30日間で完璧な恋人を創り出す方法
毎日が、同じ日のコピー&ペーストのように過ぎていく。
朝六時にスマートフォンが奏でる無機質なアラームで目を覚まし、満員電車という名の鉄の箱に詰め込まれて、名前の長いIT下請け企業へ向かう。終電近くまで意味のないデータ入力と、理不尽な上司への謝罪を繰り返し、帰りのコンビニで冷たい弁当と発泡酒を買う。
俺、葛木和也、二十七歳。
恋人はおろか、休日に酒を飲み交わす友人もいない。実家の両親とは高校を卒業して以来、完全に疎遠になっている。この一ヶ月間で俺が口にした言葉といえば、コンビニの外国人店員に向けた「袋はいりません」と「温めてください」くらいのものだ。
築四十年の木造アパートに帰り、蛍光灯の冷たい光の下で弁当を胃に流し込むたび、俺の心の中には真っ黒で巨大な「孤独」という名の穴が広がっていった。
誰かと話したい。誰かに触れたい。誰かに「お疲れ様」と言ってほしい。
だが、俺のような取り柄もない、しがないサラリーマンにそんな都合のいい人間が現れるはずもない。マッチングアプリに登録しても「いいね」は一つもつかず、風俗に行く金も気力もない。
このまま誰にも愛されず、誰にも必要とされず、誰の記憶にも残らないまま、この薄暗い部屋の片隅で干からびて死んでいくのだろうか。そんな絶望感が、泥のように重く身体にのしかかっていた。
その奇妙な書き込みを見つけたのは、冷たい雨が窓ガラスを打ち付ける、金曜日の深夜のことだった。
ベッドに寝転がり、あてもなくスマートフォンの画面をスクロールして、オカルト系の匿名掲示板を眺めていた俺の目に、ひとつのスレッドタイトルが飛び込んできた。
『30日間で完璧な恋人を現実化する【タルパ】の作り方』
タルパ。それはチベット密教に伝わる概念で、人間の強い思い込みと想像力によって、脳内に独立したもう一つの人格を創り出す技術を指す。ネット上では「|イマジナリー・フレンド《空想の友人》」の究極系として、一部の界隈で密かに流行しているものだった。
通常、タルパの生成に成功したとしても、頭の中で声が聞こえたり、視界の端に幻覚として姿が見えたりする程度だと言われている。
だが、そのスレッドの書き込みは違った。
『この儀式を完璧に遂行し、自らの生命力を注ぎ込めば、タルパは物理的な質量を持ち、現実世界に顕現します。触れることも、体温を感じることも可能です。ただし、一度肉体を持ったタルパを消滅させるのは非常に困難であり、最悪の場合、創造主の存在が食い破られる危険性があるため、自己責任で行ってください』
馬鹿馬鹿しい。
ただの妄想が物理的な肉体を持つわけがない。オカルト好きの厨二病患者か、暇人が書いた妄言だ。
そう頭では理解しながらも、俺は画面をスクロールする手を止められなかった。
儀式の手順は、異常なほど詳細でありながら、誰にでもできるシンプルなものだった。
一、未使用の黒いノートを用意し、理想の恋人の容姿、性格、設定を可能な限り詳細に書き込むこと。
二、その日から三十日間、その恋人が「すでに自分の部屋で一緒に暮らしている」と信じ込み、振る舞うこと。
三、朝は「おはよう」と声をかけ、食事は二人分用意し、ベッドは半分空けて寝ること。
四、三十日間、一秒たりともその存在を疑わないこと。疑念を抱けば、儀式はリセットされる。
気がつけば、俺は引き出しの奥から未使用のノートとボールペンを取り出していた。
どうせ失うものは何もない。孤独で狂いそうな夜をやり過ごすための、ちょっとした暇つぶしだ。馬鹿なことをしていると自嘲気味に笑いながら、俺はペンを走らせた。
『名前:栞。年齢:二十四歳。
容姿:肩まで伸びた艶やかな黒髪。色白で、少し垂れ目がちの優しい瞳。華奢な体つきで、いつもほんのりと甘いシャンプーの香りがする。
性格:穏やかで、献身的。俺のことが何よりも好きで、絶対に俺を裏切らない。家事が得意で、俺が帰宅すると極上の笑顔で出迎えてくれる。俺のすべてを受け入れ、肯定してくれる存在』
俺の歪んだ欲望と、都合のいい理想をすべて詰め込んだプロット。
書き終えたノートをテーブルの上に置き、俺は何もない空間に向かって言った。
「……よろしく、栞」
当然、返事はない。雨音だけが部屋に響いていた。
こうして、俺の滑稽で狂った三十日間が幕を開けた。
* * *
最初の十日間は、ただひたすらに虚しく、惨めだった。
誰もいない暗い部屋に帰宅し、「ただいま」と虚空に向かって呟く。スーパーで二人分の食材を買い、向かいの席に誰もいないのに「今日の生姜焼き、上手くできたよ」と語りかけながら食べる。残ったもう一人分の食事は、翌朝に生ゴミとして捨てる。
三日目にはあまりの馬鹿らしさにノートを捨てようとした。十日目には虚無感から涙がこぼれた。俺は一体、一人で何をやっているんだ。自分の異常行動に吐き気がして、何度も儀式をやめようとした。
だが、十五日目を過ぎたあたりから、明らかな「異変」が起き始めた。
夜、部屋に帰ってドアを開けた瞬間、空気がふわりと動いたような気がしたのだ。
気のせいではない。誰もいないはずの部屋から、俺が買っていないはずの甘いフローラル系のシャンプーの香りが微かに漂ってきた。
さらに二十日目。ベッドの右半分を空けて眠っていると、隣のマットレスが「ギシッ」と静かに沈み込むのを感じた。まるで、誰かがそっと添い寝してきたかのように。背中に、微かな熱すら感じる。
恐怖よりも、強烈な歓喜と興奮が勝った。
いる。俺の部屋に、確かに栞が形成されつつある。
儀式が本物であることを確信した俺の思い込みは、限界を突破してさらに強固なものとなった。俺はもう、狂人になっても構わなかった。
二十八日目には、はっきりと幻聴が聞こえた。
『お仕事、お疲れ様。和也くん』
耳元で囁かれたその声は、俺が想像していた通りの、鈴を転がすような甘い声だった。俺は涙を流しながら、見えない彼女を力強く抱きしめるふりをした。
そして、運命の三十日目の朝。
俺は、キッチンから聞こえてくるトントンという小気味よい包丁の音と、出汁の香りで目を覚ました。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。俺は毛布を跳ね除け、リビングへと続く扉を勢いよく開けた。
そこに、彼女はいた。
朝の光が差し込むキッチンで、エプロン姿の女性が振り返る。
肩まで伸びた黒髪。優しい垂れ目。華奢な肩。
俺がノートに書き殴った文字通りの、いや、それ以上に美しく、生気を持った「栞」が、そこで微笑んでいた。
「あ、和也くん。おはよう。朝ごはん、もうすぐできるよ」
俺は震える足で彼女に歩み寄り、その頬にそっと手を伸ばした。
指先に、柔らかな弾力と、確かな温もりが伝わってくる。手首に触れると、トクトクと脈打つ血の鼓動を感じた。
「……栞、なのか?」
「どうしたの、和也くん? そんなに泣きそうな顔をして」
栞は心配そうに眉を下げ、俺の体を優しく抱きしめた。彼女の胸の柔らかさと、甘い香りが俺を包み込む。
幻覚じゃない。妄想じゃない。
俺は神を出し抜き、無から生命を創り出したのだ。
「ずっと……ずっと、一人だったんだ……俺は……」
「もう大丈夫だよ。私が、ずっと和也くんのそばにいるからね。絶対に一人になんてさせないよ」
俺は栞の肩に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
* * *
栞との生活は、まさに夢のような蜜月だった。
彼女は完璧な恋人だった。掃除、洗濯、料理、すべてを完璧にこなし、俺が仕事から帰ると極上の笑顔で出迎えてくれる。俺が何も言わなくても、俺の好みの味付けで食事を作り、俺の好みの温度でお風呂を沸かしてくれた。
休日には二人で映画を見たり、他愛のない会話で笑い合ったりした。俺の灰色の人生は、彼女の存在によって鮮やかな極彩色へと塗り替えられた。
栞と過ごす時間だけが俺のすべてになり、俺は職場の付き合いもすべて断り、脇目も振らずにアパートへ直行するようになった。
だが、幸せな時間は三ヶ月と長くは続かなかった。
ある時期を境に、俺の身体に明らかな異変が現れ始めたのだ。
常に身体に鉛が入っているような激しい倦怠感。めまい。視界のぼやけ。洗面所の鏡に映る俺の顔は、頬がこけ、目の下にはどす黒い隈ができ、まるで末期ガンの患者のようだった。
体重も十キロ以上落ち、髪の毛も抜けやすくなった。病院に行っても「極度の疲労と栄養失調」と診断されるだけで、原因は不明だった。
対照的に、栞の美しさは日を追うごとに増していた。肌は透き通るように輝き、唇は血を吸ったように赤く艶めいている。
さらに、栞の言動にも違和感を覚えるようになってきた。
「栞、たまには外にデートに行かないか? ずっと部屋の中じゃ息が詰まるだろう」
俺がそう提案しても、彼女は真顔で首を横に振った。
「私は外の世界なんて興味ないの。外の空気は汚いし、他人の目があるから嫌。この部屋で、和也くんと一緒にいられれば、それだけでいいの」
最初は、俺への愛情の深さゆえだと思っていた。
しかし、彼女の執着は次第に異常な方向へとエスカレートしていった。
ある日、俺のスマートフォンが見当たらなくなった。
「栞、俺のスマホ知らないか? 会社に連絡しないといけないんだけど」
「捨てたよ」
彼女は、テレビのコンセントを引き抜きながら淡々と答えた。
「は……? なんで!?」
「だって、必要ないでしょ? 和也くんには私がいるんだから。仕事なんて辞めちゃえばいいの。あんな辛いだけの会社、行く必要ない。ずっとこの部屋で、二人だけで暮らそう? ね?」
振り向いた栞の瞳は、真っ黒に濁りきっていた。底なし沼のような、狂気的な独占欲と依存。
背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
俺は、ノートの端に小さく書いた設定を思い出した。
『俺のことが何よりも好きで、絶対に俺を裏切らない』
あの設定が、極端な形で暴走しているのだ。彼女は俺を外界から完全に隔離し、永遠に自分のそばに縛り付けようとしている。
俺は隠しておいた予備のノートパソコンを開き、あのオカルト掲示板の過去ログを血眼になって探した。
そして、肉体を持ったタルパの「恐るべき真実」を記した書き込みを見つけた。
『肉体を持ったタルパは、生命を維持するためのエネルギーを自ら生成できません。彼らは、創造主である人間の【生命力】を直接吸い取ることで存在を保ちます。創造主が衰弱死した場合、タルパも消滅します。そのため、自我を持ったタルパは、創造主を外界から隔離し、自分だけの管理下に置いて、死なない程度に緩やかに搾取し続けようとします』
俺の体調不良の原因は、これだったのだ。
栞は、愛という名の口実で俺を部屋に監禁し、俺の命をチュルチュルとすする寄生虫だった。このままでは、俺は彼女に生気を吸い尽くされて干からびて死ぬ。
俺は、自分がとんでもない化け物を生み出してしまったことに、ようやく気づいた。
『暴走したタルパを消滅させる方法はただ一つ。創造主が、タルパの存在を【完全否定】することです。相手の目を見て、「お前は実在しない幻覚だ」と心からの確信を持って宣言してください。創造主の自我が勝てば、タルパは霧散します。
ただし――タルパの自我が創造主を上回っていた場合、境界が崩壊し、主客が逆転する危険性があります』
迷っている暇はなかった。
やるしかない。俺の命と、本来の人生を取り戻すために。
* * *
「和也くん? どうしたの、そんな怖い顔をして。具合が悪いの?」
シャワーを浴び終え、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ってきた栞に、俺は真っ直ぐに向き合った。
心臓が早鐘のように打っている。だが、俺は覚悟を決めて、彼女の真っ黒な瞳を睨みつけた。
「栞。終わりにしよう」
「終わり? 何が?」
「お前だよ」
俺は、震える声を必死に押し殺して言い放った。
「お前は、実在しない。俺がノートに書いた設定から生まれた、ただの幻覚だ。肉体があるように錯覚しているだけで、俺の脳が作り出した思念体にすぎない!」
栞はポカンとした顔をした。
「何言ってるの、和也くん。私、ここにいるよ? ほら、触って」
「触るか!! お前は偽物だ! 俺の孤独が生んだ化け物だ!」
俺は目を固く閉じ、両手で耳を強く塞いだ。
頭の中で、栞の存在を全力で否定する。お前はいない。お前はいない。俺は一人だ。俺の部屋には誰もいない。俺は一人で生きていく。
「消えろ! 俺の部屋から出ていけ! お前は実在しない幻だ!!」
ありったけの生命力を振り絞った絶叫が、部屋の中に響き渡った。
そして、深い静寂が訪れた。
心臓の音だけが、耳の奥でドクドクと鳴っている。
やったか。
俺は荒い息を吐きながら、ゆっくりと目を開けた。
――栞は、消えていなかった。
彼女は少しも透けてなどいなかった。それどころか、先ほどまでの困惑した表情は消え去り、ひどく冷酷で、出来損ないの実験動物を哀れむような目で俺を見下ろしていた。
「……なんで。なんで消えない……」
俺がよろめきながら後ずさると、栞はふう、と深く、ひどく人間臭いため息をついた。
「やっぱり、こういう『設定』にしちゃうと、最後は反発してきちゃうんだよね。もっと従順に設定すべきだったかな」
「……え?」
「あなたは、根本的な勘違いをしているのよ、和也くん」
栞はテーブルの引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。
それは、俺が栞の設定を書いたあの黒いノートではなかった。表紙に可愛らしい猫のシールが貼られた、見覚えのないファンシーなノートだ。
「和也くん。最近、昔の記憶がぼやけてない? 小学校の時の親友の名前は? 初めて乗った自転車の色は? あなたが毎日通っていたという『名前の長いIT企業』の、正式名称は?」
俺は怒鳴り返そうとして、息を呑んだ。
……言葉が出てこない。
会社の名前が思い出せない。どんな仕事内容だったかも、同僚の顔も。親の顔すら、のっぺらぼうのようにモヤがかかっている。
いや、そもそも俺は、このアパートにいつ引っ越してきたんだっけ? 大家の顔は? 家賃はどうやって払っていた?
俺の過去の記憶は、すべてが「孤独なサラリーマン」という漠然としたイメージだけで構成されており、具体的な固有名詞や匂い、感触といったリアルな実感が何一つ存在しないことに、今更ながら気がついた。
「思い出せないはずよ。だって、あなたには過去なんてないんだから」
栞はノートのページを開き、俺の目の前に突きつけた。
そこには、栞の丸みを帯びた可愛らしい文字で、こう書かれていた。
『名前:葛木和也。年齢:二十七歳。
容姿:少し疲れた顔をしているけど、優しそうな雰囲気の男性。
性格:ブラック企業に勤める孤独なサラリーマン(という設定)。私のことが何よりも好きで、絶対に私を裏切らない。
【特記事項】:彼は、自分のことを人間だと思い込んでいる。そして、”自分がオカルトの儀式で私(栞)を創り出した”と錯覚しており、この私の部屋を”自分のアパート”だと思い込んでいる。絶対に外に出ようとはしない、私だけの完璧な恋人』
「な……んだ、これ……」
頭の芯が痺れるような感覚に襲われた。
視界がぐにゃりと歪む。
「私ね、ブラック企業で働いていて、毎日すごく孤独だったの。だから、あのディープウェブの儀式を試してみたのよ。自分を心から愛してくれて、絶対に私の部屋から出ていかない『完璧な彼氏』を作るために」
栞は、残酷なほど美しい笑顔で言った。
「あなたが私を創ったんじゃないわ。私が、あなたを創ったの」
主客逆転。
タルパは俺じゃない。
俺が、栞の孤独を埋めるために創り出された、肉体を持つイマジナリー・フレンドだったのだ。
俺がこの数ヶ月間感じていた「生命力が吸い取られる感覚」は、栞に搾取されていたからではない。俺という幻覚の存在を維持するための「設定上の寿命」が尽きかけていただけだった。俺という存在の輪郭が、少しずつぼやけ始めていたのだ。
俺がオカルト掲示板を見たのも、黒いノートに設定を書いたのも、すべては「そう思い込むように設定された」だけの、精巧なプログラムでしかなかった。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!! 俺は人間だ! 心がある! 葛木和也だ!!」
俺はノートを奪い取ろうと手を伸ばした。
しかし、俺の右腕は空を切った。
見下ろすと、俺の右腕は手首から先がテレビの砂嵐のようにノイズがかかり、半透明に透けていた。向こう側のフローリングの床が、俺の肉体を透過して見えている。
「あ……ああ……」
「でも、やっぱり自我を持ちすぎた思念体はダメね。創造主である私を否定して、消そうとするなんて。そんな欠陥品、危なくて飼っておけないわ」
「し、栞……待って、やめてくれ! 俺は、俺は生きてる! お願いだ、消さないでくれ!」
足先からパラパラと、俺の肉体が光の粒子となって崩壊していく。
恐怖と絶望で叫ぼうとしたが、すでに喉の機能は失われ、空気が漏れるような音しか出なかった。
「三十日間、楽しかったよ、和也くん。今まで私の孤独を埋めてくれてありがとう。さようなら」
栞は一切の未練がないような、冷たい事務的な声で言った。
「――お前は実在しない幻覚だ。消えろ」
その言葉をトリガーとして、俺の視界は急激に暗転した。
全身が急速に溶けていく感覚。疑似的な自我がただの情報に分解され、無へと帰っていく。
薄れゆく意識の最期。
俺が見たのは、テーブルの前に座り、ノートの新しいページを開いて、楽しそうにボールペンを走らせる栞の姿だった。
『名前:タケル。年齢:二十五歳。
性格:明るくて、前の和也くんよりも素直で従順な性格……』
そこで、俺という存在は、世界から完全に消滅した。
(了)




