は、シャーロットにとって悲しい過去だ。リアムにとっても。
そして家族にとっては忌まわしい過去。
優しげで、悲しそうなエリオットの顔が視界に入って、口を滑らしそうになる。
この人はなんなのだろう。ずるいわ。優しくって、図々しくて、暖かくて、全部打ち明けてしまいたくなる。
「僕はまだ、君にとって信用できない相手かな」
「お気を、悪くしないでいただきたいのですが……。私の知っているエリオット様がお芝居でない可能性もないわけでありません。私たちが知り合ってそんなに経っていませんもの」
だけど、
「だけど私は、兄のことを怪物だと思っているのです」
「怪物? アディが?」
「ええ。昔から、何でもできて、嘘はすぐに見抜いて、愛想はないくせに実は純粋で真っ直ぐな人なんです。完璧超人なんです。その、怪物みたいな兄が信頼する人なら、きっと私の知っている優しくて時々ちょっぴり失礼なエリオット様は、嘘ではないのかなと、思うのです」
「そうかい」
エリオットは満足そうに微笑んで、一度シャーロットに渡した花束をまた取って行って机の上に置いてくれた。
話して、眠って、熱が下がった時に後悔したなら、全部熱のせいだったと言ってしまえばいい。エリオットはそう言うが、そんなに無責任なことはできそうになかった。
もしかしたら、いいや、間違いなく、シャーロットは話し終えたら後悔するだろう。シャーロットだけの問題ではないのに、無責任に他人にばらしてしまうのだ。それでも、聞いてほしかった。
この人は今まで自分の周りにいた人たちと違った世界に生きていて、違った見方を持っていて、違った考え方を持っていて、間違いなく優しい人だから。この人にしか思いつかないような言葉をかけてほしかった。
この人なら、自分とリアムを救ってくれるかもしれない。会って二月と少ししか経っていない彼に、無責任に期待を寄せてしまう。
「……とてもとても、可哀想な男の子のお話です。きっと、主人公は女の子ではなくて男の子の方なんです。悲劇の主人公にされてしまった可哀想な男の子」
それまでずっと、暖かな世界で生きてきたのに。
可哀想な私の従弟。あの子にならば、恨まれても仕方がないと思う。
「その子は従兄妹の兄妹と仲が良くて、よく、両親と一緒に伯父一家の元へ遊びに行っていました。彼は一人っ子でしたから、本当に、従兄妹たちと兄弟のように過ごしていたんです」
声が震えてくると、ぎゅっと手を握られた。
「だけど、ある時、兄妹の兄の方と一緒に散歩から伯父の屋敷に戻ってみると、妹の部屋から泣き叫ぶ声が聞こえたんです。彼女は家庭教師の宿題をするために部屋で留守番をしていたのですが、声は、謝っていたり、痛い、助けて、そんなものでした。部屋は奥の方にあって、使用人はまだ誰も気づいてはいませんでした」
だから、彼は従兄と一緒に従姉の声のする方へ走って行って、見てしまった。
「自分の母親が、まだ子供だった従妹を売女と罵りながら痛めつけていた姿を、彼は見てしまいました。その横では、顔を真青にした父親が黙って床に座り込んでそれを眺めていて。彼が状況を理解するより先に、年上の従兄は彼の母親を突き飛ばし妹を取り上げて……、それからは、あっという間でした。伯父夫婦や使用人たちはすぐに駆けつけて」
何があったか、言わなくてもエリオットはわかっているようだった。当然。だって、エリオット様は頭がいいもの。
けれど顔をしかめるでもなく、同情的でもなく、ただ黙って、真剣に聞いている。
「彼の父親は、その……、つまり、そういう趣味があって、姪の部屋へ忍び込んで姪と行為をしようとしたのです。抵抗した彼女は行為に及ばれる前に声を聞きつけた彼の母親が駆けつけたことでその危機からは脱したのですが……、彼の母親にとって悪者は夫ではなく姪だったわけです」
それで、彼の従妹は、シャーロットは髪をつかまれ引きずりまわされて、殴られて、蹴られて、けれど、助けてくれる人はいなかった。叔父は放心状態で、叔母に声は届かない。
それまでずっと優しかった叔父と叔母は見る影もなかった。
「結局、彼の従妹は打撲程度の怪我しか負いませんでしたが、どれだけ体力が回復してもすべての怪我が治っても脚だけは思うように動かせなくなりました。そして彼の両親は彼の伯父に持つ物全てを取り上げられた上で一族を追放されました。彼の母親の実家も、彼の両親との縁を切りました。そして、なんの罪もない彼は伯父に養子として迎えられました」
だけどリアムはいつまでたっても自分を姉と、アドリアンを兄と呼ばない。いつまでたっても、子爵夫妻を伯父上、伯母上と呼ぶ。
それが痛ましくて、そして彼から両親を奪う原因になってしまった自分がひどく情けなくて、父は、もっと彼のためになる方法があったのではないかと悩んで。
その上この動かない脚は、リアムの罪悪感を増幅させる。彼は、何もしていないのに、両親の分まで自分が責任を背負わなければならないと言う。
「歩けなければ、人と出会わなくていい。人と出会わなければ、怖い人に出会うこともなくて楽。きっと私はどこかでそう思っているんです。だから、自分の脚なのに自分で動かせない。あの子を追いつめているとわかっているのに、この脚はいうことをきいてくれない」
なんて、なんて、情けない。
「私だってあの子を、リアムを、愛しています。けどあくまでそれは家族愛で、あの子のもそう。結婚なんてしても、あの子は幸せになれないんです。私といれば、あの子は一生過去に縛られたまま。医者になる、なんて言うのも、私のせいなんでしょうね。本当になりたいのなら、マックスくんのように堂々と夢を語れるはずですもの」
握っていた手を、エリオットはぽん、ぽん、と撫でるように叩いた。
それから、難しい顔をして唸った。
「それは、君にも悪いところがあるね、シャーロット」
そうやってはっきり言われたことがなかったので、シャーロットはエリオットから目を離せなくなった。
「リアムばかりが、過去に囚われているのではないよ。共依存、と言うのかな。僕には君自身もリアムに縋っているように思えるよ。リアムに対して罪悪感を抱いて、彼を受け入れられないとわかっていても彼を拒絶できないんだ。そうだよね」
話しているうちにまた出て来た涙をぬぐわれる。
「僕は他人だから、どう言ったってどうしても無責任に聞こえるだろうけど。君はリアムにはっきりと、気持ちを伝えなければいけないよ。貴方は馬鹿ねと、彼に言っておやりよ。貴方が私に何もしてくれなくたって私は自分で幸せになれるわと、高らかに言ってやればいい。彼は君の家族なんだろう? それなら、何も心配なんていらないさ。簡単に嫌われやしないよ」
突然立ち上がったエリオットは自分の顔を指さした。
「僕なんて見てごらん。散々好き勝手やって、貴族社会じゃメラクリーノ家の汚点なんて言われてもなんだかんだまだエリオット・メラクリーノのままなんだよ。文句や我儘や愚痴を言いながら親も兄妹もよく遊びに来てね。狭いだの誇り臭いだの人の作った食事をまずいだの酷い言いようだけど、それでも僕は彼らをかけがえのない人たちだと思うし、彼らは僕を家族だと言うんだよ」
おどけるように肩をすくめた彼は、ふざけているようだけど、自分を笑わせようとしているわけではないとわかった。
するすると緊張がとけていく。
やはり彼は天職についたのだろう。こんな人といたら病気なんて治ってしまいそう。お日様みたいな人。
「それにね、シャーロット。君はもう、歩けるよ」
「……え?」
「だって君は楽しそうに笑うじゃないか」
腰に手をあてて、にっこりと笑うエリオットはとても眩しく感じる。
「君はこの一月でたくさんの人に出会ったね。怖いことはあったかい? もう外に出たくないとまだ思うかい?」
「そんなこと、ありません!」
「そうだよ。楽しいことというのはね、探さないと見つからないよ。外に出ないと、歩かないと。閉じこもっているのはあまりにもったいないじゃないか。君は、楽しいことを探す楽しみをきっと知ってしまったよ。もう、長時間腰を下ろしっぱなしにするのが耐えられない体になってしまったに違いないよ」
ふっと、無意識に笑ってしまった。
「それはエリオット様のせいですね?」
「では責任をとって、君の最初のお散歩先は僕がうんと素晴らしいコースを用意しておこう」
君はもう、歩けるなんて。なんの根拠もないくせに。
それでも、自信満々に言う彼は嘘なんてつけない人だと思う。
「けどまあ、先に風邪を治すことだね」
「そうですね。……まだおかえりにならないのですか?」
「帰ってほしいかい?」
うつってしまったら、大変だから。
「建前は、そうですわね」
「本音は違うと信じて、もう少し居座ってしまおうかなあ」
結局その日、エリオットは毎週のように夕食も食べて帰っていったのだった。