77話 お嬢さん、ようこそ地獄の職場へ
女性犯罪の増加と凶悪化に伴い、署では女性捜査官の増員が決定された。
その初日、新人刑事・小峰咲は意気揚々と署の階段を駆け上がる。
今日から刑事課――胸の奥で、自分に言い聞かせるように呟いた。
(私は、ちゃんとやってみせる。女だからって甘く見られてたまるか)
小峰咲、27歳。警察学校を優秀な成績で卒業し、念願の現場勤務に抜擢された。
配属先は「捜査一課・特殊犯罪対策室」。
聞けば、問題児と変人の吹き溜まりらしい。
だが、咲にとってそんな噂も逆に燃える理由だった。
深呼吸をひとつ。ドアをノックし、扉を押す。
「失礼します! 本日付で配属になりました――」
部屋の中から、ジャラリ、と金属の弦が震える音が聞こえた。
咲は思わず足を止める。
部屋の中央には――黒光りするギター。1968年式レスポール・カスタムだ。
男はそれを抱え、腰かけたまま弦をつまびいていた。
アンプから流れるのは、B.B. Kingの“The Thrill Is Gone”。
憂いのあるブルースが、殺風景な刑事課の空気に沈み込む。
「……え?」
咲は思わず声を漏らす。
男は視線だけを向け、ゆるりと声をかけた。
「おっ、新顔か。見学かね?」
「え、えっと……刑事課の……」
「ほう、立派な肩書きだ。若いってのはいいねぇ」
咲は戸惑いながら尋ねる。
「あなたが、天野史郎室長ですか?」
男は弦を止め、耳を澄ませた。
遠くから、ドタドタと大人数の足音が迫ってくる。
眉をしかめ、低く呟く。
「……チッ、また来やがったな」
そして、ギターを抱えたまま立ち上がった。
「お嬢さん、俺はただの事務員だ。室長? 知らんな。では、失礼」
「え、ちょ、ちょっと待ってください!」
咲が叫ぶ前に、男は軽やかに身を翻し、帽子を片手で押さえながら廊下に消えた。
――目の前から、姿が消えた。
次の瞬間、勢いよく扉が開く。
女性刑事たち――葵、真由、梨花が駆け込んできた。
「――室長はいなかったか!?」
「し、室長? 事務のおじさんならいましたけど……」
全員が顔を見合わせ、頭を抱える。
「そいつが天野史郎だよ……また逃げやがった、クソジジイ」
「えっ!? さっきの……!?」
咲の中で、さっきのギターの音が脳裏に蘇る。
「なんで逃げるんですか、室長なのに?」
梨花が肩をすくめて答える。
「そりゃあ……あの人は自分の興味がある事件しかやらないからだよ」
「は?」
葵が軽く笑う。
「要するに、変人。けど、クビにならないのは――」
真由がすかさず言った。
「天才だから、でしょ」
その言葉に、全員がうなずく。
署内を探し回るが、史郎の姿はどこにもない。
屋上、倉庫、トイレ――いずれも空っぽだ。
ふと、風に乗ってタバコの匂いが鼻をくすぐる。
――屋上だ。
咲は非常梯子を駆け上がり、屋上に出た。
影の中に、タバコをくゆらせる男の姿。
――史郎だった。
「……やっぱり、ここでしたか」
咲が声をかけると、史郎は軽く肩をすくめる。
「見つかっちまったか。隠れん坊は苦手でね」
「なんで嘘をついたんですか。室長じゃないなんて」
史郎は煙を空に吐きながら、淡々と言った。
「人は嘘をつく、お嬢さん」
「え?」
「これから君が相手にするのは、嘘つきの群れだ。
真実を掴むには、まず“嘘”の呼吸を知っとかないとな」
「……」
咲は肩をすくめ、悔しそうに答える。
「お嬢さんじゃありません、小峰です!」
史郎は一拍おき、にやりと笑った。
「いいねぇ、その返し。気に入った」
風が吹き抜け、タバコの火が消えた。
咲は胸の奥で、知らず知らず鼓動が高鳴るのを感じていた。
――こうして、彼女の刑事課生活は、
史郎という変人との日常に巻き込まれていくのだった。




