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歌舞伎町ゴールデン街

僕がタクシーのハンドルを握るようになった理由を、うまく言葉にすることは難しい。

生きるという行為そのものが、あまりに曖昧で、輪郭を持たないものだからだ。


ただ一つ言えるのは、昼の光の中では、どうしても自分という存在が浮ついてしまったということだ。

人々は整然とした顔で歩き、同じ速度で呼吸をし、同じような未来へと向かっていく。

そこに、僕の居場所はなかった。


夜は違う。

夜は、すべてを曖昧にする代わりに、すべてを露わにする。


ネオンの滲む路地、濡れたアスファルト、行き場を失った視線。

昼間には押し込められていた感情が、形を持たずに街へと溢れ出す。


タクシーという箱は、その断片を一時的に収容する場所だ。

名前も知らない誰かの人生が、数十分だけ、僕の隣に座る。


目的地を告げる声の奥に、言葉にならない何かが潜んでいることを、僕は知っている。

それは、後悔かもしれないし、祈りかもしれない。あるいは、ただの沈黙かもしれない。


生きる難しさは、誰もが知っている。

だが、それを口にする者は少ない。


だから僕は、走る。

この街のどこかで、言葉にならなかった“何か”を乗せるために。


そして今夜もまた、一人の客が、静かにドアを開ける。


新宿、歌舞伎町。ゴールデン街の細い路地から、男が一人、ふらつくように出てきた。

ネオンに照らされたその顔は、酔っているというより、どこか“削れている”ように見えた。


ドアが開く。


「……〇〇まで」


低く、乾いた声だった。

行き先を告げるその一言に、感情らしい起伏はなかった。


車を発進させる。

夜の街が、静かに後ろへ流れていく。


バックミラー越しに見た男の表情は、やはりどこか沈んでいた。

言葉にすれば“悲しい”のだろうが、それよりも、もっと深くて、名前のつかない色をしていた。


しばらく走ったところで、男は不意に口を開いた。


「俺、結婚して三年なんだよね」


独り言のようだった。

返事を求めているわけではない。ただ、誰かに聞かせるための言葉。


「そうなんですね」


僕は、ただ相槌を打つ。


「嫁、すげえいいやつでさ」


男の口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。

それは笑顔というには頼りなく、すぐに消えてしまう程度のものだった。


「黒髪でさ、ストレートで……朝起きたときの寝癖とかも、なんか全部かわいくてさ」


言葉の端々に、確かな愛情が滲んでいた。

料理の味付けが少し濃いところも、すぐに謝る癖も、くだらないことで笑い転げるところも。

男は、思い出をなぞるように、ひとつひとつ語った。


そして、少しだけ間を置いてから、続けた。


「でもさ、子供できにくい体でさ」


車内の空気が、わずかに重くなる。


「妊活、二人で頑張ってたんだよ」


信号で止まる。赤い光が、フロントガラスに滲む。


「やっとできたんだよ」


声が、少しだけ震えていた。


「でも身体弱くて」


「三ヶ月、、、もたなかった、」


その一言は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。


何か言葉を返そうとして、やめた。

どんな言葉も、この事実を軽くしてしまう気がした。


「家、さ。空気、やばくてさ」


男は笑った。

笑っているのに、まったく楽しそうではなかった。


「逃げたんだよ、俺」


ゴールデン街の名前を、ぽつりと出した。

行きつけのバーで、何も考えないように酒を流し込んでいた、と。


「でもさ」


少しだけ、声に力が戻る。


「それでも、あいつのこと好きなんだよな」


バックミラー越しに見たその顔は、さっきよりも、少しだけ“人間”に戻っていた。


「これからも、ちゃんとやるよ。妊活も。もう、悲しませたくないし」


その言葉は、決意というより、祈りに近かった。


やがて車は、渋谷のホテル街に差し掛かる。

ネオンの色が、どこか生々しく変わる場所だ。


「ここでいい」


車が止まる。


ドアが開く前、男は一瞬だけ、何かを言いかけてやめた。

そして何も言わずに、外へ出た。


少し離れたところで、金髪のドレス姿の女が待っていた。

男はその女のもとへ歩いていく。


その背中は、さっきよりも軽く見えた。

それが救いなのか、ただの逃避なのかは、僕にはわからなかった。


ドアが閉まる。


夜は何もなかったかのように、また動き出す。


僕は、次の客を探すために、静かにアクセルを踏んだ。  


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