4.
次の日曜日。
シャーロットは筆を持つ手をプルプル震わせた。
筆を置くのは悔しいが、続ける元気もない。
隣でエリオットが苦笑しているのがわかった。
「ええと……。独創的で素敵だよ」
「エリオット様。声が震えています」
エリオットの楽しいこと探しの第一弾は、絵と編み物だった。
先に始めた絵はもう四時間もかけて完成させたが、子供でももっとましな絵を描きそうなものだった。
エリオットがシャーロットにと買ってきてくれた花を描いたのだが、もはや花であることもわからない。しばらく描いていなかったから感覚が失われたのかもしれない。五歳の時の自分の方が下手をしたらうまく描けるだろう。
「ご……め……」
「いいんですよ、笑って」
「笑うなんて……、そ、んなこと……っ。く……っ」
笑いを噛み殺しているのがわかって不憫に思えてきた。
「少し外に出るね」
なんのために、なんてシャーロットは訊かない。
エリオットが部屋を出た瞬間、扉の向こうから大きな笑い声が聞こえた。近くを通った侍女が驚いていないといいけれど。
三分ほど経って笑い声が止むと、エリオットは何事もなかったかのように微笑を浮かべて部屋に戻って来た。
「エリオット様。私の家はいたるところの壁が厚いわけではないので、実は物音がよく聞こえてしまうんです」
エリオットはほんの一瞬だけ顔を強張らせたが、
「そうかい」
あくまでとぼけるつもりらしい。
「そうだ。次は編み物をしてみようか。毛糸を買ってきたんだ」
絵は諦めたらしい。どんなものでも練習が人を上達に導くのだろうが、絵に関してシャーロットへの期待を完全に失ったらしかった。
それはシャーロットも同意なのでねばったりしない。
「知り合いにマフラーの編み方を習ってきたんだ。一日では完成できないだろうけど、地道にやってみようか」
「そうですね。継続は力にもなりますものね」
エリオットは鞄から編み方をメモした紙を取り出した。細かいポイントなども書かれている。
三時間後、彼も彼女も後悔した。何故始めてしまったのだろうと。
「エリオット様、人間には向き不向きというものがあると思うのです」
「実に正論だねシャーロット。僕たちには編み物が向いていなかった。決して僕たちが不器用なのではなくてね」
これだけ時間をかけて編めたのは五センチほど。しかも、編めたと言っていいのか怪しいくらい歪な出来上がり。ゴミを集めて固めたと言われたら納得してしまいそうな出来だった。
二人そろってなのだから作り方のメモに問題があるのではとも疑ったが、これだけしっかりと書かれたものが間違っているとは思えなかったし、一つ間違えたってここまで酷い出来にはならないだろう。
「もう七時ですね」
「そうだね。残念ながら今日の収穫はなかったけれど、こういうのは根気がいるからね。来週も頑張ろう」
「あら、そんなことはありません。少なくとも絵と編み物は向いていないとわかってではないですか」
「そういうポジティブな考え方はとてもいいと思うよシャーロット」
時間も時間だしもう帰るかな、とエリオットが立ち上がったと同時に、部屋の扉がノックされた。
もう夕食の支度ができたとのことだった。
「それじゃあ、エリオット様をお見送りしてから行くわね」
「気を遣わなくていいよシャーロット。君のご両親やアドリアンも待っているだろうから」
そんなわけにはいきません。いやいや、悪いから。そんなことを言い合っていると、侍女が申し訳なさそうに 「あのぅ」 と声をかけてきた。
「メラクリーノ先生もご一緒にと、旦那様が……」
「え?」
「あら……。エリオット様、お時間は大丈夫ですか?」
「僕はありがたいけど、ご迷惑じゃないかな」
侍女がぶんぶん首を横にふる。これでエリオットを帰してしまえば怒られるのは彼女なのだ。
エリオットもその侍女を見てわかったのか、頷いて一緒に夕食へ向かうことになった。
車椅子を押しながら、エリオットとシャーロットを交互に見た侍女は嬉しそうに笑ってシャーロットを見て力強く頷いた。シャーロットはわけがわからないながらも頷きを返した。
後で知ったのだが、シャーロットお嬢様とメラクリーノ医師は恋人であるという噂が侍女の間で交わされ、兄は何も否定しなかったらしい。
「出来上がった食事にすぐにありつけるなんて久しぶりだから嬉しいよ」
「ああ、ご自分で作っていらっしゃるのですよね」
「そう。外食をする余裕もないから実は今、少しうきうきしているよ」
「私も、練習すれば作れるようになるでしょうか」
「なれるよ。絵や編み物と違って料理は才能がなくても必要に迫られれば自然と身につく」
絵と編み物の才能がないと言っていることを彼は自覚しているのだろうか。
「そうだ。来週は料理に挑戦してみようか。丁度いい、これから子爵に許可をもらって、帰りにここの料理長にも確認しよう」
「お料理でしたらエリオット様もできますものね。……あ」
「そうだね……」
悪気はないがそれ以外はできなかったですものねと遠まわしに言ってしまった。
傷ついたように胸を押さえていたエリオットは、しばらくしてからくつくつ笑いだした。
「君はよく顔にでるなあシャーロット。気にしすぎだよ」
目の端に涙を溜めて笑うエリオットに唇を尖らせると、彼は顔を俯かせてもっと笑った。
「君たち兄妹はあまり似ていないね。アドリアンは普段何を考えているかなかなかわからないから」
「う……」
兄に似ていないとはよく言われる。別に気にするほどのことではない。似ていない兄妹なんて珍しくない。
ただ、多くは悪意のあるもので。赤毛は父方の祖母と同じだったが、この赤毛と両親、兄を見比べて本当に子爵の娘なのかと言われることもあった。そんなことを陰で囁いた使用人は翌日には父によって解雇されるが、幼い頃は気になって仕方なかった。
「や、やはり、兄と私は似ていませんか……」
「そうだね。顔立ちはよく似ているけど、君の兄上はユーモアが欠けているから」
「それはエリオット先生が言われたことですわね、エリオット様」
顔立ちは似ている。そうだろうか。
自分の顔をぺたぺた触っていると、エリオットに苦笑された。
「触ってもきっとよくわからないと思うよ」
「そうですね……」
「目元は兄妹そっくりだけど、鼻と口は夫人に似ているかな。雰囲気は子爵に似ているし……、あとは、そうだね、髪は違うね。君は紅茶みたいな髪の色だ」
「紅茶……ですか?」
それは、初めて言われた。
赤い髪はまるで錆か、土のようであまり好きではない。
「うん、紅茶。僕は詳しくないけど妹がよく持ってきてくれてね。彼女はローズヒップティーがお気に入りで一緒に飲んでいるうちに僕もすっかり気に入ってしまったよ。まあそれくらいしか種類は知らないけど、あれと君の髪の色はよく似ているんだよね」
自分の髪を一房つまんで、紅茶……と呟いた。
エリオット様がお気に入りの紅茶と同じ色。なんとなく、髪の色を褒められた気がして嬉しくなった。そうだ、今度誰かに髪を錆色と言われたら、これは紅茶色なのよと言って胸をはってやろうと密かに決めた。
食卓につくと、当然のようにシャーロットとエリオットは隣に座らされ、家族のわかりやすいやり口にうんざりした。
エリオットが気にしていないのが唯一の救いだ。
「長居して、食事までいただいてしまって申し訳ありません」
眉を下げて苦笑するエリオットに、母は苦笑しておっとりした口調で答えた。
「こちらこそ、お引止めしてしまって申し訳ありません、メラクリーノ先生。主人の我儘に付き合っていただいて、ありがとうございます」
「いえ、とんでもない。普段一人で食事を摂っているものですから、こうして誘っていただけて嬉しい限りです」
さすがに、子爵や子爵夫人の前で自炊しているとは言わないのね、とシャーロットはくすりと笑った。
「先生には感謝しています。娘の脚についてはどの医者も逃げ出す始末でした。いやはや息子の友人にこんなにも素晴らしい医師がいるとは、私たち一家は運がよかった」
そう言って声高々に笑う父に、シャーロットは苦笑する。逃げ出すと言うか、追い出したと言うか、と。
「エリオット様、あまり、耳をかさなくても問題はありませんよ」
どうせ家族はうまくすれば自分とエリオットをくっつけられるとでも思っているのだろう。エリオットや自分の意思は関係なく。
小声で伝えると、エリオットはにこにこ笑って首を横にふった。
まあそうだろう。友人の両親で患者の両親でもある子爵夫妻を無視なんてできるわけがない。
「なに、一人で食事? それは寂しいだろう。君さえよければ毎週うちで食べて行けばいい」
棒読みするアドリアンに、白々しい……と目で訴えかけると、隣のエリオットも同じような目で兄を見ていた。エリオットが一人で食事をしていることくらい、兄はずっと前から知っているはずだ。無理に芝居をするからぼろが出ている。
「先生はどんな診察をなさるのかしら」
母の質問はシャーロットに向けられた。
正直に答えていいのか、診察と言うよりも雑談をして、趣味探しをしていると。エリオットの顔を見ると、笑って、どうぞ、と首を傾げていた。
「今日は、絵を描いたり、編み物をしながらお話をしたんです」
父も母も兄も驚いているが、エリオットが気にしていないのでシャーロットも気にしないことにした。
「それは、診察……なのか?」
父の質問に、エリオットと一緒に頷いた。
「はい。色んな楽しいことに挑戦しているんです。あ、でも、絵は私だけが描いてエリオット様は見ているだけなんです。お父様には見せられませんよ。もう十分笑われましたもの。編み物は、マフラーを編みました。私もエリオット様もあまり向いていなかったみたいです。今度は、お料理をしたいなって。お父様、調理場を使ってもいいですか? 料理長にも後でお願いしますから。上手にできたらお父様とお母様にもお届けしますね」
一人でしゃべりすぎていることに気づいたシャーロットは最後まで言いたいことを言うとはっとして口を閉じた。
ただ、調理場のことは確認しなくてはいけないので首を傾けて父を見る。
父は何故か嬉しそうに笑いながら何度も何度も頷いた。そんなに何度も頷かなくてもわかったのに。
「それじゃあ、お二人の好きなものにしようか」
「ええと、父も母も甘い物が好きなので何かお菓子がいいかと思います。難しいですか?」
「そんなことはないよ、お菓子なら初心者に向いているものが多いから」
「あ、だけどまだ料理長の許可をもらっていません」
そこで父が声をあげた。
「私が反対なんてさせないさ。いや、そうか、そうか、お前が料理を。それは楽しみだ、なあ?」
父に声をかけられた母もそれは嬉しそうに頷いた。
「そうですわねえ。今から来週が楽しみだわ」
母に声をかけられたアドリアンは何故か皿の上をぼうっと見つめて黙っている。
「君には僕からあげようか、アドリアン」
「結構だ、友よ」
ああ、とシャーロットは思い出す。
「そうだわ、もう一人あげないと」
アドリアンが勢いよく顔をあげた。
「リアムにはどうやって届けようかしら」
エリオットが、むせながら笑っていた。