うつしよ 路面電車
私は誰を殺したいんだろう……?
消えた父だろうか?
残された母だろうか?
父を惑わしたあの中年女だろうか?
冷静な顔で喋るあの女の娘だろうか?
それとも……?
1
季節は春。
無人駅は、とても静かだった。
灰色の雲が広がる空。
その雲に似た暗い目をした連れの男。
赤いペンキが禿げた古い木製のベンチ。
そこに座る異邦人のような自分。
その両手に握りしめられている鈍色の~~たった一発しか弾丸が入っていない小さな銃。
私は時折吹く肌寒い風に身をさらしながら、すっかり古くなった線路の枕木をずっと見つめていた。頭の中では、一つの答えを導きだすための問いが、何度も繰り返されていた。
「あと、10分くらいで来るぞ」
同じベンチの端に座る暗い男が、紫煙を吐き出すと呟くように言った。
男の吸う煙草の紫煙は微かに私の鼻孔を刺激した。その刺激に、これが現実である事を改めて私は認識した。
あの夜、私はバイトも彼氏との約束も無く、珍しく家で大人しくしていた。母は出かけていて、父は居間のソファーに寝そべりながら釣りの雑誌をめくっていた。冷蔵庫を物色しに私が居間に入った瞬間だったと、はっきり覚えている。私と私の周辺の人間たちの、退屈で新鮮味の無い、けれども平穏でそれまで私が幸せだと疑わなかったものを壊す、一本の電話が鳴ったのは……。
決して自分で電話を取らない父に代わって私が取った受話器の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れない中年の女の声だった。でも女の話し方は丁寧で、彼女が父に替わって欲しいと告げた時も、私はその言葉に何の違和感も抱かなかった。きっと会社の人だと思った。だから父を呼んで受話器を渡し、居間を出て自分の部屋に戻り、男に電話をかけて話をしている頃には、父にかかってきた電話の事など、完全に私の頭の中から消えていた。
思い出したのは、三日後だった。
間近に迫った私の誕生日までには必ず帰ってくると書かれた一枚の便箋を残して、突如父は失踪した。
2
父の失踪後、母は自分を見失った。
世の結婚した男たちの例に漏れず父もまた、結婚記念日を忘れたり、妻の髪型が変わった事に気付かなかったり、家の中ではだらしない格好をするなど、結婚前と変わったところはあったらしい。
ただ、女に関しては、母以外にその身辺に微塵も感じさせなかった。
女遊びは男の甲斐性の一つだといわれる。
浮気をした男に対する弁護の言葉として。
浮気の出来ない男に対する侮蔑の言葉として。
時としてその言葉は女の口から吐き出されることもある。
私自身そう思った時もあったが、ずっと思い続けることは出来なかった。そこには父の存在があったからかもしれない。
私は父が好きだった。父の姿も、父の思想も、父の過去も。だから父が選択してきた生き方も好きだった。娘としても、女としても……。
母もきっと同じだったと思う。
でも今、私は父の本当の姿を知らなかったと感じている。
知ったような気になっていたのだろうか?
私は父を、理想化していただけだったのだろうか?
手の中の銃はさっきからずっと冷たいまま、私の答えを待ち続けていた。
電車は、あと5分で到着する。
3
日本全国で一年で失踪する人間は七万人いて、しかもその数字は届け出が出された数であって、実数はそれを遥かに上回るらしい。だから事件性のある失踪~~子供や要人以外は、まず間違いなく警察はまともに取り合ってはくれない。書き置きがあったなら尚更だった。精神的に正常で年齢的に大人な人物の失踪は、警察にとって優先順位の低い仕事に当たる。父は自分の意志で失踪したと判断され、ただ一日調書を取っただけで私の警察署での役目は終わった。そしてそれは警察が役に立たないと教えられた日でもあった。
だから私は彼氏の先輩のつてを頼り、私立探偵を雇った。それがついさっき私に銃を渡した暗い目の男、小津だった。
小津の顔を初めて見た時、私はこの男で大丈夫なのだろうかと、嫌な予感で頭が一杯だった。
短く刈ってあるものの手入れはしていない髪、顔の下半分を覆う伸び放題の無精髭、不健康そうな顔色、そして何より二十代とは思えない歳老いた~~というか死人のような双眸、アイロンのかかっていない汚れた白いYシャツ--ネクタイはしていなかった、本来は落ち着いた雰囲気を感じさせるデザインの黒のスーツも、この男が着ていると死神のマントの様に見えた。そしてそれら私の感じた雰囲気を裏切ることなく、話をしても必要最低限の事しか返さず、愛想笑いすらしない、非常に近寄りがたい男でもあった。
しかし、小津はその陰気で頼りなげな外見からは想像もできないほど、あっという間に父の所在を見つけた。もっとも私は本物の探偵を見たのは初めてだったし、失踪人を探すのにかかる時間が平均してどのくらいなのかは知るはずもなかったのだが、父が家に残していった物--会社関係の書類や私的な文書、また生活用品や毎日の行動パターンや交友関係を、小津は近所の人間や父の会社の人間に全く悟られずに調べ挙げてきた時には、私の小津に対する見方は変わっていた。
しかし小津はそれを誇るでもなく、また謙遜するわけでもなく、ごく日常的な~~例えば朝起きて部屋のカーテンを開けるような、淡々とした口調で調査の報告をした。
抑揚の無い小津の声を聞きながら、私は父が失踪して初めて、得体の知れない不安を感じた。今思えばその不安は小津に対してではなく、父に会うことに対してだったと思う。
4
テレビで全国放送されるような行事も、特集されるような目立つ建物もない、退屈で味気のない小さな街。市の中心部を二キロメートルも離れれば、ごく一般的な住宅が建ち並び、色褪せた赤い鳥居の神社や、古い灰色の公民館、あか抜けない商店街しかない、ありふれた私の街。
私は小津が捜し当てた父の居場所へ向かうため、街の郊外から中心部へ走る、一両編成のえび茶色の路面電車に揺られて駅に向かった。
不安でいっぱいな私の胸中とは対照的に、小さな電車は緩やかな午前の陽の下、穏やかな速度で走っていた。レールの継ぎ目ごとに聞こえるガタンゴトンという音は、まるで子供の遊び声のような、どこか優しく無邪気な声のように聞こえた。
ぼんやりと視線を車窓の外へ向けていると、一瞬、太陽が雲に隠れて暗くなり、車窓のガラスに、気付かぬうちにきつく真一文字に閉じた口元と、父に似ているとよく言われる切れ長の瞳をした、自分の顔がうっすらと映った。
私は何故かはっとなり、顔を窓から背けて車内に向けた。その様子に気付いたのか、通路を挟んで向いに座っていた小津がちらりと私に視線を寄越したが、私は何でもないと言うように、無言で軽く首を振って車内を見渡した。
小ぢんまりとした、乗り合いバスに似た路面電車の車内は、閑散としていたものの、暖かく、懐かしい匂いがした。
不意に、記憶が過去へ飛んだ。
小学校の低学年の頃まで、私はこの路面電車がとても好きだった。休みの日ともなれば必ず、この電車に乗りたがった。その我が儘に付き合ってくれたのは、いつも父だった。
幼い日の私はいつも、魔法のステッキを持つ少女が主人公の当時流行っていたテレビアニメの主題歌を口ずさみながら、電車の窓から外を眺め、時折目に入ってくる建物の看板の字を、声に出して読んだ。習っていない漢字があってつっかえると、決まって父が、「あれは『観光』と読むんだよ」という風に、ほほ笑みながら教えてくれた。
次の週に同じ場所で父から教えてもらった通りに看板の字を読むと、父は優しく私の頭を撫でて誉めてくれた。それがうれしくて、私は一生懸命に漢字を覚えようとした。
あれから十年以上が経ち、退屈な街も少しづつ変わり、あの頃声を出して読んだ看板は、今では建物ごと消えていた。
5
母と同い年くらいの中年の女と一緒にいる父を見た時、最初私は思ったほどショックを受けていない自分に驚いていた。でも、それは後で嘘だと分かった。
中年女は全く見たことの無い人物で、お世辞にも綺麗だとは言えなかった。私の頭の中で出来上がっていたイメージには程遠い、本当にどこにでもいる普通の女性だった。
ただ、私は動けなかった。頭ははっきりしているのに、言葉を構築し紡ぐことが出来ず、喉から声が出てこなかった。体も金縛りにあったかのように動かなかった。横にいる小津に助けを求めようとしたのだけれど、顔を向けることすら出来なかった。
どのくらいの時間そうしていただろう。おそらくはほんの数分だったと思うのだが、その時は無限の流れに私は飲み込まれていたと思う。
そんな私をその状態から救ったのは、小津ではなく、背後からの若い女の声だった。
私は私と小津の背後から声をかけてきた--私より少し年上に見える女と、他に客のいない静かな喫茶店のテーブルで向かい合っていた。
若い女は父と一緒にいた中年女の娘だと言った。母であるあの中年女には似ていなかったが、何故だか納得した。彼女は落ち着いた風貌をしていて、話し方も仕草も様になっていた。私は単純に綺麗な女だと思った。
彼女は美しいその顔に絶え間なく優しげな笑みを浮かべたまま、自分の母と私の父の関係について話してくれた。
父とあの中年女は、父が私の母と出会う前に結婚を誓いあった者同士だった。しかし、結婚を目前に控えたある日、中年女は私の父の前から姿を消し、別の男と一緒になった。しかしその結婚生活はあまり幸福だったわけではなく、つい最近永い家庭内別居の末、離婚を迎えた。そして頼る者の無いこの地から郷里に戻るため、二十数年ぶりに私の父に連絡を取った。
彼女はそう説明し、必ず近日中に私の父を帰すと付け加えた。私はただ黙って聞いていた。しかし当然、彼女の説明を信じてはいなかった。
「訳の分からないことを言うな! そんな説明で納得できるわけが無いでしょ!」
そう叫びたかった。
しかし、出来なかった。
中年女の娘と称する美しい女の絶え間ない笑みが、私に言葉を紡がせなかった。彼女の笑みは、息苦しかった。小津の持つ陰気さとは違い、私を威圧した。
もう父は帰ってこない……。
そんな気がしていた。
私は彼女の手元のコーヒーカップを見つめ、動かなかった。
そんな状態のまま時間が過ぎ、やがて中年女の娘は最後まで笑みを崩さぬまま挨拶をし、席を立って帰ろうとした。
その刹那ーー。
「待てよ」
それまで私の横で彫像のようにじっと動かなかった小津が、口を開いた。
若い女は、足を止めて振り返った。まだ、微笑んでいた。
「お前、誰だ?」
小津は顔だけ彼女に向け、いつもの暗い目で言った。
「……、娘です」
やや間を置いて、彼女は言った。依然として微笑んでいたが、小津に向けた目の奥には、月光を反射した刃物のような光があった。
対照的な目を持つ者に、私は挟まれていた。
ただこの時、私は小津の陰気な目と彼女の美しい笑みの正体を知った。
私にとって小津の暗い目は苦い薬で、彼女の美しい笑みは甘い毒だった。
6
小津が私に手渡した小さな紙の包み。それは私の手の平に納まってしまうほど小さかったが、不自然に重かった。その中身が何なのか小津は一言も言わず、煙草に火を点けて無人駅のベンチの端に座っていた。
私は小津から少し距離を置いてベンチに座り、紙包みを広げた。そこにあったのは、見慣れぬカタチをした古びた鉄の産物だった。記憶の片隅で、中学生の頃、友達の男の子が学校に持ってきた玩具の銃に似ているような気がした。
「レミントン社製ダブルデリンジャー……」
小津がぽつりと呟いた。
「開拓時代の骨董品だが、ちゃんと使える。反動も少ないし、至近距離なら充分致命傷を与えることも出来る」
私はそんな説明を聞きたかったわけじゃない。
「だから、なに?」
自然に口から出た。
でも、小津は私の言葉をまるで聞いていなかったように、
「そいつは二発式だが、もう弾は一発しか入ってない。よく考えろ」
「だから何!」
私は叫んだ。自分でもびっくりするくらい、声は大きく出た。
小津がゆっくりと顔を向けた。いつもの暗い目には、あの中年女の娘のような冷たさはなかったが、やさしさもなかった。
「その銃は鍵の一つだ。お前の前にある幾つかのドアの一つを開ける、鍵だよ」
7
「もう、ずっと昔の事のように思える。俺は、一人の女を好きになった。多分、あれほど人を好きになったのは、生まれて初めてだったと思う。長く少しウェーブのかかった茶色の髪、やや細い瞳、丸い顔、少し擦れた声、小柄でぽっちゃりした体、しかし、常に漂う酒精の匂い……。本当にどこにでもいるような女だった。ただ一つ違っていたとすれば、酷いアルコール依存症だった事だろう。俺は女を救いたかった。虚ろに笑う顔や、罵詈雑言吐き散らす顔を、無くしたかった。肩書き、仕事、友人、貯金、理想とされる未来……。だからそれらを失い続けても、後悔はなかった。愛した女の為に尽くすことができれば、それだけで満足だった。やがて時間が経って、女は少しづつ回復していった。暴れる事も落ち込む事も自殺しようとする事も、だんだん減ってきていた。幸せという生き物がいたとしたら、俺はほんの尻尾の方だけかもしれないが、それを見つけ、触れたような気がしていた。そしてもう少しで、しっかりとつかむ事が出来そうだった。だが、それはすっと俺の手をすり抜けていった。まるで初めからそこに存在していなかったかのように。夢の中で手に入れた宝くじの当たり券のように。それは消えた。部屋中に漂うすえた臭いと転がっているいくつもの酒の空き瓶、低い呻き声を洩らしながら布団の上で寝転がっている全裸の女、その横ででかい鼾を掻いているやはり全裸の男。鳥籠の中のセキセイインコが、「バーカ」と俺に言った。ある人から預かっていた銃と弾丸が、「お前を助けてやるよ」と囁いた。慰める時に何度も撫でた細い首筋に、鈍色の銃を押し付けて、撃鉄を起こし、引き金を引いた。俺は、女を撃ち殺した」
小津はとつとつとそう話した。そしてこう付け加えた。
「理由は分らねえが、お前と母親は、捨てられたんだよ」
8
父は、妻である母と娘である私を捨てたのだろうか?
母と私は、捨てられたのだろうか?
ただ、たった一枚の書き置きを残しただけで父は家族の前から姿を消し、家族の知らない女の元に行った。それだけは紛れもない事実だ。父は家族に言えぬ秘密を持っていた。そして私と母を、裏切ったのだ。
小津から手渡された銃が、かつて小津が最も愛した女を撃ち殺した銃が、私にも囁いた。
「助けてやるよ。俺を使って一番憎い奴を撃て。いや、一番可哀想な奴でもいいぞ。それとも、一番恐い奴にするか? ああ、自分自身でもいいぞ」
その声はとても優しかった。
父、母、中年女、その娘、自分……。
撃つべきは一体誰なのだろう?
周囲の音が消えた。電車がすぐ近くまで来ている。小津も、私の手の中の銃も、そして私自身も、答えを求めていた。
ふと、暖かい春の風が吹き抜けた。
風の香りは懐かしい味がした。
大好きな曲が聞こえた。
父の顔が頭に浮かんだ。
憎かった、心の底から。
絶対許せない、そう思った。
でも……。
でも、好きだった。
例え父が私を捨てても、私には父を捨てる事など出来る訳がなかった。
9
線路の遠くに電車が見えた時、私はベンチから立ち上がった。そして手の中の銃を元通りに包んで小津に返した。
小津は黙って受け取った。
「私、待つよ」
自然に口から出た。
「お父さんの書き置きには、私の誕生日までに必ず帰ってくるって書いてあった。だから私は待つ」
「帰ってこなかったら、どうする?」
「迎えにいく。私が迎えにいく。確かに憎い。憎いよ。でも、私はお父さんを迎えにいくんだ」
私は空を見上げた。鳶が飛んでいた。
「私はまだお父さんと話し足りない事がいっぱいあるから。もっといっぱい喧嘩をしたいから。もっと私が作った料理を食べてもらいたいし食べさせたいから。もっと、私の姿を見てもらいたいし見せたいから。
だから……」
「分かったよ」
小津は小さく呟いて話を切った。
電車がホームに着き、私は乗った。小津は、乗らなかった。
「先に帰っててくれ」
何か言おうとした私を手で制し、小津はほんの僅かに無精髭で覆われた口元をほころばせた。とても不自然な笑みだったけど、何故だかとても優しい笑みだった。
10
少女が電車に乗って行ってしまうと、男は再びベンチに腰を降ろした。右手に紙の包みを持ったまま、左手だけで器用に煙草を取り出して火を点けた。紫煙は狼煙のようにゆらゆらと上に向かい、薄れていった。
男は銜え煙草のまま右手の紙包みを開き、銃を手にした。そして慣れた手つきで弾倉から弾丸を手の平に落とした。赤銅色の弾頭を付けたくすんだ金色の薬莢は、男の手の平に二つあった。二発の弾丸は男の手の平の上でころころと転がっていたが、しばらくして線路に向かって投げ捨てられた。
投げ捨てられた二発の弾丸は砂利の中に消え、もう見つけられそうにはなかった。
了