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私を忘れた旦那様が、もう一度私に恋をしている

掲載日:2026/10/11

 帰ってきた夫は、両腕を広げた私から一歩下がった。


「申し訳ありません」


 その声だけは、四か月前に見送った時と同じだった。

 私は行き場をなくした手を下ろし、スカートの脇をつまんだ。笑おうとすると頬が痛かった。


「お帰りなさいませ、アーネスト様」


 夫は遠征先で敵の魔術を受けた。

 命に別状はない。剣も使えるし、本も読める。けれど直近七年間の記憶だけが失われている。

 私たちが出会ったのは七年近く前。結婚したのは六年前だった。

 先に届いた手紙で知っていた。それでも顔を見れば、私の名前くらいは呼んでくれるのではないかと、玄関で待っていた。


「奥様。荷物は客室でよろしいでしょうか」


 従者のハンスに聞かれて頷いた。

 夫のために整えた客室へ案内する。彼は階段を上がりながら壁の肖像画に目を向け、私たち二人を描いた一枚の前で足を止めた。


「本当に、あなたと結婚したんですね」

「ええ」


 絵の中の私は二十歳で、夫の腕に触れていた。

 今より髪が長い。画家に笑うよう言われて恥ずかしくなり、彼の袖をつかんだところを描かれた。


「私には少々、出来すぎた話に見えます」


 顔を上げると、夫は絵ではなく私を見ていた。


「こんなにきれいな方が、妻だと言われても」


 私の足が階段の端を踏み外しかけた。

 彼の手が肘を支える。その手つきも知っているのに、見つめられると落ち着かなかった。


「……そういうことは、あまりおっしゃらない方でした」

「それは、惜しいことをしていましたね」


 真顔で答えるので、返す言葉が見つからなかった。


 客室でハンスが鞄を置いて下がると、私はカーテンを半分引いた。


「眩しいのが、お嫌いでしょう。本を読む時はいつもこのくらいに」

「よくご存じですね」


 言ってから、夫は口をつぐんだ。

 私は返事をせず椅子を窓から離した。彼が腰を下ろし、左のこめかみを押さえる。疲れた時の癖だった。

 道中も、失った七年分の話を聞き続けてきたという。今は休んでもらわなくてはいけない。


「では、お夕食までごゆっくり」

「エミリア」


 扉へ向けた足が止まった。


「……と、お呼びしていたのでしょうか」


 彼は私の顔を見ていた。

 一瞬前に胸が浮き立ったことを悟られたくなくて、私は頷いた。


「ええ。そのように」

「では、そう呼ばせてください。私のことも以前のように」


 彼にとっては、呼び方を一つ教わっただけだ。

 それでも自分の名前をもう一度聞けたのが嬉しかった。

 扉の取っ手に手をかけたまま、私は尋ねた。


「何か思い出したら、私にも教えてくださいますか」

「もちろんです。ただ……」


 言いかけて、夫は膝の上の手を見た。


「あなたの話を聞いて知ったことと、自分で覚えていることは、区別してお伝えします」


 私は頷いた。喜ばせるための約束はしない人だった。


 その夜、夫は客室で休んだ。

 私は寝室の鏡の前で髪をほどき、左手の指輪を外した。

 結婚してから、眠る時もつけたままだったものだ。指に残った白い跡を見ていると、明日の朝も彼は私を知らないのだと思い知らされた。

 小箱の蓋を閉めて、鏡台の端へ置いた。


 ◇


 翌日の昼食には、初めて二人で食事をした日の料理を用意した。

 鶏の煮込み。小さな丸パン。蜂蜜をたっぷりかけた胡桃の菓子。

 見舞いに来た妹のカミーユが献立を覗き込み、眉を上げた。


「これ、お姉様のお好きなものでした?」

「アーネスト様と初めていただいたのよ」

「それは知っているけれど」


 私はもう一度、食卓の花の位置を直した。

 何か一つでも、きっかけになればいい。花を見ても思い出せないなら、煮込みの匂いや菓子の味はどうだろう。

 夫が食堂へ来ると、カミーユは挨拶だけして帰っていった。


 食事は穏やかに進んだ。

 私が旅の様子を尋ね、夫が答える。彼は皿を空け、パンにも手を伸ばした。

 けれど最後の菓子を一口食べると、フォークが止まった。


「お口に合いませんか」

「いえ。ただ、少々甘くて」


 私は自分の皿を見た。

 当時の夫は二切れ食べた。私が一切れをなかなか食べ終わらないので、皿を寄せてきたのだ。


『そちらもいただいていいかな』


 好きなのだと思っていた。

 それから夫が帰還するたび、同じ菓子を焼かせてきた。


「昔は、お好きでしたの」

「そうでしたか。私が覚えている限り、蜂蜜を少しかけるくらいが好みなのですが」


 夫は困った顔でフォークを取り直した。

 私は慌てて手を伸ばした。


「無理に召し上がらないで。私も、少し多いと思っていました」


 彼が私の皿を見た。どちらの菓子も同じくらい残っている。


「では、この蜂蜜は誰のために?」


 おかしくなって、少し笑った。

 夫もほっとしたように笑い、紅茶を飲んだ。

 カップに口をつける前に二度だけ息を吹きかける。熱いものが苦手なところも、菓子の胡桃だけ拾うところも変わっていなかった。


「明日はお庭でお茶にしませんか。小さな東屋がありますの」

「あなたも一緒に?」

「もちろんです」

「それなら、ぜひ」


 あまりに早い返事に顔が熱くなる。

 食事の後、夫はハンスに屋敷を案内してもらった。窓の外を横切る二人を見送りながら、私は菓子の皿を片づけてもらった。

 初めての食事と同じ献立だったことを、結局彼は思い出さなかった。

 昔の夫が、甘いと言わずに二切れ食べてくれた理由も、もう本人には聞けない。


 午後、居間で刺繍の枠を持っていると夫が入ってきた。

 手には古い本があった。表紙を下にして開かれていたらしく、背にくっきり折れ目がついている。


「これは、私の仕業ですか」

「また栞をなくしてしまわれたのね」

「ハンスにも叱られました。七年あっても直りませんでしたか」


 私は裁縫箱から余っていたリボンを取り、本の間へ挟んだ。

 夫は礼を言って向かいへ座る。

 同じ部屋で別々のことをするのが、結婚してからの私たちの過ごし方だった。

 私は花びらを一枚縫った。彼は一頁めくった。

 つい顔を上げると、こちらを見ていた彼と目が合った。


「何か?」

「指がずいぶん速く動くので」

「昔から縫っていますから」


 布へ目を戻す。

 細い茎を縫い、また顔を上げる。夫はまだ私を見ていた。


「お読みに、ならないの?」

「少しは読んでいます」

「私の顔に糸でもついていますか」

「いいえ。見ていたかっただけです」


 針先が止まった。

 こんな人だったかしら。

 夫は普段、口数が多くなかった。隣にいるのが当たり前になってからは、こちらが顔を上げても本を読み続けていることの方が多かった。

 今は目が合うたび、先に逸らすのが私になる。


「邪魔をしましたね」

「いいえ。もうすぐ終わります」


 せっかく二人でいられるのに、針ばかり見ているのも悪い気がした。

 私は急いで残りを縫った。花びらを閉じて裏へ針を出し、糸を切る。枠を外そうと持ち上げたら、膝のスカートまでついてきた。


 夫の視線が、縫いつけられた二枚の布を行き来した。


「……今日は、これで仕上がりということに」

「なりません」


 私が睨むと彼は笑い、笑ってから咳払いをした。

 私は鋏を取り直した。こんな失敗を見られるのは、結婚して間もない頃以来だ。


「先に笑った方が、糸くずを拾ってくださいます?」


 小皿を差し出すと、夫は素直に受け取った。

 私がほどいた糸を集めるたび、彼は指先でつまんで皿へ移した。

 その指が私の指に触れて、離れた。次に触れた時は、私が避けなかった。


「私と初めて食事をした時も、こんなふうでしたか」


 突然聞かれて、鋏を動かす手を止めた。


「何か、思い出して……?」

「いえ。ハンスに今日の献立のことを聞きました」


 夫の笑みが消えた。

 私が何を期待したか気づいたのだろう。


「気を遣わせてしまいましたね」

「そんなことはありません」


 私は糸を切り、スカートから離れた刺繍を畳んだ。

 続けていたかった会話が、その先へ進まなくなった。

 夫は小皿を机へ置くと、リボンを挟んだ本を閉じた。


 ◇


 三日目の朝は晴れていた。

 私は東屋へ茶器を運ばせ、薔薇の枝を一本切って花瓶に挿した。

 夫に求婚された時も、ここでお茶を飲んでいた。細かいことまで話せば彼を疲れさせる気がして、今日は場所だけにしておこうと思った。


「よくお似合いです」


 庭へ来た夫が、私の髪を見て言った。

 昔と同じように編んで、青いリボンを結んでいた。


「以前は、いつもこうしていたんです」

「昨日のまとめ方も好きですが、そちらもいいですね」


 昨日は昼食の後、庭仕事のため無造作に結い上げていた。窓から見ていたのだろうか。

 私が髪に触ろうとすると、彼はその手元へ目を落とした。

 左手の白い跡が見えた気がして、私は膝へ手を下ろした。


「こちらへどうぞ」


 夫が椅子を引いてくれる。

 以前は彼の向かいに座った。今日は隣の席だった。

 直してもらうほどのことではない。それなのに座ると、彼の肩が近すぎた。


「この庭は、あなたが?」

「庭師がおりますけれど、鉢植えは少し。薔薇も教わって、手入れをしています」

「窓から見えました。昨日、小さな枝にひどく怒っていたでしょう」

「また虫に食べられていたのよ。あなたにもお見せしたかったのに」


 言ってから口を押さえた。

 夫は笑っていた。


「虫には、お悔やみを申し上げます」


 その冗談の言い方を、私は知っていた。

 つられて笑いかけた時、屋根に雨が当たった。


 最初の数粒で終わるかと思った雨は、たちまち庭を白くした。

 風が吹き込み、卓上のナプキンが浮く。夫がカップを押さえている間に、私は立ち上がった。


「鉢をしまわないと」


 露台に出したばかりの薔薇が三鉢ある。ようやく接ぎ木に成功した苗で、細い枝が風に煽られていた。

 庭師は離れた苗床へ覆いをかけている。呼ぶより自分で運ぶ方が早い。

 私は屋根の下から飛び出した。


「どこへ運べば?」


 横から夫の声がした。

 振り向くと、一番大きな鉢を持ち上げている。


「そちらの壁際へ。屋根が張り出しているでしょう」

「分かりました」

「下から支えて。枝をつかまないでくださいね」

「枝より私の方が頑丈なので、ご安心を」


 言いながら彼は走った。

 私も小さな鉢を抱えて後を追う。足元で跳ねた泥が裾に飛んだけれど、今は薔薇の方が大事だった。

 最後の一鉢を取りに戻ると、支柱からほどけた枝が垂れ下がっていた。


「もう。昨日、結び直したばかりなのに」


 鉢を運んで台へ置き、棚から麻紐を取る。

 夫が横に立って、垂れた枝を支えた。


「折れていますか」

「まだ大丈夫。もう少し上を持って」


 雨が屋根を叩く中、濡れた紐を指で扱った。

 枝と支柱の間で八の字に交差させ、きつく締めすぎないよう結ぶ。指が滑って、最初の結び目はほどけてしまった。

 夫が端をつまんでくれたので、今度はうまくいった。


「これくらい遊びを残すのですね」

「ええ。育った時に食い込まないように」

「なるほど。次の一本はやらせてください」


 夫は残りの紐を受け取った。

 私が教えたとおりに結び、出来上がるとこちらを見る。

 頷いたら少し得意そうな顔をした。


「お上手ですわ」

「先生がよかった」

「そうでしょうとも」


 夫が吹き出したので、私も笑った。

 笑ってから、指先が泥だらけなことに気づく。ドレスの裾は濡れ、丁寧に編んだ髪は頬へ張りついていた。

 ひどい格好だ。

 彼も同じくらい濡れていたけれど、なぜか私より楽しそうだった。


「動かないで」


 顔を上げると夫が手を伸ばした。

 耳の横へ指が触れ、髪に絡まった小さな葉を取る。近づいた顔を見ているうちに、彼の指が頬に触れた。

 思わずその手へ頬を寄せそうになって、私は止まった。

 夫も手を引いた。


「泥までつけてしまいました」


 彼の指先も泥だらけだった。

 私は袖で拭おうとし、袖も濡れていると気づいて諦めた。


「今日はもう、どうでもいいわ」

「私は、よくないのですが」


 夫はハンカチを出して、泥のない端を選んだ。

 それで私の頬を拭う。大きな手に似合わない慎重さで、口元のそばまで。


「これで、戻れます」


 私を見つめていた彼が先に目を逸らした。

 寒いはずなのに、拭われたところだけ熱かった。


 ◇


 着替えを済ませて居間へ下りると、夫は暖炉の前にいた。

 上着を替え、髪はまだ少し湿っている。私が入っていくと椅子から立った。


「鉢は?」

「無事です。庭師に大げさだと笑われました」

「助かってよかった。あなたに睨まれずに済む」


 私は向かいへ座った。

 東屋の卓に並べたものと同じ茶器が運ばれてくる。花瓶も戻ってきたけれど、薔薇の花びらは一枚欠けていた。

 夫は私のカップへ手を伸ばし、蜂蜜の壺の前で止めた。


「入れますか」

「今日は結構です」

「私も、昨日の分でしばらくは」


 二人で笑った。

 彼は私のカップを渡してから、自分の紅茶へ二度息を吹きかけた。

 見ていると、夫が眉を上げる。


「何か、おかしいでしょうか」

「昔から、そうなさるんです」


 言った途端に後悔した。

 また昔の話だ。せっかく二人で笑っていたのに。


「子供の頃に、舌を火傷したんですよ」


 夫はカップを持ったまま答えた。


「乳母に待ちなさいと言われたのに、先に飲んでしまって。三日は何を食べても痛かった」

「そのお話は初めて聞きました」

「では、今日一つ増えましたね」


 何でも知っているつもりだった。

 私は紅茶を飲んだ。少し熱くて、そっとカップを下ろした。


「エミリア。さっきの薔薇は、何年育てているんですか」

「接ぎ木を始めて三年です。最初の二年は失敗しました」

「それで、あんなに必死だったのですね」

「今年は花が見られると思っていたの。あなたがお帰りになる頃には、きっと」


 私は卓上の花瓶へ目をやった。

 こちらの薔薇は古い株から切ったものだ。結婚した年に夫と植えた。


「昔は、植えれば咲くものだと思っていました。あなたが土を掘ってくださって、私が苗を置いて。それだけで毎年」

「私が?」

「庭師に任せればいいのに、どうしても自分でと。翌日は腕が痛いとおっしゃっていました」


 夫は自分の手を見て、少し笑った。


「張り切りすぎたんでしょうね」


 私は頷いて、最初の花が咲いた日のことを話した。

 咲いたら一番に君の部屋へ持っていこうと、彼は言った。最初の春に持ってきたのは半分ほどしか開いていない花で、まだ早いと庭師に叱られたらしい。

 待てなかったから仕方がない、と私の髪に挿した。

 その声を、今も覚えている。


「素敵なお話です」


 夫の言葉に顔を上げた。

 優しい目だった。それだけに胸が痛んだ。

 彼にとっては、私が語る一つの話なのだ。


「今日は東屋で、何か……」


 そこまで言って、首を振った。


「いいえ。何でもありません」


 夫はカップを置いた。


「あの場所にも、思い出があるのですね」


 もう隠せなかった。

 頷くと、彼は静かに息を吐いた。


「あなたの役に立つことを言えなくて、すみません」

「謝らないでください」


 少し大きな声になった。

 夫のせいではないと分かっていた。帰ってきてくれただけでいいと、手紙を受け取った時には本気で思った。

 それなのに、目の前にいるとそれだけでは足りなくなる。


「あの東屋で、求婚してくださったんです」


 私は膝の上で両手を重ねた。


「昨日のお料理も、今日の髪も、あの頃と同じにしました。何か一つでも思い出していただければ、その先も全部つながるような気がして」


 夫が私を見ていた。

 彼の知らない六年を、また私ばかりが話している。


「絵の中にいる、若い私なら分かっていただけるかしらと思っていました。でも、あんなふうに笑えなくて。あなたに見られると、きちんとしなくてはと緊張してしまうんです」


 思い出の中の私は、もっと上手に笑っていたはずだ。

 今の私は針を間違え、泥をつけ、彼が知らないことを尋ねては困らせている。


「少し休みませんか」


 夫が言った。

 顔を上げると、彼の視線が私の隣の空いている場所へ移った。


「そちらへ行っても?」


 私が頷くと、夫は立ち上がって隣へ来た。

 東屋の時より、少しだけ近い。


「私は昨日、あなたと食事をして楽しかった。けれど午後には、うまく話せなくなってしまいました」

「私が、何度も思い出したかと聞いたから」

「あなたに期待してもらうと、何か思い出したと言いたくなるんです。言えないので、話すこと自体が怖くなった」


 私は膝の上の手を握った。


「でも、さっきは違いました。あなたは私に鉢を運べと言い、枝を折るなと叱った。私は紐を結んだら褒めてもらえた」

「子供扱いしてしまって、ごめんなさい」

「いえ。もう一本結びたかったくらいです」


 口元が緩んだ。

 夫も笑った。


「笑ってくれた。私は、その顔が好きです」


 息が止まった。

 彼は私の方へ体を向けた。いつもの遠征の報告を聞く時には、こんなふうに膝が触れるほど近づかなかった。


「昨日、あなたを見ていたら本が読めなかった。今日は雨が降って残念でしたが、庭にいるあなたをもっと見られた」


 夫の指が膝の上の私の手へ触れた。


「明日も会いたい。あなたが何に笑って、何に腹を立てるのか知りたい。できれば、私を見て笑ってほしい」


 私は彼の手を見た。

 剣だこのある指。左の親指の古い傷。同じ手なのに、私の指を絡める場所を探している。

 自分から指を開くと、彼は隙間へゆっくり指を入れた。


「あなたは、私が奥さんだから……」

「玄関で会った時から、きれいな人だと思っていました」


 顔が熱くなる。


「一昨日ですわ」

「ええ。一昨日から、ずっと」


 恥ずかしくなって俯いた。

 握られた手だけは離さなかった。


「私も、お会いしたかったんです」


 顔を上げずに言った。


「お留守の間だけではなくて。お帰りになった後も、お疲れだろうからと先に部屋へ戻っていました。でも本当は、寝るまで一緒にいたかった」


 前の夫に、言ったことはなかった。

 遠征の話をしてくれるうちに眠くなり、途中で寝てしまった夜がある。翌朝、枕元に続きを書いた紙が置いてあった。嬉しくて、もっと聞かせてほしいと笑えばよかったのに、子供のような真似をして申し訳ないと謝った。

 あの紙も、まだしまってある。


「私は、あまり立派な奥さんではありません。寂しいのに、寂しくない顔をしていました」

「では、今夜は一緒にいてください」


 夫の返事は簡単だった。


「本は読みますが、時々あなたに話しかけても?」

「ええ。私は、刺繍はやめておきます」

「私が見すぎなければ大丈夫では」

「できますの?」


 彼は少し考え、首を振った。

 私はとうとう声を上げて笑った。


 ◇


 私は夫に待っていてもらい、寝室へ上がった。

 鏡台の端には指輪の小箱があった。

 蓋を開けると、見慣れた金の輪がある。内側に刻まれた文字を指先でなぞった。

 結婚した日の年月と、二人の名前。

 彼はあの日を忘れている。私の手が震えていて指輪がなかなか入らなかったことも、式の後でそっと「私も緊張していた」と教えてくれたことも。


 これから先も、私だけが思い出す日があるだろう。

 そのたびに今日と同じように寂しくなるのだと思う。

 けれど今日、庭で私に葉がついていると笑った人も、彼だった。

 私にもう一度会いたいと言って、下で待っている。


 小箱を閉じて持っていった。

 居間へ戻ると夫は窓のそばに立っていた。雨は上がり、鉢の並ぶ壁際を日が照らしている。

 彼は私の手にある箱を見つけると、すぐにこちらへ来た。


「それは」

「あなたがくださった指輪です」


 蓋を開けて差し出した。


「一昨日から、外していました」

「気づいていました。私がしているものと同じなので」


 彼は左手を見せた。

 そこにはよく似た指輪がある。外側の細い彫り模様まで同じだ。


「私の方は、外す気になれませんでした。理由が分かったのは今日ですが」


 夫は私から箱を受け取った。

 指輪を取り出して掌に載せ、空の箱を卓上へ置いた。私の薬指に何もないのを確かめてから、顔を上げた。


「エミリア。もう一度、私と結婚してください」


 目の前が滲んだ。

 同じ声で、同じ名前を呼ばれている。

 夫が少し不安そうに眉を下げたので、私は急いで頷いた。


「はい。喜んで」


 差し出した手を、彼が取る。

 六年前のように私の指が震えていた。夫は急がず、薬指の先へ金の輪を通した。

 途中で一度止まったけれど、手を支え直すと、指輪は元の場所へ収まった。


「前にも、こうして求婚してくださったんです」

「では、二度とも私の見る目は確かだった」


 そんなふうに言う人だっただろうか。

 初めての求婚を思い返しかけて、私は目の前の夫を見た。

 上手に言えた顔をしているのに、私の手を包む指はまだ固かった。


「これから、たくさん口説いてくださいね」

「既に、そのつもりです」


 私は一昨日と同じように腕を広げた。

 夫は下がらなかった。

 私の背中を抱き、胸へ引き寄せる。手の置き方は少し違ったけれど、頬を寄せたところは思っていたより近く、温かかった。


「お帰りなさい、アーネスト様」

「ただいま、エミリア」


 今度はちゃんと言えた。

 顔を上げた私に、夫が口づけた。


 夕方、二人で庭へ出た。

 救い出した薔薇の枝は折れていなかった。夫が結んだ紐も、そのまま残っている。

 彼は一つずつ確かめ、まだ蕾のない先端を覗き込んだ。


「花が咲いたら教えてください」

「朝はいつも、私が見に来るんです」

「では、明日から私も」


 東屋の椅子には乾いた敷布が掛け直されていた。

 私は二脚を隣り合わせに寄せ、片方へ腰を下ろした。夫がもう片方に座り、持ってきた本を開く。

 間から青いリボンがのぞいた。

 私が栞を挟んだ頁から、二頁しか進んでいなかった。


「あまりお読みに、なれなかったのね」

「見ていたかったので」


 今度は目を逸らさなかった。

 彼が本に目を戻すと、私はその肩に寄りかかった。少し驚いた気配がした後、片腕が私の肩へ回った。

 紙をめくる音が近くで聞こえる。


「どんなお話ですか」


 尋ねると、夫は最初の頁へ戻った。


「はじめから、お話ししましょう」

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