思い出
わたしの生活において、人を見下し、うらやむことほど簡単なことはなかったと思う。
なぜなら、生きている限り、自分という一個の存在をもつ限り、それと何かを比較せざるを得ないのだから。
わたしがはじめに話しておきたいことは、命は、生まれる前と生まれたあととではだいぶ意味合いが違うということ。
きっと、それは生まれる前はなにも違いのない、たくさんあったら自然に一緒になってくっついてしまうような、見分けがつかなくなってしまうほど価値も意義も平等なものなのに。それが。それが一人の人として生を受けた時点で変質し、その付加価値を付けられる。
赤ちゃんは生まれた時点で、別々の親に引き取られるし、必然的に別々のみちを歩むことが決まっている。
今、父親の腕のなかで幸せそうに抱かれている子どもが、医者を志して国立大の医学部に入学し、放射線医療に画期的な進歩をもたらす研究者になろうとも、もう片方の子は、三年後に両親が離婚し、母親の育児放棄を受けて、小学校に上がる前に衰弱死で生涯を終わらせてしまうかもしれない。そんな未来だって、ありえる。
自分と他人には絶対的な壁が存在している。壁は円状で、そのなか、つまり自分中心にしか行動することができず、また、自分を中心にした範囲でしか思考することができない。これは利害関係について言っているんじゃない。ものごとにある境界線のお話だ。
目に見える境界線は最も顕著だ。わたしとあの子の身体は別々だ。動かせるのは、目の前にいるあの子の手ではなく、両肩にだらっとぶら下がっているわたしの手だけだし、あの子の代わりになりたくたって、わたしはわたしである限り、それを為すことは決してできない。
わたしはわたしとしてしかものごとに関与できない。決して神様ではない。
そんなことはとっくの昔に気づいていた。
「ともくん」
錆びた鎖がきぃこ、きぃこ、と寂しげな音を反芻させる。
「もう帰ろ。五時のチャイムとっくに鳴っちゃったよ」
「まだ明るいから大丈夫だよ」
ともくんは、薄茶色の髪を風に揺らしながら、空も見ずに言った。
汚れたスニーカーの底と地面をこすり合わせて、じゃりじゃり音が立つのを楽しんでいる。ブランコでどれだけの高さまで上がれるか競い合っていて、ちょうど二人して気持ち悪くなり、漕ぐのを休んでいたときのことだった。
「でもわたしはモンゲンがあるし」
こんなとき、いつものともくんならそろそろ帰ろうか、と言ってくれるのに。わたしは気が弱いので物事を終わらせるのは苦手だ。わたしがともくんにどんな流れに持って行って欲しいかそれとなく伝えて、決断するのはいつもともくんだった。
「こころんちの門限って六時だったっけ。まだ時間あるよな」
「……でも、あと十分しかないよ」
わたしはそう言って、公園の時計を指差した。
辺りの遊具はすでに斜陽に塗りつぶされ、西の空は太陽の沈む真っ只中だった。アレが完全に落ちきってしまえば一気に外は暗くなる。ともくんはわたしの心配をよそに、ブランコの天板の上に立って、一層強く漕ぎはじめた。
「十分もあるじゃん。もう少し。もー少しで帰るからさ」
「ほんとにもー少し?」
「うん」
「でも。前だってともくん、そう言って七時までいたじゃん。あの時すごい怒られたんだ。晩ご飯たべれなかったんだよ?」
ともくんは、聞いているのかいないのかわからない。ブランコを漕ぎ続けていた。古いブランコは悲鳴のような金属音を立てている。
「その日、おとうさんの誕生日で、わたしの好きなオムライスで」
「もううるさいな、じゃあ先に帰ればいいだろ!」
ともくんもブランコの上で金切り声をあげた。
わたしはびっくりしてしまった。
ともくんはムラっけがあるけどけして短気なわけじゃない。それどころか、同年代の男子の中ではずっと大人びて、賢いほうで、性格も、みんなはあんまり知らないと思うんだけど兄貴肌で優しかった。簡単に腹を立てて声を荒らげたりしない。
ともくんを怒らせてしまった。わたしにとっては重大な自体だった。
「ご、ごめんね。でも」
置いていくなんていやだった。
「ひとりでいたら、あぶないよ」
「おれ男だし。大丈夫だよ」
「二丁目のゆうたくん、ホームレスのおじさんに、怖い目にあったって。夜になったら、おとこだってあぶないんだよ」
「それはゆうたが、弱いからだろ。おれだったら、変なおっさんがきたら殴って逃げてやる。絶対に泣いたりしないし、つかまりもしない。こころ、おれが泣いてるとこなんてみたことあるか?」
「ないけど……」
「おれはゆうたとは、ちがう。こころ、帰るんならひとりで帰れよ。おれはまだ遊ぶからな」
いよいよ泣き出しそうになったとき、ともくんはふいにブランコから飛び降りて、少しも前によろけることなく、猫のようにしなやかな動きで着地した。
「やだよ。ひとりで帰りたくないよ。一緒に帰ろうよ、ともくん」
「……なーこころ。お前んち、今日はおとうさんいるの」
「え? い、いるよ。今日はシュッチョーじゃないから」
「そっか。じゃあ、おばさんもおれがいたらメーワクだよな」
わたしのお父さんは、友達を家に呼ぶこと、特にともくんが家にいることをあまり良く思わない。
ともくんのことを、汚れた服を着た子供、と陰で言っている。お母さんはそんなことはないのだけれど、お父さんには逆らえない。わたしもお父さんに怒られるのがいやで、あまりともくんに家に来て欲しくはなかった。
「家はムリだよ。もう、あんまり友達も呼ぶなって、おとうさんに言われちゃった」
「……そっか」
「ゲームしたいの?」
「や、そーゆーんじゃなくて。まえ、一回だけおばさんがごはん食べさしてくれたじゃん」
「あ!チキンカレーのとき?」
思い出した。一度だけ、ともくんが家に遊びにきたとき、そのまま晩御飯を食べて帰ったことがあったのだ。
「……そう」
ともくんが少しだけはにかんだ。
楽しかったな、とわたしも笑顔になる。お父さんが出張で、ひどい雨が降っている時だった。お母さんがカレーを作っていて、いつもはそんなこと言わないのに「智樹くんもよかったら食べていきなさい」といてくれたのだ。
あのとき、ともくんと家族になったみたいで嬉しかったのを覚えている。
「おいしかったねー。また食べようね」
ともくんもうん、と頷いた。
「こんどさー。ともくん家にもあそびにいきたい!」
「……え」
「やっぱりむり?」
「……多分ムリだけど。お母さんにきいてみるよ。でも、おれんちクーラーないし暑いよ」
「大丈夫だよ。もし行けたら、そんときはごはんもたべたい!ともくんのお母さんって、どんなのつくるの? カレーとか、家によって全然作り方ちがうらしいよね。ともくんちのカレーってどんななの」
「……つくるのは、ふつうのカレーだよ。こころんちのより辛くて、野菜入ってないけど、おいしくて、ふつうのカレーだよ」
「こんどたべさせてね」
「でも、最近はたべてないから。よくわかんない」
「カレー食べないの?」
「レトルトは、よくおれが作って食べるけど。お母さんあんまりご飯つくらなくなったから」
「……ご飯つくらないの?」
「前からあったよ。そういうときはお母さん、お金くれるんだ。それでスーパーとかコンビニで買ってきたり、ファミレスとかで、まいと食べてた。でもおれ、どんな外食より、おかあさんの作ったご飯が一番いいな……。だから、こころんち、うらやましいよ」
わたしは、なんと答えたらよいのか、わからなくなってしまった。
ともくんがわたしをうらやましいということなど、全然ないからだ。多分、ともくんもそれを理解している。それでも、わたしの言葉を待ち、黙ったまま、またブランコに座ってちいさくそれを漕ぎ始めた。
「……おれ、帰ってもひとりなんだ」
ともくんが、消え入りそうな声で呟いた。
「家に帰っても誰もいないんだ。最近、ずーっとなんだ」
「……お母さん、おしごと?」
「わかんない。多分ね。お母さん待ってる間、ひまだし、お金無いと、おなかも空くし。ひまだとヨケーに、おなかすく。たまにお母さん、帰ってこないし。最近、お金もくれないんだ。……いやだなあ。帰りたくない」
きいこ、きいこ、きいこ、沈黙が痛かった。ともくんはまだ帰りたくない。ブランコの音だけが鳴る。
ちぎれたフェンスも、飛行機のオブジェも、草むらも、薄暗闇につつまれはじめている。さっきまで広い公園の各々の場所で遊んでいた子供たちが、暗くなったのを合図にいちど集合して、手を振りながら散り散りになる。
そして喧騒が遠のいていく。
ともくんは、いつの間にか、ブランコを漕ぐのをやめて静かに項垂れていた。
こんな、独特の雰囲気を纏う子どもを、何度かテレビのなかで見たことがあった。
「ほんとにいやなのは、いちばんいやなのは……さみしいんだ。帰っても、おかあさんいないってわかるのが。まいがいたときはまだましだったんだけど。鍵開けて玄関に入ったら、部屋がまっくらで。ただいまって言っても、なんにも返ってこない。それが、いちばんいやだ……」
それが、彼が最初で最後に私に見せた弱さだった。
項垂れていたのは、今思うと涙を隠すためだったのかもしれない。
幼いわたしはまた、なんと答えればよいのかわからなくなってしまった。
その日は終業式で、次の日からは夏休みだった。
ともくんの姿を見たのはそれが最後だった。
その次の日から始まった毎朝恒例のラジオ体操にも、夏休み半ばに開かれる水泳の補習授業にも、ともくんは一度もこなかった。
二学期になっても学校にはこなかった。そこからはあっという間だった。心配した先生がともくんの家を訪問したのだが、応答がなかったという。いやな予感がした。市営団地の5階にあるともくんの家の窓は、夏休みからずっと空いたままだった。
ほどなく、キッチンのそばで横たわって、死んでいるともくんが発見された。
原因は、栄養失調による衰弱死ではなく、熱中症によるものだった。