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足立区殺人事件

僕がタクシーのハンドルを握るようになった理由を、うまく言葉にすることは難しい。

生きるという行為そのものが、あまりに曖昧で、輪郭を持たないものだからだ。


ただ一つ言えるのは、昼の光の中では、どうしても自分という存在が浮ついてしまったということだ。

人々は整然とした顔で歩き、同じ速度で呼吸をし、同じような未来へと向かっていく。

そこに、僕の居場所はなかった。


夜は違う。

夜は、すべてを曖昧にする代わりに、すべてを露わにする。


ネオンの滲む路地、濡れたアスファルト、行き場を失った視線。

昼間には押し込められていた感情が、形を持たずに街へと溢れ出す。


タクシーという箱は、その断片を一時的に収容する場所だ。

名前も知らない誰かの人生が、数十分だけ、僕の隣に座る。


目的地を告げる声の奥に、言葉にならない何かが潜んでいることを、僕は知っている。

それは、後悔かもしれないし、祈りかもしれない。あるいは、ただの沈黙かもしれない。


生きる難しさは、誰もが知っている。

だが、それを口にする者は少ない。


だから僕は、走る。

この街のどこかで、言葉にならなかった“何か”を乗せるために。


そして今夜もまた、一人の客が、静かにドアを開ける。

東京の端に、取り残されたような場所がある。

足立区。


都心からそう遠くはないはずなのに、どこか別の地層にあるような街だ。

古びた住宅と新しい建物が混ざり合い、整いきらない景色がそのまま残っている。


この街には、昔から“荒れている”という言葉がつきまとっていた。

理由はひとつじゃない。

安い家賃、人の出入りの多さ、家庭環境のばらつき。

そして、濃すぎる人間関係。


同じ学校、同じ地元、同じ顔ぶれ。

その輪の中で生きることは、安心であると同時に、逃げ場のなさでもある。


数日前、この街で事件が起きた。

学生が同級生をナイフで刺して殺害したというニュース。


都内に住んでいれば、誰もが目にしたはずだ。

いや、全国ニュースにもなっていた。ほとんどの人間が知っているだろう。


場所も報道されていた。

見覚えのある地名だった。

何度も通ったことのある場所。


画面の中の出来事のはずなのに、妙に現実味があった。


——数日後。


夕方五時を少し過ぎた頃。

上野駅のタクシー乗り場で、一人の男を乗せた。


「……足立区、〇〇まで」


その住所を聞いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。

ニュースの場所と、同じだった。


車を発進させる。


少し迷ってから、僕は口を開いた。


「お客さん、そちらの住所……最近ニュースありましたけど、大丈夫ですか?」


好奇心だった。

それ以上でも、それ以下でもない。


「あー、それね」


男は、静かにそう言った。


その声には、驚きも、嫌悪もなかった。

ただ“知っている側”の響きがあった。


バックミラー越しに目が合う。


「どう思いました? あのニュース」


問いかける目が、わずかに細くなる。


「……怖いな、とは思いましたね」


当たり障りのない言葉を返す。


男は、小さく笑った。

笑っているのに、温度がなかった。


「足立ってさ、ヤンキー多いじゃないですか」


ぽつりと、話し始める。


自分もその中にいたこと。

仲間という関係の濃さ。

外から見れば絆でも、中にいれば鎖のように感じること。


「狭いんすよ、世界が」


窓の外を見ながら、男は言った。


「逃げようとしても、どこ行っても繋がってる」


信号で止まる。

夕方の光が、少しずつ沈んでいく。


「……今回のやつ」


男が続ける。


ほんの少しだけ、声のトーンが変わった気がした。


「知ってるやつなんすよ」


さらりとした言い方だった。


「びっくりは、しなかったっすね」


間。


「まあ、ああいう流れ、あるんで」


“流れ”という言葉が、やけに引っかかった。


何の流れなのか、聞くことはできなかった。


バックミラーに映る男の目は、どこか遠くを見ていた。

それは過去なのか、それとも——


「場所も、あそこじゃないですか」


男は続ける。


「あの辺、夜とか普通に……いや、なんでもないです」


言いかけて、やめる。


車内に、説明されない何かが残る。


やがて目的地に着く。


「ここで」


車が止まる。


男は料金を払い、ドアに手をかける。


そのまま降りるかと思った瞬間、ふと思い出したように振り返った。


「あんま周りには言わんといてくださいね」


穏やかな声だった。


だが、その目だけが、笑っていなかった。


「……言ったら、気をつけてくださいね」


一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。


男はそれ以上何も言わず、車を降りた。


振り返ることもなく、路地の奥へ消えていく。


ドアが閉まる。


妙に静かだった。


僕はすぐにギアを入れた。


理由はわからない。

ただ、そこに長くいるべきじゃない気がした。


アクセルを踏む。


バックミラーには、もう誰も映っていなかった。 




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