元社畜は異世界の王女となり、腹黒殲滅隊(仮)を結成しました ~婚約者には内緒にしていますが、悪い貴族に容赦はしません2~
短編シリーズ2作目です。一話完結ですのでこのお話のみでも楽しんでいただけるかと思います。
リリエラは自室で反省していた。
そう某時代劇番組のお殿様も市政には協力者がいて良く顔をだしていた。街の様子も情報もよく確認していた。
城でぬくぬくしていては事件も発見できないし、だれも得しない。私が茶菓子を食べすぎるだけである。
「街へ向かいましょう。我らが先鋭部隊、腹黒殲滅隊(仮)」
「殿下、その名前以外でお願いします」
ガエルがぼやく。
「もう受け入れたほうが良いのでは?」
「後悔します」
「時期にこの名前の良さがわかる気がするのですが」
「そのような時期は、きません」
「皆が素直に話してくれるのは嬉しいです。では引き続き名前は検討事案にしましょう」
出向くことこそ物語の一歩なのだ。
「ふふふ、悪い貴族はいないかな」
☆☆☆
「アーノルド様、至急お伝えしたいことがあります」
王城執務室でアーノルドは大量の資料をさばいていた。
日常である。
「話してくれ」
「リリエラ様が王都へ向かわれました」
「動向をいつものように報告してくれ」
「承知しました」
リリエラの動向を確認するものを新たに任命した。行動は時に危険も伴う。彼女には自由にいてもらいたいが、何かあってはいけない。悪事の探りには危険はつきものだ。その意識は恐らく低いだろう。ならばこちらが悟られないように動こうじゃないか。かわいい婚約者様。
☆☆☆
王都で人気のパン屋さん。朝早くから開店し人の出入りも多いだろう。
そこの小さいカフェスペースを目指していった。
何気ない常連たちの話がきけるのではと少しウキウキしていた。悪事ではなくてもいい。些細な幸せや、毎日の愚痴、なんでもいいのだ。人の暮らしを実感したい。もしブラックな働きをみつけたら、腹黒殲滅隊(仮)を動かすか。
その時だった。
「明日だぞ」
「お互いに悪い話じゃないはずだ」
吐き捨てながら柄の悪い男性二人がパン屋から乱暴に出て言った。
え?
「絵にかいたような悪者でしたね」
「ああいうのはたいてい理不尽な話でしょう」
ガエルやヘルマン、スズが激しく同意する。
「行きましょう」
「こんにちは、今の人たちと何かあったのですか」
「何?関係ない」
ぶすっと拗ねた顔で女の子は言った。
「では、おいしそうなアップルパイと飲み物をください」
「ちょっと待って」
「こら、カタリナ」
「すみません。お見苦しいものをお見せしてしまったようで。今商品をお持ちします」
店主が慌てて対応した。
「あの方々は悪い話じゃないはずだと言っていました。何か持ち掛けられたのですか?いつもならお客さんも沢山いますよね。それに、パンの品数も減っていますね」
「そうですね。前男爵様が娘を気に入ってくださったのですが、私と同じ歳の方で側室にとお話がありました。丁重に断ったのですが、断ることが失礼だったようです。貴族の方々の常識がわからず、反感をかってしまいました」
「お父さん。話さなくていいのに。この人もどうせ貴族でしょ。あっち側だったらどうするの?」
「私はあなたのいうあっち側ではありませんよ。」
「貴族は信用できないわ」
「はは。私はリリ、悪には容赦がない町娘リリです。」
「どう容赦がないのよ。あいつら、商会に圧力かけてうちだけ小麦の値段倍だわ、お客に迷惑行為するわ、衛兵も見逃すのよ。お母さんの薬も買えないし、私が側室になればいいんだけど、そしたらお父さん一人で店もお母さんのお世話もできない」
「側室になりたいの?」
「嫌にきまってるでしょ。」
「それがわかればいいわ。明確な悪い貴族に容赦はしません。ふふふ、黒い黒い」
「紅茶とアップルパイです」
「ありがとうございます」
カタリナと話をしていると、カタリナの父である店主がアップルパイを持ってきてくれた。
さくっとくちにひろがるバターの風味のパイ生地にざく切りアップルがとてもおいしい。
これほどおいしいパンを作る店から、客を遠ざけるなんて。
許すまじ。
それだけでも成敗に値する。
「前男爵は、いつ返事を聞きに来るのですか?」
「明日。本人が迎えに来るって」
「そうですか」
本人が来る。
これは成敗のタイミングなのでは?
「カタリナ。一つ、お願いがあります」
「何?」
「明日一緒に前男爵を待ち受けましょう」
「あなたは何をするの?」
「私ではなく、カタリナが前男爵に確認してください。側室にさせるために悪事を働いたのか、と」
「それで、どうするの?」
「本人の証言があればこちらも動けます」
「本当に、前男爵を止められるの?」
カタリナが声を落とした。
「商会も、衛兵も、みんなあの人の言いなりなのよ。貴族同士の争いならともかく、私たちはただのパン屋よ」
「止めます」
私はカタリナをまっすぐ見た。
「私一人では無理でも、止める力を持つ方へ必ずつなげます。そのためには、前男爵本人の言葉と証拠が必要です」
「証拠?」
「小麦の値段を上げさせたこと。客を脅したこと。衛兵へ圧力をかけたこと。それらを前男爵本人に認めさせます」
「そんなにうまく話すかしら」
「そこは、あなたの力の見せどころですよ。」
「私?あなたはまとめ役ってところかしら」
「そうかもしれませんね。頑張りましょう。またおいしいパンを食べたいじゃないですか」
カタリナは黙り込んだ。
やがて店の奥へ目を向ける。
このまま何もしなければ、店は潰れる。
薬も買えなくなる。
そしてカタリナは、家族を救うために前男爵のもとへ行くことになるだろう。
「……わかった」
カタリナは拳を握った。
「協力する」
「ありがとうございます」
☆☆☆
その日の夕刻。
王城の執務室で、アーノルドは従者から報告を受けていた。
「前男爵が、パン屋の娘を側室にするため、商会や衛兵へ圧力をかけているようです」
「リリエラは?」
「明日、前男爵本人が店へ向かうとのこと、其時に証言を取るつもりかと」
「そう」
アーノルドは、机の上で指を組んだ。
「前男爵は、ファビオ男爵の父親だったね」
「はい。レナード殿下の支持者を長年名乗っております」
レイナ公爵令嬢を陥れようとしたファビオ男爵。
その父親が、今度は民の暮らしを脅かしている。
「王都の衛兵隊長へ、すぐに連絡を」
「すでに、お呼びしております。リリエラ様もすでに面会されていました」
「さすがだね」
王都の衛兵隊長が執務室へ現れた。
その顔は険しく疲れがみえた。
「確認が取れました」
衛兵隊長は、机へ書類を置いた。
「パン屋からの訴えを握り潰した衛兵は三名。いずれも前男爵から金を受け取っております」
「本人たちは認めたのか?」
「はい。すでに職務から外しました。正式な処分については、詳しい調査を終えたあとに決定いたします」
衛兵隊長自身は、部下の買収を知らなかった。
だが、監督する立場として強く責任を感じているようだ。
「明日、前男爵はパン屋へ直接出向くそうだね」
「はい。店の娘を迎えに行くつもりのようです。」
「リリエラからも話があったかな?」
「はい、第二王女殿下も現場にて確認するとおっしゃっていました」
アーノルドは穏やかに笑った。
「リリエラは、困っている人を見つけたら放っておけない。」
「ですが万が一があってはいけませんので、アーノルド様から現場に向かう必要はないとお伝えください。私が対応すれば済むことです」
アーノルドの瞳から、わずかに笑みが消えた。
「自由は尊重したいんだよ。君がいて、リリエラの部下もいる。」
だが、相手は、追い詰められた悪人。
何をするかわからない。
「姿を見せるのは、本人が悪事を認めたあとだ。記録晶も用意してある。現場では、リリエラの指示に従ってほしい」
「かしこまりました」
衛兵隊長は深く頭を下げる。
「第二王女殿下には、この件をアーノルド様が手配されたとお伝えしますか?」
「いや」
アーノルドは迷いなく答えた。
「リリエラには内緒にしておいて」
「よろしいのですか?」
「彼女は、自分の秘密活動を僕に知られていないと思っているからね」
もちろん、すべて知っている。
町娘へ変装したつもりになっていたことも。
腹黒殲滅隊という名前を、まだ諦めていないことも。
けれど本人が秘密にしておきたいのなら、知らないふりをする。
「彼女の手柄を奪うつもりはないよ」
証拠を見つけたのはリリエラ。
パン屋の家族から信頼を得たのもリリエラ。
前男爵を店で言質をとると考えたのも、彼女だ。
アーノルドがすべきなのは、その作戦が安全に成功するよう、見えない場所から支えることだけ。
「承知いたしました。殿下には伏せておきます」
「ああ。それから、もう一つ頼みがある」
「なんでしょうか」
「事件が片づいたら、その店のパンを僕へ差し入れてはどうかと、リリエラに話してくれないかな」
衛兵隊長が瞬きをした。
「私から、でございますか?」
「お願いできる?」
「アーノルド様が直接お頼みになったほうが、よろしいのでは?」
「直接頼むには、僕がパン屋の件を知っていると明かさなくてはならないだろう?」
「確かに」
「裏で動いてばかりで、最近はリリに会えていないんだ」
アーノルドは、少しだけ寂しそうに笑った。
「パンを届けるという口実でもあれば、顔を見せに来てくれるかもしれない」
衛兵隊長は、しばらく言葉を失った。
この有能な公爵は婚約者に会いたいからとパンを差し入れてもらうことを願った。
なんなんだ、乙女だろ公爵様。
「必ず、お伝えいたします」
「ありがとう」
☆☆☆
翌日。
パン屋の扉には、『本日休業』の札が下げられていた。
カタリナと店主は店内で前男爵を待ち、母親は店の奥で休んでいる。
私はフードを深くかぶり、腹黒殲滅隊(仮)とともに物置へ身を潜めていた。
ただし、本日の仲間は三人だけではない。
先鋭隊と同じ黒い外套を身につけた、大柄な男がもう一人いる。
王都の衛兵隊を預かる、衛兵隊長である。
今回、パン屋からの訴えを握り潰した衛兵たちは、前男爵から賄賂を受け取っていた。
その事実は、すでに衛兵隊長自身の調査によって確認されている。
関わった者たちは職務から外され、処分を待つ身となっていた。
「ご協力、ありがとうございます」
私が小声で告げると、衛兵隊長は深く頭を下げた。
「部下の不始末は、私の責任でもございます。必ず、この場で決着をつけます」
「ですが、その格好はお似合いですね」
「ありがとうございます」
「腹黒殲滅隊(仮)へ入りませんか?」
「殿下」
ガエルが冷静に伝える。
「今は勧誘をしている場合ではありません」
「残念ですね」
やがて、店の前に馬車が止まった。
からんからん、と鐘が鳴った。
「待たせた」
大きな腹を揺らしながら、前男爵が店へ入ってくる。
その後ろには、昨日この店を脅していた二人の男がいる。
前男爵は満足そうに笑っていった。
「カタリナ、最初から素直であればよかったのだ」
「……家族の前で、確認したいことがあります」
「よかろう」
前男爵は頷く。
「小麦の値段がうちだけ倍になりました。側室になれば、元に戻るのですか?」
「戻るように計らおう。上げるのも下げるにも簡単なことよ」
「急にお客さんが来なくなりましたが、そちらもあなたが?」
「周囲の店へ忠告した。私に逆らう店と取引を続ける者など、この王都には必要ない」
「衛兵に助けを求めましたが、無視されました。あなた様のお力ですか?」
「平民の訴えを無視する程度、安いものだったぞ」
前男爵の声は、カウンターに置かれた記録晶へすべて保存されている。
「これで満足したか?」
前男爵はカタリナへ手を差し出した。
「さあ、来い」
「私は、まだ行くとは言っていません」
カタリナが一歩下がる。
前男爵の表情が険しくなった。
「お前に選択肢はなかろうに」
「嫌なものは嫌です」
前男爵が顎を動かす。
「連れていけ」
後ろに控えていた二人の男が、カタリナへ手を伸ばした。
「大人しくしろ!」
「そこまでです」
物置の扉が開く。
私を先頭に、黒い外套をまとった者たちが店内へ出た。
「なんだ、お前たちは」
前男爵が顔をしかめる。
男たちは構わず、カタリナへ襲いかかろうとした。
「ガエル。ヘルマン」
「はっ」
二人が静かに動いた。
ガエルは振り上げられた腕をつかみ、そのまま男を床へ伏せさせる。
ヘルマンはもう一人の背中へ腕を回して動きを封じた。
大きな音も、派手な技もない。
男たちは床に押さえつけられていた。
「無理やり連れていこうとするとは、どこまでも悪ですね」
私は扇子を開く。
「うるさいぞ小娘が、お前に用はない!」
前男爵が怒鳴る。
「私はレナード殿下を長年支えてきた者だぞ! 衛兵隊にも顔が利く!」
その言葉を聞き、黒い外套の一人が前へ出た。
「どう顔が利くのかな」
衛兵隊長である。
前男爵はその顔を見た瞬間、表情を変えた。
「これは衛兵隊長殿ではありませんか」
「前男爵。ずいぶんと好き勝手をしてくれたね」
「いえ、これは何かの誤解です。私とあなたの仲ではありませんか」
前男爵は慌てて近づき、声を潜める。
「部下の不始末程度、こちらで穏便に収めましょう。もちろん、相応の礼は――」
「この御方の前で、これ以上悪事を増やすつもりか」
衛兵隊長の声が低く響いた。
前男爵の動きが止まる。
「この御方……?」
彼の視線が、ゆっくりと私へ向けられた。
深くかぶったフードの隙間から、碧眼と群青色の髪が覗いている。
そして、私が開いている扇子。
その要には、王家の紋章が刻まれていた。
前男爵の顔から血の気が引く。
「まさか……」
「お気づきになりましたか?」
「お、王女殿下……?」
その声は、震えるほど小さかった。
「お兄様の名を利用し、民を脅し、自分の欲を満たそうとしましたね」
「お待ちください! 私は殿下のために、多くの貴族をまとめてきたのです!」
「それが、悪事を見逃す理由になると?」
「私を処分すれば、レナード殿下の支持が弱まりますぞ!」
前男爵は必死に訴える。
私は静かに彼を見つめた。
「悪人の支持で成り立つ王位に、価値などありません」
私が大きく動けば、第二王女が第一王子派を攻撃したと受け取られるかもしれない。
私は王位争いへ加わるつもりはない。
だから、この男を裁くのは私ではない。
「あなたの悪事を記録した魔道具と、商会への命令書、賄賂の記録は、すべてレナードお兄様へお渡しします」
「そんな……」
「お兄様の支持者を名乗るのなら、お兄様から直接裁きを受けなさい」
前男爵は、その場に崩れ落ちた。
「衛兵隊長」
「はっ」
「この者たちを拘束してください」
「承知いたしました」
衛兵隊長が合図をすると、外で待機していた衛兵たちが店内へ入ってくる。
床へ押さえつけられていた男たちが連行され、前男爵にも縄がかけられた。
「リリ」
背後から、カタリナの声がする。
私は何食わぬ顔で振り返った。
「何でしょう?」
「衛兵隊長が、どうしてあなたの言うことを聞くの?」
「日頃の行いでしょうか」
「絶対に違うでしょ」
カタリナは、私がどこか高位の貴族令嬢であるとは確信したようだ。
けれど、王女だとはまだ気づいていない。
たぶん。
「リリエラ殿下」
帰ろうとした私へ、衛兵隊長が声をかけた。
「おっとっ。なんでしょう?」
衛兵隊長。。。がっつり名前を呼ばれてしまった。
「えっ、リリエラ殿下って、王女様ってこと?!」
カタリナが真っ青になっている。
だが、衛兵隊長は続けて話をした。
「こちらの店のパンを、アーノルド公爵様へ差し入れてはいかがでしょうか」
「アーノルド様へ?」
なぜ、今その名前が出るのだろう。
「アーノルド様は日頃、大変お忙しくされております。甘いものを召し上がれば、お喜びになるかと」
「アーノルド様って公爵様?、王女と公爵様がうちのパンを?!」
カタリナは固まった。
「そうですね、ここのアップルパイはおいしかったです。他のパンも気になります」
衛兵隊長はなぜアーノルド様を気にされるのだろうか。そんなにアーノルド様は甘いものがお好きなのかしら?
最近はアーノルド様も忙しく、ゆっくり話す時間がなかった。
差し入れを持って会いに行くのは、良い考えかもしれない。
「カタリナ。アップルパイを5つとおすすめのパンを5つ、いただけますか?」
腹黒殲滅隊(仮)へも甘いもので労わなければね。
☆☆☆
その日の夕刻。
私はレナードお兄様の執務室を訪れていた。
机の上には、記録晶と証拠書類が並べられている。
レナードお兄様は、険しい顔で目を閉じた。
「彼が私の支持者を名乗っていたことは知っていた」
「悪事については?」
「知らなかった。だが、知らなかったでは済まない。私の名が、民を脅すために利用されたのだから」
レナードお兄様は記録晶を手に取った。
「知らせてくれてありがとう、リリエラ」
「私は、悪い貴族を見つけただけです」
「また、お忍びで街へ出たのか?」
「市政調査です」
「危険なことはしていないだろうな」
「私は扇子を振っていただけです」
「それは、安全なのか?」
「部下たちは大変強く、今回は衛兵隊長が協力してくださいました」
レナードお兄様は、なぜか額を押さえた。
褒めてもらえると思ったのに。
「前男爵の処分は、私が行う」
お兄様は表情を引き締めた。
「私の支持者を名乗りながら民の生活を脅かす者を、身内だからと庇うつもりはない」
「お願いします」
前男爵は、レナード派から永久追放。
パン屋へ与えた損害については賠償を命じられ、刑事責任についても正式に裁かれることになった。
圧力に屈した商会や、賄賂を受け取った衛兵たちも処分の対象となった。
そして、ファビオ男爵家そのものにも厳しい監督が入る。
☆☆☆
レナードお兄様へ証拠を渡したあと、私は紙袋を手にアーノルド様の執務室を訪れた。
扉を叩く。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入室すると、アーノルド様は山積みの書類から顔を上げた。
私を見るなり、柔らかく微笑む。
「リリエラ。珍しいね」
「お忙しいところ、申し訳ありません」
「君が来てくれたのなら、いつでも歓迎するよ」
私は机の前まで進み、紙袋を差し出した。
「王都で評判のパン屋へ行きましたので、差し入れです」
「僕に?」
「はい。おいしいですよ」
アーノルド様は、嬉しそうに紙袋を受け取った。
「ありがとう」
「パンを買った以外には何かしたのかな?」
「特には」
「そう」
アーノルド様は、それ以上追及しなかった。
やはり、何も知られていない。
私は内心で安堵する。
その一方で、アーノルドは穏やかな笑みのまま考えていた。
(前男爵を捕らえて、レナード殿下へ証拠を届けたことは、特に何もしていないうちなのかな)
衛兵隊長から、すでに報告は受けている。
リリエラが無事だったことも。
扇子を掲げて前男爵を追い詰めたことも。
すべて知っている。
けれど、本人が秘密にしたいなら、知らないふりをする。
「リリエラ」
「おいしいものを共有してくれてありがとう。今度は楽しいことも共有できると嬉しいな」
☆☆☆
数日後。
私は再び、パン屋を訪れた。
店内には客足が戻り、焼きたてのパンの香りと楽しそうな話し声で満ちている。
「リリエラ王女様、この度はありがとうございました」
カタリナと店主がカウンターから出てきて頭を下げた。
そう衛兵隊長のせいで王女とばれてしまったから。
「私は少し悪に容赦がない、町娘のリリです」
「まだ言うんですか?」
「その呼び方が気に入っていますので。それと口調も丁寧にしなくていいです」
「では恐れ多いけど、リリで」
「あなたは、この街のことをよく知っていますね」
パン屋には、多くの人が訪れる。
パンの配達で、カタリナ自身も街を歩く。
住民の噂。
商人たちの困り事。
表立って王城へ訴えるほどではない、小さな異変。
王族である私には届かない声も、彼女なら聞けるはずだ。
「街で困ったことや、おかしな話を耳にしたら、私へ教えてほしいのです」
「どうやって?」
「この店へ、ときどきパンを買いに来ます」
「そうね」
カタリナは少し考え、にやりと笑った。
「あなたが来るたび、必ずパンを買うこと。それでどう?」
「喜んで」
交渉成立である。
母親は正式な医師の診察を受け、治療を始めていた。
すぐに完治する病ではないらしい。
けれど、以前よりも痛みは和らぎ、顔色も良くなっているらしい。
身分を気にせず話してくれる、街の協力者。
ついに私も、時代劇のお殿様へ一歩近づいたのだ。
「ふふふ」
「今度は何を企んでいるの?」
「街には、ほかにも悪い貴族がいるのではと思いまして」
「嬉しそうに言わないでよ」
「そう、ほんとはいない方が良いですからね」




