私を忘れた旦那様が、もう一度私に恋をしている
帰ってきた夫は、両腕を広げた私から一歩下がった。
「申し訳ありません」
その声だけは、四か月前に見送った時と同じだった。
私は行き場をなくした手を下ろし、スカートの脇をつまんだ。笑おうとすると頬が痛かった。
「お帰りなさいませ、アーネスト様」
夫は遠征先で敵の魔術を受けた。
命に別状はない。剣も使えるし、本も読める。けれど直近七年間の記憶だけが失われている。
私たちが出会ったのは七年近く前。結婚したのは六年前だった。
先に届いた手紙で知っていた。それでも顔を見れば、私の名前くらいは呼んでくれるのではないかと、玄関で待っていた。
「奥様。荷物は客室でよろしいでしょうか」
従者のハンスに聞かれて頷いた。
夫のために整えた客室へ案内する。彼は階段を上がりながら壁の肖像画に目を向け、私たち二人を描いた一枚の前で足を止めた。
「本当に、あなたと結婚したんですね」
「ええ」
絵の中の私は二十歳で、夫の腕に触れていた。
今より髪が長い。画家に笑うよう言われて恥ずかしくなり、彼の袖をつかんだところを描かれた。
「私には少々、出来すぎた話に見えます」
顔を上げると、夫は絵ではなく私を見ていた。
「こんなにきれいな方が、妻だと言われても」
私の足が階段の端を踏み外しかけた。
彼の手が肘を支える。その手つきも知っているのに、見つめられると落ち着かなかった。
「……そういうことは、あまりおっしゃらない方でした」
「それは、惜しいことをしていましたね」
真顔で答えるので、返す言葉が見つからなかった。
客室でハンスが鞄を置いて下がると、私はカーテンを半分引いた。
「眩しいのが、お嫌いでしょう。本を読む時はいつもこのくらいに」
「よくご存じですね」
言ってから、夫は口をつぐんだ。
私は返事をせず椅子を窓から離した。彼が腰を下ろし、左のこめかみを押さえる。疲れた時の癖だった。
道中も、失った七年分の話を聞き続けてきたという。今は休んでもらわなくてはいけない。
「では、お夕食までごゆっくり」
「エミリア」
扉へ向けた足が止まった。
「……と、お呼びしていたのでしょうか」
彼は私の顔を見ていた。
一瞬前に胸が浮き立ったことを悟られたくなくて、私は頷いた。
「ええ。そのように」
「では、そう呼ばせてください。私のことも以前のように」
彼にとっては、呼び方を一つ教わっただけだ。
それでも自分の名前をもう一度聞けたのが嬉しかった。
扉の取っ手に手をかけたまま、私は尋ねた。
「何か思い出したら、私にも教えてくださいますか」
「もちろんです。ただ……」
言いかけて、夫は膝の上の手を見た。
「あなたの話を聞いて知ったことと、自分で覚えていることは、区別してお伝えします」
私は頷いた。喜ばせるための約束はしない人だった。
その夜、夫は客室で休んだ。
私は寝室の鏡の前で髪をほどき、左手の指輪を外した。
結婚してから、眠る時もつけたままだったものだ。指に残った白い跡を見ていると、明日の朝も彼は私を知らないのだと思い知らされた。
小箱の蓋を閉めて、鏡台の端へ置いた。
◇
翌日の昼食には、初めて二人で食事をした日の料理を用意した。
鶏の煮込み。小さな丸パン。蜂蜜をたっぷりかけた胡桃の菓子。
見舞いに来た妹のカミーユが献立を覗き込み、眉を上げた。
「これ、お姉様のお好きなものでした?」
「アーネスト様と初めていただいたのよ」
「それは知っているけれど」
私はもう一度、食卓の花の位置を直した。
何か一つでも、きっかけになればいい。花を見ても思い出せないなら、煮込みの匂いや菓子の味はどうだろう。
夫が食堂へ来ると、カミーユは挨拶だけして帰っていった。
食事は穏やかに進んだ。
私が旅の様子を尋ね、夫が答える。彼は皿を空け、パンにも手を伸ばした。
けれど最後の菓子を一口食べると、フォークが止まった。
「お口に合いませんか」
「いえ。ただ、少々甘くて」
私は自分の皿を見た。
当時の夫は二切れ食べた。私が一切れをなかなか食べ終わらないので、皿を寄せてきたのだ。
『そちらもいただいていいかな』
好きなのだと思っていた。
それから夫が帰還するたび、同じ菓子を焼かせてきた。
「昔は、お好きでしたの」
「そうでしたか。私が覚えている限り、蜂蜜を少しかけるくらいが好みなのですが」
夫は困った顔でフォークを取り直した。
私は慌てて手を伸ばした。
「無理に召し上がらないで。私も、少し多いと思っていました」
彼が私の皿を見た。どちらの菓子も同じくらい残っている。
「では、この蜂蜜は誰のために?」
おかしくなって、少し笑った。
夫もほっとしたように笑い、紅茶を飲んだ。
カップに口をつける前に二度だけ息を吹きかける。熱いものが苦手なところも、菓子の胡桃だけ拾うところも変わっていなかった。
「明日はお庭でお茶にしませんか。小さな東屋がありますの」
「あなたも一緒に?」
「もちろんです」
「それなら、ぜひ」
あまりに早い返事に顔が熱くなる。
食事の後、夫はハンスに屋敷を案内してもらった。窓の外を横切る二人を見送りながら、私は菓子の皿を片づけてもらった。
初めての食事と同じ献立だったことを、結局彼は思い出さなかった。
昔の夫が、甘いと言わずに二切れ食べてくれた理由も、もう本人には聞けない。
午後、居間で刺繍の枠を持っていると夫が入ってきた。
手には古い本があった。表紙を下にして開かれていたらしく、背にくっきり折れ目がついている。
「これは、私の仕業ですか」
「また栞をなくしてしまわれたのね」
「ハンスにも叱られました。七年あっても直りませんでしたか」
私は裁縫箱から余っていたリボンを取り、本の間へ挟んだ。
夫は礼を言って向かいへ座る。
同じ部屋で別々のことをするのが、結婚してからの私たちの過ごし方だった。
私は花びらを一枚縫った。彼は一頁めくった。
つい顔を上げると、こちらを見ていた彼と目が合った。
「何か?」
「指がずいぶん速く動くので」
「昔から縫っていますから」
布へ目を戻す。
細い茎を縫い、また顔を上げる。夫はまだ私を見ていた。
「お読みに、ならないの?」
「少しは読んでいます」
「私の顔に糸でもついていますか」
「いいえ。見ていたかっただけです」
針先が止まった。
こんな人だったかしら。
夫は普段、口数が多くなかった。隣にいるのが当たり前になってからは、こちらが顔を上げても本を読み続けていることの方が多かった。
今は目が合うたび、先に逸らすのが私になる。
「邪魔をしましたね」
「いいえ。もうすぐ終わります」
せっかく二人でいられるのに、針ばかり見ているのも悪い気がした。
私は急いで残りを縫った。花びらを閉じて裏へ針を出し、糸を切る。枠を外そうと持ち上げたら、膝のスカートまでついてきた。
夫の視線が、縫いつけられた二枚の布を行き来した。
「……今日は、これで仕上がりということに」
「なりません」
私が睨むと彼は笑い、笑ってから咳払いをした。
私は鋏を取り直した。こんな失敗を見られるのは、結婚して間もない頃以来だ。
「先に笑った方が、糸くずを拾ってくださいます?」
小皿を差し出すと、夫は素直に受け取った。
私がほどいた糸を集めるたび、彼は指先でつまんで皿へ移した。
その指が私の指に触れて、離れた。次に触れた時は、私が避けなかった。
「私と初めて食事をした時も、こんなふうでしたか」
突然聞かれて、鋏を動かす手を止めた。
「何か、思い出して……?」
「いえ。ハンスに今日の献立のことを聞きました」
夫の笑みが消えた。
私が何を期待したか気づいたのだろう。
「気を遣わせてしまいましたね」
「そんなことはありません」
私は糸を切り、スカートから離れた刺繍を畳んだ。
続けていたかった会話が、その先へ進まなくなった。
夫は小皿を机へ置くと、リボンを挟んだ本を閉じた。
◇
三日目の朝は晴れていた。
私は東屋へ茶器を運ばせ、薔薇の枝を一本切って花瓶に挿した。
夫に求婚された時も、ここでお茶を飲んでいた。細かいことまで話せば彼を疲れさせる気がして、今日は場所だけにしておこうと思った。
「よくお似合いです」
庭へ来た夫が、私の髪を見て言った。
昔と同じように編んで、青いリボンを結んでいた。
「以前は、いつもこうしていたんです」
「昨日のまとめ方も好きですが、そちらもいいですね」
昨日は昼食の後、庭仕事のため無造作に結い上げていた。窓から見ていたのだろうか。
私が髪に触ろうとすると、彼はその手元へ目を落とした。
左手の白い跡が見えた気がして、私は膝へ手を下ろした。
「こちらへどうぞ」
夫が椅子を引いてくれる。
以前は彼の向かいに座った。今日は隣の席だった。
直してもらうほどのことではない。それなのに座ると、彼の肩が近すぎた。
「この庭は、あなたが?」
「庭師がおりますけれど、鉢植えは少し。薔薇も教わって、手入れをしています」
「窓から見えました。昨日、小さな枝にひどく怒っていたでしょう」
「また虫に食べられていたのよ。あなたにもお見せしたかったのに」
言ってから口を押さえた。
夫は笑っていた。
「虫には、お悔やみを申し上げます」
その冗談の言い方を、私は知っていた。
つられて笑いかけた時、屋根に雨が当たった。
最初の数粒で終わるかと思った雨は、たちまち庭を白くした。
風が吹き込み、卓上のナプキンが浮く。夫がカップを押さえている間に、私は立ち上がった。
「鉢をしまわないと」
露台に出したばかりの薔薇が三鉢ある。ようやく接ぎ木に成功した苗で、細い枝が風に煽られていた。
庭師は離れた苗床へ覆いをかけている。呼ぶより自分で運ぶ方が早い。
私は屋根の下から飛び出した。
「どこへ運べば?」
横から夫の声がした。
振り向くと、一番大きな鉢を持ち上げている。
「そちらの壁際へ。屋根が張り出しているでしょう」
「分かりました」
「下から支えて。枝をつかまないでくださいね」
「枝より私の方が頑丈なので、ご安心を」
言いながら彼は走った。
私も小さな鉢を抱えて後を追う。足元で跳ねた泥が裾に飛んだけれど、今は薔薇の方が大事だった。
最後の一鉢を取りに戻ると、支柱からほどけた枝が垂れ下がっていた。
「もう。昨日、結び直したばかりなのに」
鉢を運んで台へ置き、棚から麻紐を取る。
夫が横に立って、垂れた枝を支えた。
「折れていますか」
「まだ大丈夫。もう少し上を持って」
雨が屋根を叩く中、濡れた紐を指で扱った。
枝と支柱の間で八の字に交差させ、きつく締めすぎないよう結ぶ。指が滑って、最初の結び目はほどけてしまった。
夫が端をつまんでくれたので、今度はうまくいった。
「これくらい遊びを残すのですね」
「ええ。育った時に食い込まないように」
「なるほど。次の一本はやらせてください」
夫は残りの紐を受け取った。
私が教えたとおりに結び、出来上がるとこちらを見る。
頷いたら少し得意そうな顔をした。
「お上手ですわ」
「先生がよかった」
「そうでしょうとも」
夫が吹き出したので、私も笑った。
笑ってから、指先が泥だらけなことに気づく。ドレスの裾は濡れ、丁寧に編んだ髪は頬へ張りついていた。
ひどい格好だ。
彼も同じくらい濡れていたけれど、なぜか私より楽しそうだった。
「動かないで」
顔を上げると夫が手を伸ばした。
耳の横へ指が触れ、髪に絡まった小さな葉を取る。近づいた顔を見ているうちに、彼の指が頬に触れた。
思わずその手へ頬を寄せそうになって、私は止まった。
夫も手を引いた。
「泥までつけてしまいました」
彼の指先も泥だらけだった。
私は袖で拭おうとし、袖も濡れていると気づいて諦めた。
「今日はもう、どうでもいいわ」
「私は、よくないのですが」
夫はハンカチを出して、泥のない端を選んだ。
それで私の頬を拭う。大きな手に似合わない慎重さで、口元のそばまで。
「これで、戻れます」
私を見つめていた彼が先に目を逸らした。
寒いはずなのに、拭われたところだけ熱かった。
◇
着替えを済ませて居間へ下りると、夫は暖炉の前にいた。
上着を替え、髪はまだ少し湿っている。私が入っていくと椅子から立った。
「鉢は?」
「無事です。庭師に大げさだと笑われました」
「助かってよかった。あなたに睨まれずに済む」
私は向かいへ座った。
東屋の卓に並べたものと同じ茶器が運ばれてくる。花瓶も戻ってきたけれど、薔薇の花びらは一枚欠けていた。
夫は私のカップへ手を伸ばし、蜂蜜の壺の前で止めた。
「入れますか」
「今日は結構です」
「私も、昨日の分でしばらくは」
二人で笑った。
彼は私のカップを渡してから、自分の紅茶へ二度息を吹きかけた。
見ていると、夫が眉を上げる。
「何か、おかしいでしょうか」
「昔から、そうなさるんです」
言った途端に後悔した。
また昔の話だ。せっかく二人で笑っていたのに。
「子供の頃に、舌を火傷したんですよ」
夫はカップを持ったまま答えた。
「乳母に待ちなさいと言われたのに、先に飲んでしまって。三日は何を食べても痛かった」
「そのお話は初めて聞きました」
「では、今日一つ増えましたね」
何でも知っているつもりだった。
私は紅茶を飲んだ。少し熱くて、そっとカップを下ろした。
「エミリア。さっきの薔薇は、何年育てているんですか」
「接ぎ木を始めて三年です。最初の二年は失敗しました」
「それで、あんなに必死だったのですね」
「今年は花が見られると思っていたの。あなたがお帰りになる頃には、きっと」
私は卓上の花瓶へ目をやった。
こちらの薔薇は古い株から切ったものだ。結婚した年に夫と植えた。
「昔は、植えれば咲くものだと思っていました。あなたが土を掘ってくださって、私が苗を置いて。それだけで毎年」
「私が?」
「庭師に任せればいいのに、どうしても自分でと。翌日は腕が痛いとおっしゃっていました」
夫は自分の手を見て、少し笑った。
「張り切りすぎたんでしょうね」
私は頷いて、最初の花が咲いた日のことを話した。
咲いたら一番に君の部屋へ持っていこうと、彼は言った。最初の春に持ってきたのは半分ほどしか開いていない花で、まだ早いと庭師に叱られたらしい。
待てなかったから仕方がない、と私の髪に挿した。
その声を、今も覚えている。
「素敵なお話です」
夫の言葉に顔を上げた。
優しい目だった。それだけに胸が痛んだ。
彼にとっては、私が語る一つの話なのだ。
「今日は東屋で、何か……」
そこまで言って、首を振った。
「いいえ。何でもありません」
夫はカップを置いた。
「あの場所にも、思い出があるのですね」
もう隠せなかった。
頷くと、彼は静かに息を吐いた。
「あなたの役に立つことを言えなくて、すみません」
「謝らないでください」
少し大きな声になった。
夫のせいではないと分かっていた。帰ってきてくれただけでいいと、手紙を受け取った時には本気で思った。
それなのに、目の前にいるとそれだけでは足りなくなる。
「あの東屋で、求婚してくださったんです」
私は膝の上で両手を重ねた。
「昨日のお料理も、今日の髪も、あの頃と同じにしました。何か一つでも思い出していただければ、その先も全部つながるような気がして」
夫が私を見ていた。
彼の知らない六年を、また私ばかりが話している。
「絵の中にいる、若い私なら分かっていただけるかしらと思っていました。でも、あんなふうに笑えなくて。あなたに見られると、きちんとしなくてはと緊張してしまうんです」
思い出の中の私は、もっと上手に笑っていたはずだ。
今の私は針を間違え、泥をつけ、彼が知らないことを尋ねては困らせている。
「少し休みませんか」
夫が言った。
顔を上げると、彼の視線が私の隣の空いている場所へ移った。
「そちらへ行っても?」
私が頷くと、夫は立ち上がって隣へ来た。
東屋の時より、少しだけ近い。
「私は昨日、あなたと食事をして楽しかった。けれど午後には、うまく話せなくなってしまいました」
「私が、何度も思い出したかと聞いたから」
「あなたに期待してもらうと、何か思い出したと言いたくなるんです。言えないので、話すこと自体が怖くなった」
私は膝の上の手を握った。
「でも、さっきは違いました。あなたは私に鉢を運べと言い、枝を折るなと叱った。私は紐を結んだら褒めてもらえた」
「子供扱いしてしまって、ごめんなさい」
「いえ。もう一本結びたかったくらいです」
口元が緩んだ。
夫も笑った。
「笑ってくれた。私は、その顔が好きです」
息が止まった。
彼は私の方へ体を向けた。いつもの遠征の報告を聞く時には、こんなふうに膝が触れるほど近づかなかった。
「昨日、あなたを見ていたら本が読めなかった。今日は雨が降って残念でしたが、庭にいるあなたをもっと見られた」
夫の指が膝の上の私の手へ触れた。
「明日も会いたい。あなたが何に笑って、何に腹を立てるのか知りたい。できれば、私を見て笑ってほしい」
私は彼の手を見た。
剣だこのある指。左の親指の古い傷。同じ手なのに、私の指を絡める場所を探している。
自分から指を開くと、彼は隙間へゆっくり指を入れた。
「あなたは、私が奥さんだから……」
「玄関で会った時から、きれいな人だと思っていました」
顔が熱くなる。
「一昨日ですわ」
「ええ。一昨日から、ずっと」
恥ずかしくなって俯いた。
握られた手だけは離さなかった。
「私も、お会いしたかったんです」
顔を上げずに言った。
「お留守の間だけではなくて。お帰りになった後も、お疲れだろうからと先に部屋へ戻っていました。でも本当は、寝るまで一緒にいたかった」
前の夫に、言ったことはなかった。
遠征の話をしてくれるうちに眠くなり、途中で寝てしまった夜がある。翌朝、枕元に続きを書いた紙が置いてあった。嬉しくて、もっと聞かせてほしいと笑えばよかったのに、子供のような真似をして申し訳ないと謝った。
あの紙も、まだしまってある。
「私は、あまり立派な奥さんではありません。寂しいのに、寂しくない顔をしていました」
「では、今夜は一緒にいてください」
夫の返事は簡単だった。
「本は読みますが、時々あなたに話しかけても?」
「ええ。私は、刺繍はやめておきます」
「私が見すぎなければ大丈夫では」
「できますの?」
彼は少し考え、首を振った。
私はとうとう声を上げて笑った。
◇
私は夫に待っていてもらい、寝室へ上がった。
鏡台の端には指輪の小箱があった。
蓋を開けると、見慣れた金の輪がある。内側に刻まれた文字を指先でなぞった。
結婚した日の年月と、二人の名前。
彼はあの日を忘れている。私の手が震えていて指輪がなかなか入らなかったことも、式の後でそっと「私も緊張していた」と教えてくれたことも。
これから先も、私だけが思い出す日があるだろう。
そのたびに今日と同じように寂しくなるのだと思う。
けれど今日、庭で私に葉がついていると笑った人も、彼だった。
私にもう一度会いたいと言って、下で待っている。
小箱を閉じて持っていった。
居間へ戻ると夫は窓のそばに立っていた。雨は上がり、鉢の並ぶ壁際を日が照らしている。
彼は私の手にある箱を見つけると、すぐにこちらへ来た。
「それは」
「あなたがくださった指輪です」
蓋を開けて差し出した。
「一昨日から、外していました」
「気づいていました。私がしているものと同じなので」
彼は左手を見せた。
そこにはよく似た指輪がある。外側の細い彫り模様まで同じだ。
「私の方は、外す気になれませんでした。理由が分かったのは今日ですが」
夫は私から箱を受け取った。
指輪を取り出して掌に載せ、空の箱を卓上へ置いた。私の薬指に何もないのを確かめてから、顔を上げた。
「エミリア。もう一度、私と結婚してください」
目の前が滲んだ。
同じ声で、同じ名前を呼ばれている。
夫が少し不安そうに眉を下げたので、私は急いで頷いた。
「はい。喜んで」
差し出した手を、彼が取る。
六年前のように私の指が震えていた。夫は急がず、薬指の先へ金の輪を通した。
途中で一度止まったけれど、手を支え直すと、指輪は元の場所へ収まった。
「前にも、こうして求婚してくださったんです」
「では、二度とも私の見る目は確かだった」
そんなふうに言う人だっただろうか。
初めての求婚を思い返しかけて、私は目の前の夫を見た。
上手に言えた顔をしているのに、私の手を包む指はまだ固かった。
「これから、たくさん口説いてくださいね」
「既に、そのつもりです」
私は一昨日と同じように腕を広げた。
夫は下がらなかった。
私の背中を抱き、胸へ引き寄せる。手の置き方は少し違ったけれど、頬を寄せたところは思っていたより近く、温かかった。
「お帰りなさい、アーネスト様」
「ただいま、エミリア」
今度はちゃんと言えた。
顔を上げた私に、夫が口づけた。
夕方、二人で庭へ出た。
救い出した薔薇の枝は折れていなかった。夫が結んだ紐も、そのまま残っている。
彼は一つずつ確かめ、まだ蕾のない先端を覗き込んだ。
「花が咲いたら教えてください」
「朝はいつも、私が見に来るんです」
「では、明日から私も」
東屋の椅子には乾いた敷布が掛け直されていた。
私は二脚を隣り合わせに寄せ、片方へ腰を下ろした。夫がもう片方に座り、持ってきた本を開く。
間から青いリボンがのぞいた。
私が栞を挟んだ頁から、二頁しか進んでいなかった。
「あまりお読みに、なれなかったのね」
「見ていたかったので」
今度は目を逸らさなかった。
彼が本に目を戻すと、私はその肩に寄りかかった。少し驚いた気配がした後、片腕が私の肩へ回った。
紙をめくる音が近くで聞こえる。
「どんなお話ですか」
尋ねると、夫は最初の頁へ戻った。
「はじめから、お話ししましょう」




