プロローグ
私の妹などはどうだろうか。
友人のその提案に、エリオット・メラクリーノは耳を疑った。向かい合って座る男は学生時代からの友人である。だから彼がどんなに頑固な、よく言えば自分の意見をきちんと主張できる男であるのも、彼が妹を目に入れても痛くないほど溺愛しているのも知っている。
その友人が、エリオットに妹と会ってみないか。だけでなく、いっそ妹を妻にしてはどうかと提案してきたのである。
確かに、そろそろお互い、結婚を考えねばならない歳だという話をしていた。しかしそれは、恋人がいるにも関わらず結婚に踏み込めない友人の背中をそれとなく押すために始めた話だった。
それが、友人はエリオットの考えなど気づかず、自らではなくエリオットのことを心配しだしたのだ。
「君の妹さんというと、確かまだ十七ではなかったかな?」
「ああ、今年で十八だ。まだ、と言う歳ではない。結婚するには丁度いい時期だし、君との年齢差も丁度いいだろう」
九歳の差が大きいか小さいかは主観的な問題で異なって見えるだろう。少なくとも友人には大した差ではないようだ。確かに今の時代、二桁や一回り二回りの年の差婚も珍しくはない。娘を家の繁栄のために利用する父親が多いために。
「相手が君ならば私も文句などない、エリオット」
「何故?」
「長い付き合いだ。君がどんな人間か私はだいたいわかっている」
「そうではなくて」
今日の彼は明らかに様子がおかしい。
そもそも、彼がこうして約束もないのに訪ねてきた時点で違和感はあった。普段生真面目な彼は唐突に家に来ただけでなく、要件をなかなか言い出さないためにだらだらと世間話をしてかれこれ二時間になる。
仕事もひと段落つき落ち着いているが、時間を無駄に使うのが嫌いな彼が本題に入らないのは妙だ。厄介なことに表情の乏しい彼のことなので悩んでいるのかもはっきりとわからないが。
「何故君は今日、こんな狭い僕の家などに来たのかと訊いているんだよ、アドリアン」
苦笑して説明すると、友人は口元をもごつかせて目を泳がせた。これは珍しい、とエリオットは動揺する彼をまじまじ観察する。
「実を言うと君に頼みがあるんだ、エリオット。まさに私の妹のことだよ」
溜息をついてから、エリオットの入れた紅茶を飲んだ彼は片手で額をおおった。すっかり夜も更けて時間帯としては酒を出すべきかもしれなかったが、生憎エリオットは家に酒を常備していない。しかし彼のこの様子では酒を出さないでかえってよかったようだ。
「君が結婚を急いでいると聞いてこれは運命だと思った」
「いや、それは」
決して結婚に焦っているのではなく、君のために出した話題だった、と、友人は全く気づいてくれていない。
「あの子には少々問題があってね。あまり他言はできない。あの子が望まないからだ。あの子の了解もなくあの子の問題を私から口にするのはよくないだろう。だから直接会って、あの子について見て、考えてほしい。その問題が、君にとって受け入れられるものか。そしてできることなら君にあの子をもらってほしい」
まっすぐにこちらを見る友人は、大切なことを忘れている。
「妹さんの了解がないということは、妹さんはこのことを知らないのかい」
「先に言ってしまえばあの子は拒否するだろうからな。君が来てから教えれば、優しいあの子はわざわざ来てくれた相手に会わずに帰れとも言うまい」
妹を気遣っているのだろうが、妹の優しさを利用しようとは彼もなかなか悪い男だ。
「君はこの上なく適した人材だ。伯爵家の産まれでも次男。兄弟が多いために結婚して妹がプレッシャーを感じることもないだろう。なにせ今では庶民を相手に個人で経営する医者だ。何より、君は誰かを簡単に傷つける人間ではない」
忌々しげに眉間に皺をよせ、拳を握った友人はくっと喉を鳴らした。
「あの子が問題を抱えてから、心無い人間はあの子を視線や言葉で傷つける。両親も私も、あの子をこれ以上傷つけてまで相手を探すのは本意ではない」
その“問題”がなんであるかがわからない限りエリオットには判断ができない。無責任にすべてを受け入れるとも言えないし、かと言って彼の妹を否定する気はない。
しかし、そもそもそれ以前に、だ。
エリオットは今のところ、相手が誰であれ結婚をするつもりはない。そう考えられる女性がいないせいで結婚を現実的なものとしてイメージできないのもあるし、エリオットに結婚を求める人が今まで誰もいないせいでもある。
家を継ぐ兄は早くに結婚し、弟、妹も家を支えるために必要な結婚をした。これ以上コネやつてを必要としない両親は、中流階級の人々の住む街に住み働く自分にもう期待していない。
それを伝えようとするが、友人はその隙を与えてくれない。
「それとも君にはもう恋人がいるのだろうか?」
「いいや、そういう相手は特にいないけど……」
だからといって、彼の妹と彼のすすめだけで結婚する気はない。まだ会ってもいない女性と結婚するとはっきり言えるほど、エリオットは結婚を軽く見ていない。
「なら問題はない」
「けど、君の妹さんの意見も聞いてみないことには」
「なんにせよ会ってみなければわからない。その後で君から断ってもらっても構わない」
「君のご両親は」
「もう話してある」
片手で胸をおさえた友人は、今日何度かついた重々しげなものとは違う、安堵したような溜息をついて口の端をわずかに持ち上げた。
「ああ、正直に言うと不安だったんだ。君に迷惑がられてしまわないかと。しかしやはり君は素晴らしい男だな。唐突に押しかけた私の頼みを快く引き受けてくれるとは」
彼の目にはエリオットが快く了承したように見えたらしい。
いいや、見えていなかったのかもしれない。
昔から、妹の話をする時の彼は普段の人柄が嘘のように強引になり他人の言葉は都合よく捻じ曲げる。
「そうと決まれば明日ぜひ我が家へ来てくれ。迎えはこちらから出そう。本当によかった」
「え、明日?」
まだ、はっきり会うとも言っていないのに?
「今日は失礼する。そろそろ帰らなければ勘の鋭い妹に怪しまれるかもしれない」
「あ、おい、アドリアン」
引き止めても、友人は一切振り返らずに家へと帰って行った。
さて逃げ道をすべて塞がれた。
翌朝迎えに来た御者はエリオットの話にまったく耳を傾けず、友人の家へ連行したのだった。