11.
脚をマッサージするのは、さすがに自分がするわけにはいかないと、エリオットは侍女に方法を教えてからシャーロットの部屋に来た。
昨日もだったが、平日の夜に彼に会うのは不思議な気分だ。
「こんばんは、シャーロット。昨日ぶりだね」
「はい。わざわざ来ていただいてありがとうございます」
両手を重ねながら一時間近く歩く練習をして、帰る前にほんの少しお茶を一緒に飲むことにした。
こんな時間にお茶とお菓子なんて、美容のの敵だけれど、今日一日くらいは美の女神さまもお許しくださいますように。
話の内容は主にリアムのことで、本人に他言してもいいことを確認したうえでエリオットに報告をした。
医者になるための勉強の傍ら、弁護士に興味を持って行ったこと。憎んでいるが、いつかは両親に会いたいとも思っていること。ノースロップ子爵一家を本当は、兄と、姉と、母と、父と呼びたかったが同時に鬱陶しく思われないかと不安だったこと。
それと、これはエリオットには教えないしリアムにも口止めをされたが、今でこそそんな気持ちでないものの、俺の初恋は確かにお前だったと、照れながら教えてくれた。
と、そんな風にリアムのことを一通り話し終えると、エリオットは心配そうにシャーロットをのぞきこんだ。
「ところで、君はこれからどうするんだい?」
「私ですか?」
どうする? とは?
「君はもう長らく社交の場へ姿を出していないね。突然夜会に出ても不躾な視線を送られるだろうし、これまで何故出てこなかったのかと探られるだろう。リアムのご両親のことが広く知れ渡るのは君たち一家の本意ではないよね。けれど君は脚も治って、これ以上閉じこもっていてはいけない人になった」
それはきちんと考えています、とシャーロットは胸をはる。
「一人暮らしを始めようと思っています。家庭教師のお仕事は私にもできるのではないかと思うんです。会社に登録さえしてもらえれば、雇われ先に私の素性を探る気も起きないでしょうし……」
エリオットが、少し意地悪気に笑った。
「そんなにうまくいくかな」
これには驚いた。
彼は伯爵家に生まれながらも中流階級の街でに一人で住み、働く人だ。貴族が一人暮らしなんて、とは言ってこないと予想していた。それはいい考えだと言ってくれると思った。
シャーロットがむっと頬を膨らますと、エリオットは肩をすくめた。
「君はずっと自分の家にいたのだから、僕とは少し違うよ。寮生活を経ていない君がいきなり一人暮らしをしてうまくいくわけがない。それに、君は家庭教師を雇う子供の親でないから知らないだろうけれど、いくら協会に登録しても親は子供を任すのだからあらゆる手段であらゆることを探ろうとする。空白の時間が存在する君に子供を任す親なんていないだろうね」
兄夫婦を見て、それはよく知っている、と彼は言う。
彼が話すのはあまりにも正論で、自分の浅はかさがどんどんと恥ずかしくなっていく。
「よって、君に残される選択は必然的に結婚だけ、だね」
「それは……。はい……」
肩を落とすシャーロットに、エリオットは笑って首を傾げる。
「嫌なのかな?」
「それは、これ以上家族に迷惑はかけられませんし、我儘だとはわかっています。けど……」
せっかく歩けるようになって、自由に動き回れるようになった。
「走りまわったり、自分でご飯を作って、まだまだ楽しいことを探し回りたいんです」
「なんだ。それなら、とてもいい方法があるじゃないか」
エリオットは名案を思い付いたと言うように人差し指を立て、にこりと笑う。
「結婚する相手が僕だったら、すべて解決するね」
お菓子に伸ばしかけていた手を止める。
「……はい?」
「僕と結婚すると、なんと家事は夫婦で分担制、お上品にしずしずとする必要もない。とても簡単で合理的な話だと思わないかい?」
「……はい?」
「さらには毎週日曜日に君の楽しいことを探す旅に協力する夫だよ」
これ以上の好物件はないのではないかな? と、こちらに答えを求めて来るエリオットにうまく頭が回らない。
「結婚をするつもりは、なかったのでは……」
するとエリオットは力強く頷いた。
「ええと、あの、私に気を遣ってくださらなくても……。そこまでさせるわけにはいきません」
「さすがに、気遣いだけで結婚をしようとは言わないよ」
動かないでいた手がエリオットの両手に包まれた。
いつもより、明らかに、彼の手の熱が高くて動揺した。
「で、ででででも! 結婚をするつもりはないとおっしゃって……」
「そうだね。結婚するつもりはなかったよ。少し前まではね。現実味が湧かなかったし、一緒になりたいという相手もいなかった。女性との交際経験はあるけれど、それは相手が僕を求めてくれるのに断る理由をうまく言えなかったからだ。だから、僕が愛や恋を語ると安っぽくなるかもしれない」
手の甲に口づけられて、耳まで熱くなるのを感じた。
「けど、君が僕の仕事を受け入れてくれて、僕自身が誇る仕事をしている自分を君に認められると、他の誰にどう言われても思われてもどうでもいいと思ってしまうんだ。それだけではなくて、僕は君と一緒にいると時々どうすればいいかわからなくなってしまうよ。君の笑顔を見ると時々呼吸を忘れるくらい見惚れてしまって。君が辛そうな顔をするたび抱きしめてしまいたくなるんだ」
少しだけ、エリオットの笑顔が崩れた。
手から伝わってくる熱が、どんどん上がっていく。
「本当は、君がリアムのことを楽しそうに話すのも面白くないし、夜会へ出て僕の知らないところで男と話すかもしれないことが嫌で仕方がない。仕事を終えて家に帰って一人になると、君のことばかりを考えてしまうんだ」
怒涛の勢いで甘い言葉を送られて、シャーロットはうまく処理できない。なにせ、こんなことを言われたのは生まれて初めてだ。
加えて、いつも涼し気に微笑んでいたエリオットの顔が赤く染まっていくことで冗談でないことが伝わってくる。
「あの……っ、あの……っ、私は、その、私もまだ、恋愛は、したことがないのでよくわからなくて……っ! ただ、一人になると貴方のことを考えてしまうのは同じで……。それに、私の知らないところでエリオット様が女性と恋仲になるのはやっぱり私も穏やかではなくて……でも、結婚、なんて、想像もしていなかったので……」
なにせ、できすぎた人だ。
まさか、自分などに結婚はどうかと言ってくるとは思ってもみなかった。
「年齢の差も、気になるかもしれないけれど。僕は間違いなく、君に、惹かれているんだ」
まっすぐに向けられる熱のこもった視線に、肩がすぼまっていく。
やっとの思いで掴まれていない方の手をそろそろ挙げた。
「結婚ではなくて、その……、しばらくの交際期間を設けることを提案したいのですが……、いかがでしょうか」
表情をこわばらせたエリオットは、シャーロットに顔が見えないようにして俯いた。
「なるほど。じゃあ、一月にしよう。一月僕と一緒にいて、この人とは絶対に結婚できないと思わなければ僕と結婚してくれるかい?」
「はい……。……え? ……えっ!?」
エリオットの自らへのハードル設定が低い。
顔をあげたエリオットの表情はもうこわばっていなかった。いやらしい笑みは、言質をとったぞと言っている。
「今日は少し、強引ですね……?」
「そうかな。そうかもね。余裕がなくなるくらいには、いつの間にか君に惹かれていたということだよ」
ふぅっと溜息をつく。落ち着こう。この顔の熱を冷まさなければ。
「……どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。ああ、一月経つ前に君が結婚をする気になったら、予定が早まる分には何も問題はないからね」
頬を引きつらせながら笑って、内心で思う。
きっとこの人は外堀を恐ろしい早さで埋めて来るに違いない。というか最早家族はエリオットへの評価が大変高く、シャーロットの恩人となれば余計彼を勧めて来る。兄も兄の恋人も。そして彼の患者たちも。
逃げる気はそもそもないけれど、逃げ道は完全に消されるだろう。
「花嫁修業をする期間も要求させていただきます」
「それは花嫁になってからでもいいよね。却下だ。では僕は子爵にご挨拶をしてから帰ることにするよ。また日曜日にね、シャーロット」
「はい……」
頬に手をあてて、エリオットが部屋から出て行っても、今日は冷静にお見送りなんてできそうにないとなかなか椅子から立てない。
数秒して、うん? と違和感を覚える。
「エリオット様……っ? エリオット様っ! ご挨拶って、今日は帰ることを伝えるだけですよねっ? エリオット様っ!!」
部屋を飛び出して数歩走るも、すぐにこけてしまった。
体を引きずりながら腕で進んでエリオットの名前を呼び続けていると、急ぎ足で引き返して来たエリオットに抱きかかえられた。
「そうだ。君も一緒にいた方がいいに決まっていたね。二人のことだ、二人そろって挨拶をしに行かないといけない」
「だから、挨拶って……! まだ一月どころか一時間も経っていないのに……!」
「先に報告だけすればいいよ。式は、一月後で」
こうやってこの人は外堀を埋めていくのね……! と、赤くなった顔を隠すために、やけくそになったシャーロットはエリオットの胸に顔を埋めた。