9.
久しぶりに会ったリアムは少しだけ髪が伸びていた。背も、伸びた気がする。たった二月。そう思っていたけれど、二月はそんなに短くないのかもしれない。
夕食の席に当然の如く同席しているが、もちろん今日も授業のある彼がいるのはおかしい。ついにセレステの弟を撒いて脱走をしてきたようだ。
救いは、日曜日でないことか。エリオットと鉢合わせたらまた失礼なことを言うに違いない。
「リアムはいつ学校へ戻るの?」
「戻らせたいのか、シャーロット」
「そうよ。そろそろ退学にされてしまうわ」
「俺の成績でか? そんな惜しいまね、学校側はしない」
シャーロットが溜息をつくと母も同じように溜息をついた。父は苦笑いして、アドリアンは素知らぬ顔で食事を続ける。
「シャーロット、体調は、いいのか?」
心配そうにこちらを見て来るリアムは、毎年シャーロットがうなされる時期をわかって帰って来たのだろう。
熱を出すといつも三日四日長引くのに、今年は日曜日、エリオットが帰るまでのうちに熱が下がって、今日はもうすっかり元気になった。
「ええ、なんともないわ」
「優秀なお医者様がいらっしゃるものねえ」
母がすかさず言ったことで、リアムがあからさまに不機嫌そうにする。
家族から学園へ手紙を送ってはいるが、少なくともシャーロットはエリオットのことについて触れていなかったのでリアムがどこまで知っているかはわからない。
「そういえば、次はいつメラクリーノ先生のお手伝いに行くのかしら」
「いえ、まだ病み上がりなので、患者さんにうつってはいけませんから今週はお断りしました」
カシャン、と、フォークとナイフの音がする。
「手伝いだって? お前、そんなことをやらされているのか?」
「やらされているのではなくて、やらせていただいているのよ」
「どうして庇うんだ。何か弱みにつけこまれているのか?」
アドリアンが、テーブルに拳を落とした。
母が眉間に皺をよせ、うちの子たちはいつからこんなにお行儀が悪くなったのかしらとぼやく。
兄がすごんでいる姿に委縮するのはシャーロットとリアムだけだった。
「彼は私の友人だぞ、リアム」
その彼を侮辱されていい気はしないなと、そういうことだろう。
「……そんなこと関係ない。だから、なんだ? アドリアンの友人なら何かが変わるのか? どうせ今までと同じだ。何も知らない他人にできることなんてたかが知れているだろう。どうして裏切られるとわかっていて期待をするんだ? 理解不能だ。どうかしている!!」
声を荒げるリアムを、家族皆で驚愕して見ていた。
彼が従兄に反発したのは、たった今が初めてだった。
「口先だけのやぶ医者どもに、シャーロットの脚が治せるはずがないだろう! 俺が……っ、俺が治すんだ……! 誰にも治せないから、俺が……!! 俺たち家族がいなければ、シャーロットは苦しむことなんてなかった! だから、俺は……!!」
違う。貴方は何も悪くない。
家族皆、そう思っているはずなのに、誰も何も言わない。今の彼にはどんな声も届かないことがわかっているから。
けれど、縋るような目が向けられた時、自分はただ彼を眺めているわけにはいかないと気づいた。
足元が脈をうった気がした。
『君はもう、歩けるよ』
声が聞こえた。
無責任な言葉。
だけどうっかり信じてしまう声。
『貴方は馬鹿ねと、彼に言っておやりよ』
そうですね。きっと言わないと、この子は気づいてくれないわ。
「貴方は馬鹿ね、リアム」
『貴方が私に何もしてくれなくたって私は自分で幸せになれるわと、高らかに言ってやればいい』
そうよ。私は子供じゃないのだから、誰かに道を用意してもらわないと生きられないような弱い存在じゃない。
「貴方が私に何もしてくれなくたって、私は自分で幸せになれるわ。私、貴方のお姉さんですもの。貴方の重荷になったりしないわ」
『君はもう、歩けるよ』
『だって君は、楽しそうに笑うじゃないか』
立てる。
大丈夫。
だって、ねえ、私。立つだけで、また可愛いリアムに笑顔が戻るの。歩くだけで、楽しいことを見つけられるの。
少しの勇気を出すだけで、世界は今より鮮やかになるの。
フォークもナイフも置いて、深呼吸をする。
食事中に立つのはお行儀が悪いわ。
ああ、けれどそんなこと些細だわ。だってエリオット様はおっしゃっていたもの。一人暮らしをしていると、食事中に立って、自分で飲み物を注ぐのだと。それをする姿を見ても、家族はほんの少ししか呆れないって。
「だってね、私たちの可愛いリアム。私たちは皆、貴方のことをとても愛しているのよ」
テーブルに手をついて、怖くない、痛くない、と自分に言い聞かせる。
つまさきが床に触れて、ピリッとした。けれどそっと目を閉じると、また、声が聞こえた気がした。
『外に出ないと。歩かないと』
楽しいことは、見つけられないから。
「ほら、ね? 私は自分の足で立てるから」
バランスをとるのはこんなに難しいことだったっけと、ふわふわした気持ちになる。今より、幼い頃の方がずっと上手に歩けていた。
ただ、立っているだけなのに、倒れてしまわないか怖い。
けれどシャーロットの足は今、地について、二本の脚でバランスをとっている。
痛みはない。感覚がないなんてこともない。足の裏に感じる。立っているという感覚。
自分に向けられるすべての視線がチクチクしてくすぐったい。母の、嗚咽が聞こえて、父が、呻く声が聞こえて、兄が静かに息を吐く音が聞こえて、リアムのこぼれたような気の抜けた声が聞こえた。
「貴方は、貴方自身を幸せにして。貴方が幸せなことが、私たち家族を幸せにするのよ」
慎重に、慎重に、一歩、二歩と踏み出して、リアムを抱きしめた。
こんなに、こんなに逞しくなっても、心はとても頼りない子。一生懸命で、正義感が強くて優しいから、すぐに自分の心を殺してしまう可哀想な子。
尊敬を裏切られても、きっと両親を愛していたのに。その両親を奪ってしまったシャーロットや父に、笑顔をくれる愛しい子。
「シャーロ……ト……?」
抱きしめた従弟の……義弟の涙が手の甲に落ちてきて、やっとだと思った。やっと、この子を泣かせてやれた。
ずっと一人で頑張って来たリアム。不器用なリアム。
「え……?」
カクン、と膝が折れて、体が床に吸い込まれていく。
共倒れになるわけにはいかない、とリアムをはなして、そのまま床にしりもちをついた。
嫌な汗がどっとふきでる。
どうして。立てたはずなのに。
どうして。歩けたはずなのに。
リアムの顔がまた曇ってしまったらどうしようかと顔をあげられない。
「お食事中に失礼します」
もうすっかり聞き慣れた声がして、シャーロットはとっさにそちらを見た。
いつもきちっとした格好のエリオット・メラクリーノ医師は少しよれた上質とは言い難いコートを羽織って、その下には仕事着を纏っていた。
うっすら汗をかいていて、シャーロットを見て苦笑いしている。
「うん、うん。君の言いたいことはよくわかっているよ。大丈夫。君の心配することはなにもないからね」
お行儀が良くて、礼儀正しくて、子爵夫妻の前ではしっかり貴族としてふるまっていたエリオットは今日は父や母が何か言うのも待たずにずんずんと入り込んできて、シャーロットを抱きかかえた。
その、困ったような笑顔はけれど嬉しそうでもあって、シャーロットは涙を堪えられなかった。
「私……、立てたんです。歩けたんです。けど……!」
「そう。一〇〇パーセント合格点だよシャーロット。これから君は、色んな場所へ遊びに行けるね。楽しいことが、たくさん見つけられるね」
「けど……!!」
また、脚に力が入らなくなってしまったんです。
エリオットにしがみ付きながらしゃくりあげると、エリオットは穏やかに微笑んで首を横にふった。
「考えてもごらんよ。君はもう何年も歩いていなかったろう? 当然筋肉も落ちてしまっているよ。大丈夫。毎日少しずつトレーニングすれば、駆けまわることもできるようになるからね」
「へ……?」
「つまりこれまで閉じこもっていた分、しっかり鍛えないとね」
また立てますか?
立てるよ。
また歩けますか?
歩けるよ。
「それなら、お散歩に、行けますか……?」
シャーロットの額に、こつんとエリオットの額がぶつかった。
「もちろん。とびきり楽しい散歩をしようじゃないか」