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アムリタ

作者: 海ガエル


─その日は、のどかな空気が流れていた。





───アムリタ───





辺鄙な場所にある小さな村。もうほとんど人は住んでおらず、海岸沿いに点々と家々が連なっている。家の形はほとんどと統一されており、三角屋根の、まるで絵本にでてきそうな可愛らしい家が、生命の色を見せることなく佇んでいた。


───人は、ほとんど居ない。


上司に指示された家を探すため、1人の青年が村を歩く。左を見れば青く広い海。それを崖の上から見下ろす。下手をしたら転倒してしまいそうだ。本当に、変な所に村がある。


潮風が肌を撫でる。その空気だけは、いつの時代も変わることがない。


5分ほど経っただろうか。青い屋根と白い壁が特徴的な一軒家が見つかる。上司お手製の地図に載っている目的の家の図を見れば、それとなんら変わりはなかった。


───村の住人はたったの3人。生き残っている。


そのうちの一人を、上司に任せられた。その話を聞いたのは1週間前だ。"ここ"も日を追う事に人が消えていき、ほとんどやる事が無く暇を持て余していた身からすれば、今回の仕事はただの暇つぶしとしか思えない。


───それにきっと、望まなくてもすぐに終わる。


それが、青年が就いた職の現状だ。彼らがどれだけ努力しようと、人々の望み通りにはならなかった。世界はゆっくりと安定した崩壊に身を置いている。


青年はゆっくりと空を見上げる。


空も海も風も何もかも、変わらず彼らを享受する。見えない優しさは罪悪感を縫いつける。


何も、変わることは無い。



◇◇◇◇◇◇



木製の扉を2回、ノックする。5秒待つ。返事はない。


もう一度2回、ノックする。


すると、部屋の奥からドタバタとこちらに駆け寄って来る音が聞こえる。と思った直後、勢いよく扉が開いた。


「す、すみません!御手洗に行っていて!」


そう言って出てきた女性は、資料によると年は19。今はこの家に一人暮らしで、その生活が3年ほど続いているらしい。


資料に貼ってある写真と目の前の女性を見比べる。褐色肌に宝石のような美しさを持つハンターグリーンの瞳。くせっ毛な黒髪をひとつに結んでいる。その姿は、何も写真と変わりはない。


右手に掴んでいる革製の鞄に資料を入れ直し、向き直る。


「初めまして、ムルダさん。私は青天使団のカフネと申します。この度は、皆様の安寧と病気の緩衝のため、お尋ね参りました」


そう言って、深く頭を下げる。透き通った風がカフネの白い髪をなびかせた。


これが青天使団。僕らの仕事だ。



◇◇◇◇◇◇



「この度は、こんな辺鄙な村にわざわざ来て下さり、本当にありがとうございます」


「いえ、仕事ですので」


そう言って出された紅茶にお礼を言い、口をつける。少ししょうがが入っているのか、程よい辛さが心地よかった。


「この紅茶、美味しいですね」


「ふふ、そうでしょう。私のお気に入りなの」


彼女、ムルダの笑う姿はとても初々しい。こんな孤独な村に3年も身を置いていると言うのに、寂しさを一切感じさせないその姿に、カフネは一人感心していた。


ムルダも紅茶に口付ける。


「こうして人と向き合ってお茶をするの、とっても久しぶりで嬉しいです」


人。その言葉に少し引っかかる。彼女は僕を、人として見てくれているのか。


そんな疑問が脳裏に過ぎる。それを払拭するかのようにもう一口、紅茶を口にした。


「私も、こうしてゆっくりとした時間を誰かと共にするのは久しぶりです。紅茶の美味しさが引き立ちますね」


手でカップを包み込む。温かさが手のひらを渡り、心を芯から包み込んでくれているように感じる。


なんて、ことは無い。相手はただの患者。感情移入することなんてない。そしてまずまず紅茶に、心まで温もりをもたらす作用などないのだ。


そこでカフネは一息付き、口を開く。


「では、本題に入らせて頂きます」


その言葉に、ムルダの表情も真剣なものになる。ここに僕が来た時点で、もう自分自身の状況は分かっているのだろう。


「今、現在進行形で世界を恐怖の地に振るい落す不知の病。『地中還元病』の事を、貴方ももちろん、ご存知ですよね?」


ムルダが小さく頷く。カフネは話を続けた。


「私たち青天使団は、その『地中還元病』の患者様が、ステージIIIにまで達した際に、天界から呼び起こされます」


現にカフネはこれまで2回、患者の相手をしてきた。


「ムルダさん。あなたも、『地中還元病』のステージIIIに達しました。これより、本格的な病の緩衝を開始致します為に、今回、私カフネが相手をさせて頂くことを、どうかお許しください」


青天使団のガイドブックに載っている言葉をそのまま紡いでいく。3回目ともなれば、詰まることなく言葉を発することができた。


ムルダの表情を見る。彼女は何も焦った様子などなく、ただ現状を受け入れる為だけに、瞬きを繰り返しているように見えた。


───これが、典型的な患者の反応例だ。


絶望的なまでの、生に対する無頓着さ。全ての流れを、まるで海に漂うクラゲのように身を任せ受け入れる。決して、それが悪いと言う訳では無い。ただ、生命として致命的な欠落となってしまっただけだ。


午後2時の陽の光が、窓から2人を照らす。



◇◇◇◇◇◇



本格的に病を緩衝するために、まず患者のすることがある。


病の進行を遅らせる1番重要なことは、患者の幸福度を上げること。これが一番の有効打であり、最も時間のかかる解決法。


「そのためにはまず貴方に、毎日日記をつけてもらいます」


そう言って、1冊の文庫本サイズのノートを机に置く。


「内容はなんでもいいです。悲しかったこと、嬉しかったこと、なんでも書いてもらって構いません。勝手に日記を見る、なんてこともしませんので、安心して下さい」


ムルダの視線が日記帳の方に向く。日記帳のカバーは人工皮革でできており、レトロで可愛らしい見た目だ。


───これは"こっち"の雑貨屋で在庫が余りまくっててね。さっさと消費しちゃいたいから、みんな使ってねー。


なんて言っていた、カフネ直属の上司の言葉を思い出す。この世界で病気が蔓延し始めたばかりの頃、こぞって天界が在庫を増やしまくったのが、今目の前にある日記帳だ。


結局、人数分作ったって言うのに、みんな使い切る前に死んでしまったり、使われずにそのまま放置されたりしたせいで、天界ではこの日記帳が山積みになっている。そのおかげで、今ここには2冊の日記帳がある。机に置いてある物と、あとは、押付けられたカフネのもの。実は、カフネも患者の記録の一環として、毎日日記を書いている。


なんて物思いに耽っている暇は無い。次にカフネは、鞄から小さな観葉植物の苗を取り出した。


「あとはこれ、この観葉植物をこれから育ててもらいます」


そしてその観葉植物を、日記帳の隣に置く。なんの種類かは分からないが、やけに生命力の高い植物だそうだ。緑の葉が陽の光に照らされ、なんだか鞄の中に居た時よりも活力を取り戻したような気がする。


「毎日の日記と、この植物の水やり。この2つが、貴方方患者様に課せられた緩衝法です」


 一通りの説明をし終わり、また1口、紅茶を飲む。目の前に座るムルダは黙ったまま、日記帳と観葉植物、ただこの2つを、一心に見つめていた。


 ムルダが静かに口を開く。


「...わかりました。やってみます」


 その素直な一言に安心する。しかし、ムルダはまだ何か言いたげな表情をしていた。


「でもこれ、本当に意味があるんですか?」


 ムルダは瞳に不信気な色を見せながら尋ねてくる。この質問には慣れていた。カフネは一度椅子の背もたれに身を預け、ゆっくりと肩の力を抜く。


 実際のところ、この緩衝法は本当に意味がある、とは言いきれない。しかし患者の幸福度を上げる、「生きたい」と、そう思ってもらう方法では、これが一番わかりやすいのだ。


 この緩衝法が意味を成さず多くの人間が死んでいったのも事実。しかし、多くの人間が少しでも長く生きようと思えたのもまた事実。


 だからこの方法は、病気が蔓延してから今まで、長い間天使たちに愛されてきた。人間がこのことにどう思っているのかは、あまりよく分からないが。もうほぼ伝統のようなものになっている。


 カフネは一度、瞬きをする。そして口を開いた。


「……意味は、確実にある。とは言いきれません。しかし、この方法が、貴方の手助けをしてくれる可能性は、決してゼロではない」


 伏し目がちに、僕の言葉を静かに聞くムルダを見つめながら、一息置いて、また言葉を紡ぐ。


「なのでどうか、希望を捨てないで欲しい」


 これが、今僕が言える、最大限の言葉だ。


 ムルダは黙ったまま、ゆっくりと目を閉じる。そして数秒後、開いた目は僕を見定め、「わかりました」と一言告げる。その表情は、ただ現実を受け入れる為だけに用意されたものに見えた。


 ひとまず、納得して貰えたことに安心する。患者に協力して貰えないと、この仕事は長く続かない。


 カフネはまた背筋を伸ばす。


「この他にも、貴方にはまだまだ沢山の課題がありますが、まぁまずはゆっくりと進んでいきましょう」


 僕たちの目的はただひとつ、患者に「生きたい」と思わせること。


 どれだけ長い間、患者を生き長らえさせることができるか。これがこの仕事の評価基準になる。


 カフネは前回の36日を更新するため、ネクタイの位置を確認し直し、気を引き締めた。



 ◇◇◇◇◇◇



「じゃあカフネさんは、この右奥の部屋を使ってください」


 そう言われて用意された5畳程の広さを持つ一人部屋。扉を開けて左側には質素なベッドが用意されており、右側には机とクローゼットが置いてある。


 初めての好待遇に虚をつかれながらも、カフネ丁寧に断りを入れた。


「天使は基本立ちながら寝れるので、そんなに気を使わなくても大丈夫ですよ」


「え、そんな能力があるの!?」


 ムルダは口元を手で覆い、あからさまに驚いた様子を見せた。


 天使は基本どこでも眠れる。たとえ海の中でも、雷雨でもゴミ捨て場でも、寝ようと思えばどこでも眠れるのだ。だからこれまでは野宿か、良くてリビングの端で立ち寝することが多々あった。しかし、ムルダはそのことを初めて知ったらしい。


「ダメよ立ち寝なんか!ちゃんと横になって寝ないと、疲れは取れないのよ」


 ムルダは呆れと驚きの入り交じった態度で僕の背中を半ば無理やり押し、部屋に押し込む。


 正直お節介だな、とも思ったが、ここまで天使に気を使う人間には初めて出会ったので、それよりも新鮮味が勝っていた。


 素直に部屋の中に入り、鍵を受け取る。


「これ、うちの鍵。元々母が使ってたものなんだけど、もう要らないから、あげるわ」


 受け取った鍵は銅でできており、上部は丸く、真ん中を指で通せるよう空間ができている。ところどころ錆びており、それがどれだけの年月が経っているのかを物語っていた。


 鍵の質量が手のひらに伝わる。鍵の重みは、ただその材料から来た重みとはまた別の質量を伴っているように感じた。


 手のひらサイズの鍵を握りしめ、ズボンのポケットに入れる。


「ありがとうございます。この部屋も、鍵も、大切に使わせて頂きます」


 僅かに口角を上げ、目元に優しさを込めるよう意識を集中させる。こうすれば、人の良さそうな人相になると、上司教えてもらった。───お前は無愛想で愛嬌がないから、見た目だけでも人柄を良さそうに見せた方がいいよ。と、上から目線に上司らしく、実用的なアドバイスを貰ったのだ。


 それを見たムルダはゆっくりと微笑む。


「これからよろしくね、カフネさん。色々迷惑かけちゃうかもだけど、私なりに頑張ってみるから」


 その意欲的な態度に感心する。大抵の患者はやる気がないと言うのに。ムルダは、変わった患者なのだな。




 夕食は簡素なものだった。硬いパンとコーンスープ。おかずにはマッシュポテトと小さな鶏肉。


 正直食を摂ることに対するメリットを感じたことは今まで無かったが、誰かと食事を共にする、という行為自体は患者の心を和らげる良い材料となる。そう、その行為自体に意味があるのだ。


 2人同時に手を合わせ、神に祈る。いちいち食事を摂るのにさえ、何を神に祈っているのかは分からない。


 パンをちぎりスープにつける。柔らかくなったパンはスープの味が染み込んでおり、口の中でとろけるように広がる。美味しい、と素直に思う。しかし天使は何も食べなくても生きることができる。だから、この美味しさもすぐに忘れてしまう。


「どう?美味しいかな」


「ええもちろん、美味しいですよ」


 この料理を作ってくれたのはもちろんムルダだ。不安げな声で質問されたので、安心させるようにまた1口、スープを口に含む。


 料理も人の幸福度を上げる行為だ。比較的短時間で目に見えた物体を作ることが出来る。それは、簡易的な成功体験に繋がる。


 なのでカフネは、できるだけムルダに料理をしてもらいたいと思っているが、それだと負担が大きい。なので、1日交代で料理をすると決めたのは、ちょうどムルダがコーンスープをかき混ぜている最中のことだった。


「明日は少し、街に出ましょうか」


 チキンとマッシュポテト両方をに口に含み、咀嚼し終わったと同時に提案する。定期的に外出することはとても大事だ。


「いいわね、街。ここからだとちょっと歩くことになっちゃうけど」


 ムルダもにこやかに答える。俄然乗り気のようだ。鼻歌まで歌い出した。


「誰かと食事をすると、数倍美味しさが増すのね」


 そう満足気に答えるムルダは、まるで病人には見えない。


 


 食後、食器を洗い、ムルダは今お風呂に入っている。その間に、カフネは鞄から1つの丸いケースを取り出していた。


 ケースを机に置き、次にポーチを取り出す。中には飲み薬が入っている。1日1錠、1ヶ月分のカプセル型の薬は、約7年前に発明されたものだ。


 中身を確認するため、チャックを開く。ギッチリと詰められた薬の中に、1枚の紙が挟まっていることに気がついた。


取り出すと、それは古い写真。静かに椅子にもたれ掛かる老人の姿が写っている。


 ───ああこれ、こんなところにあったのか。


 写真を、読みかけの本に挟む。孤独な老人は、死んでもなお、写真の中でさえも孤独なのだ。



 ◇◇◇◇◇◇



 静かな月明かりが部屋を満たす。小さな書斎は埃臭く、ずっといたら体ごと腐ってしまいそうな陰湿さがあった。押しつぶされそうなほどに敷き詰められた大量の本たちは、もう長い間息を潜めている。


 老人は、その書斎が、数ある部屋の中でもいっとう好きだったらしい。暇があったらすぐその部屋に入り浸り、もう何十回と読んだ本をまた開くなんてことも多々あった。


「ボケットさん。食事の時間ですよ」


 部屋をノックするも、何も返事はない。寝てるか読書に集中しているか、ついに野垂れ死んだか。こんなことはもう何回もあったので、カフネは躊躇することなく返事のない扉を開ける。


 扉を開けると、すぐ目の前には猫背で椅子に座る、老人の姿があった。


「開けろと言っていない」


 老人の声がする。低くしゃがれた声で、不貞腐れているのだろうか。そんな声色だ。まるで動く気配のないその姿は、売れ残った骨董品のような無機質さと哀愁を漂わせていた。


「食事の時間です。1階に戻りましょう」


「気分じゃない」


「生活リズムを崩す訳にはいきません。今は午後7時。夕飯の時間です」


「そんな決まり、作った覚えは無い」


 老人はさらに小さく背を曲げ、開いた本に顔を近づける。面会謝絶のつもりだろうか。


 その姿に、カフネ呆れながら、扉に体の重心を預ける。


「最初に話したはずです」


 どうしようもないジジイだ。聞き分けの悪い子どものように、一向に本から目を話さない。立つ気配さえもない。


「さあ早く、食べますよ」


「だから要らんと言っているじゃろう」


「そうやって不規則な生活をしているせいで、心も不健康になるのです。さあ、一度立って、夕飯が冷めてしまう」


 ついため息が漏れる。薄暗い部屋は、そのせいで老人の顔が良く見えない。


 老人はまた身を縮めた。

 

「お主らはそうやって、生活がどうとか、幸福がどうとか、そんなデタラメな理由で、ワシらをこの世界に縛り付ける。まるで悪魔だ」


 その細々とした声は、悪魔、という単語を強調する。


 悪魔じゃなくて、これでも一応天使ですよ。という言葉は飲み込んだ。今はもう、何を言っても無駄なのだろう。


「……夕飯、ここに持ってきますね」


 そう言ったあとの老人の顔は相変わらず分からない。カフネはただ、静かに扉を閉めるだけだった。



 ◇◇◇◇◇◇



「寝る前にこれを飲んで、これを塗るのね」


 今ムルダの手には、先程カフネが机に置いた薬と丸いケースがある。ケースには、病気用の塗り薬が入っている。それを手に取り、ムルダの片甲骨にできた痣、のような出来物にクリームを塗っていく。


 『地中還元病』。その不知の病の進行度は、ざっくりと5つに分類されている。


 まずステージI。これは慢性的な倦怠感。無気力。うつ病の前兆のような症状が主に出る。この症状に咄嗟に気がつくことのできる人は少なく、そのせいで病状が悪化しやすい。


 ステージⅡ。関節の痛み、目眩、頭痛、異常な喉の乾き。身体中に黒いほくろのような斑点ができる。この辺りで、症状の違和感に気づく人が多い。


 ステージIII。身体中の斑点が1つの痣のようになる。それは大小様々だ。最大で直径15cmほどまで広がることもある。その出来物は触っても痛みはなく、ただ無くなることは無い。牛のような見た目から、牛斑と呼ばれることもある。


 ステージIV。牛斑の皮膚が剥け、その部分だけがまるで土のように抜け落ちる。骨も筋肉も血液も全てなくなり、ホロホロと、身体に、ぽっかりと、穴が空く。尚、この事に恐怖心も絶望感も抱く患者はいない。


 ステージⅤ。牛斑の急速な広がり。身体中に病気の症状が出て、体内に穴が空いていく。この頃に急激に強くなる、患者の帰巣本能。家にいることはほとんどなくなり、土の上に身を置き、その運命に身を委ねるようになる。


 ムルダは今ステージIII。今日から毎日薬を塗り、毎日の課題をこなし、地道に「生きること」への希望を探していけば、大幅に病気の進行を遅らせることが出来るだろう。


 コップ1杯分の水をムルダに渡す。牛斑は幸いまだ背中にしかできていなかった。今回は、幸先が明るいかもしれない。


 ムルダが薬と水を一気に飲み干す。勢いよくコップを置く音が、小さな家の壁と天井を跳ね、反響する。


 そこでカフネは、キッチンの目の前にある窓を開けた。周りはとても静かで、ほとんど人がいないことを再認識させられる。他の2人の住人は、もう眠っているのだろうか。外は虫の鳴き声と、静かな海の歌声が心地よく、肌に馴染みやすい夏の風がカフネの肌と髪を撫でた。


 窓際を見る。キッチンの棚に置かれた観葉植物、通称『チョビちゃん』も、居心地の良さそうな、満足気な雰囲気を漂わせていた。


「明日は早いので、そろそろ寝ましょうか」


 そう言って後ろを振り返る。僕の言葉に、ムルダも小さく頷いた。


「明日、楽しみだなぁ」


「寝る前に、ちゃんと日記書いてくださいね」


「大じょーぶ!忘れたりなんかしないわ」


 薬を手に取り、カフネも部屋に戻る準備を始める。ムルダはコップを洗い場に戻し、優しくチョビちゃんの葉を撫でた。


「……明日もよろしくね」


「ええ。朝6時に起こしますから、きちんと起きてくださいよ」


ムルダは嬉しそうに微笑み、そっと長い髪を撫でる。また鼻歌を歌っている。


「じゃあ、おやすみ」


「ええ。おやすみなさい」

 

 2人同時に、各々の部屋の扉を開ける。



 ◇◇◇◇◇◇



 街と言っても、人は相変わらず少ない。休日の昼間だと言うのに、街は閑散としていて、鳥さえも姿を消していた。ここ数年で、全人口の5割が『地中還元病』によって亡くなっている。最初こそ、社会は混乱の渦に飲み込まれ、息をする暇もなくもがき足掻くことしかできなかった。しかし不思議なことに、病気が浸透していくうちに、自然とその焦燥は跡形もなく消え去っていったのだ。


 カフネとムルダは、適当に選んだカフェに入っていた。窓際の2人がけの席に座り、メニューを開く。


 店内はこじんまりとしており、カフネたち以外に客はいない。こんな世の中じゃ、店が開いているだけで珍しいのだ。


「私、このプリンアラモードが食べたい」


「じゃあ、私はブラックコーヒーで」


 注文するための呼び鈴は用意されておらず、仕方なく手を挙げて店員を呼ぶ。するとカウンターから、1人の中年男性がやってきた。


「はいはい、ご注文は何かね」


 これが中年太り、というのだろうか。その店員の突き出た腹は、窮屈そうにワイシャツの中に収められている。下手したら、ボタンが飛んでいってしまいそうだった。髭も長く伸びきっているせいか、実年齢よりも年老いて見える。


 ムルダがメニューを指差す。視線で、そんなに人をジロジロと見るな。と言われているように感じた。


 カフネは慌てて店員から目を逸らす。


「えーと、このプリンアラモードと、ブラックコーヒーをひとつずつ」


 ムルダの言葉を合図に、店員がボールペンを走らせ、注文を紙に書いていく。そのアナログ的なやり方は、どこか懐かしさを感じさせた。


 メモを取り終わった店員は、そそくさとカウンターに戻っていく。カフネは視線を店員から窓の方にやり、頬杖をついた。


「...雨、降りそうですね」


「ほんとだ。やんなっちゃう」


 空は白と薄灰色アクリル絵の具を、水をつけずにベッタリと塗りたくったような、重く暗い雰囲気を醸し出していた。隣町の空を見渡せば、鉛のように暗い雲が覆いかぶさっている。そこではもう、雨が降っているのかもしれない。


「私、雨は結構好きなの」


 すると、ぽつりと。まるで1粒の雨が静かに地を打つような声で、ムルダが嘆く。


「雨の音とか、匂いとか、窓に描かれる雨模様とか、素敵だと思う」


 考えたこともなかった。雨に対して、好きも嫌いも、思ったことがない。ただ、天界はいつも無機質な青い空が天井を覆っていたので、地上は天井のレパートリーが豊富だな、と。初めてここに来た時に思ったくらいだ。


 カフネは思ったことをそのまま述べる。


「そんなこと、考えたこともありませんでした」


「えぇ、じゃあ、今一緒に考えましょうよ」


 思わぬ提案に少しだけ腑抜けてしまう。ムルダのその声色と表情は、なんだか雨をも晴らしてしまいそうな温かさがあった。


 ムルダが机の上で腕を組み、少しだけ椅子を引く。


「じゃあじゃあ、晴れと雨だったら、どっちの方が好き?」


「えー、晴れ、ですかね?」


 カフネは直感で答える。思い出したのは天界の空ではなく、あの書斎の小さな窓から見た、小さな空だった。


「やっぱり、みんな晴れの方が好きよね」


 と言うより、雨の方が好き、という人の方が珍しい気がする。


「ムルダさんは、晴れと雨なら、雨なんですか?」


「晴れね」


「そこは雨じゃないんですね」


 そうこうしているうちに、あの中年太りの店員が、注文したメニューを持ってくる。


「お待たせ致しました。こちら、プリンアラモードとブラックコーヒーでございます」


 プリンはステンレス製のデザートカップの上に置かれており、カフネの青い瞳と頭上の輪は、光沢の強い鏡面仕上がりのそれに反射する。


 プリンがムルダの目の前に置かれ、カフネにはコーヒーが渡される。″ここ″で1番気に入った飲み物はコーヒーだ。だが、甘いもの好きの天使たちがコーヒーを好んで飲むことは少ない。実際、カフネの同僚たちの間でこぞって流行っているのは、可愛らしい見た目ののメロンクリームソーダだ。この店にはなかった。


 ムルダがプリンを口に含む。


「うん、美味しい。昔ながらのプリンって感じ」


 昔ながら。その言葉に引っかかる。いつのことだろうか。カフネ自身はあまり地球の歴史に詳しくない。同僚は、メロンクリームソーダを飲む時に、昔ながら、と言っていた。その時と同じくらいの年代のことを言っているのだろうか。


 昔ながら、昔ながら。メロンクリームソーダ……むかし...。


「メロンクリームソーダのことですか?」


 そう言ってハッとする。考えが口まで出ていた。


「?メロン?」


 案の定ムルダは困惑の色を浮かべていた。当たり前だ。突然何を言い出すのだろうか、この天使。遂に仕事のしすぎで頭までやってしまったのだろうか。と思われているに違いない。


 ───ここは直ぐに、弁明しよう。


 カフネはコーヒーカップの持ち手を握りしめる。


「すみません、忘れてください」


「メロンクリームソーダ。私も好きだわ」


 返ってきた返事は、予想外のものだった。すぐに受け流されると思っていたのだが。


 カフネは少しばかり困惑してしまう。


「え、ああ、はい。私も好きです」


「久しぶりに飲みたくなっちゃったわね」


 するとカフネは右拳を左手の上で叩き、思いついた!と声をあげる。


「帰りに、バニラアイスとメロンソーダを買って帰りましょ」


 その突拍子もない提案に、カフネは飲み込んだコーヒーが喉につっかえ、そこからせり上がってくるような気配を感じた。


 外では、水の弾丸が窓を打付ける音が、強くなっていく。



 ◇◇◇◇◇◇



 帰りがけにDVDショップを見つけたのは、たまたまだった。


 その前に立ち寄った小さなスーパーは、1番近場の所が閉店していたので、仕方なく隣町近くまで歩いて見つかった場所だった。名前はスーパーと名乗っているが、実際には何でも屋。という感じの。小さな店内には簡単な日用生活品から飲食料品、文房具、そして挙句の果てには子供用のおもちゃも、乱雑にダンボールの中に詰め込まれていた。


 病気が蔓延し始めた頃、人間は取り憑かれたように店のものを買い占め、暴動が起き、そして店が潰れる。ということが日常茶飯事だった。でも今はそんなことも無い。みんな、そんなに焦り生にしがみつくほど、無謀でも勇敢でもなくなった。


 おかげで、店の物はとても安かった。ついでにトイレットペーパーとティッシュとビニール傘2本、明日の朝ご飯を買って、ムルダとカフネは店を後にする。


 ムルダの提案で、普段とは違う道を歩いて帰ることになったのは、店を出て5分ほどした時のことだった。僕はまだここに来て1日しか経っていないので、土地勘という土地勘がない。頼りにするのはムルダしかいなかったが、そのムルダも、今歩いているけもの道は初めて見るらしい。


 どことなく不安な気持ちが拭えなかったが、かさばる傘とムルダの姿を追いかけていくうちに、そんなことよりも早く帰りたい。という気持ちの方が強くなっていた。


 スーツに張り付く草を勢いよく振り払いながら、辿り着いた先が、このDVDショップだ。

 

 ムルダの好奇心に引っ張られながら、深く考えることなく店に入る。この時代にわざわざDVDショップを開いている者など、大抵は暇な老人か変わり者の老人だけだろう。


 ガラス製の扉を開けてすぐ左になカウンターがあった。老人か老人かな、なんて思いながらカウンターに目をやると、予想に反してそこには、黒縁メガネの若い女性が立っていた。


「いらっしゃいませ」


 そのハツラツとした声に一瞬驚く。その女性は、黒い髪をおさげにしており、それも相まって全体的に幼い雰囲気がある。アーモンド型の瞳と少し青白い唇が印象的だ。


 最悪、ロボットがこの店を仕切っているんじゃないか、とも思っていたが、飛んだ杞憂だった。女性はまたその透き通ったよく響く声で、ご自由にお回りください。と左手で促す。カフネとムルダは、とりあえずその店員の言った通りに、小さな店の中を回ってみることにした。


 どこかカビ臭く湿った空気のある店内は、雨のせいなのだろうか。DVDは棚ごとにジャンル分けされており、入ってすぐの棚には『今日のおすすめ』と書かれた紙が貼ってある。


「へぇ、今日のおすすめはSFですって。1つ買ってみようかしら」


 そう言ってムルダが手に取った映画は、説明欄に不朽の名作。と書かれている。彼女によると、30年前ほどに大流行した映画らしい。ムルダは懐かしいと言いながら、カゴにそれを入れる。


 そのまま店内をほっつき歩き、適当な所で立ち止まる。そんなことを繰り返しているうちに、早くも30分が経とうとしていた。


 カフネとムルダは、最後に立ち止まった棚のジャンル区分を見る。


「終末期……」


 ムルダの発したその言葉に、どことなく空気が濁るのを感じる。いや、きっと感じているのは自分だけだ。ムルダは特に気にしていないかもしれない。


 気まずさを取り払うように、目に付いたDVDを手に取る。


 DVDケースのパッケージには、美しい星空の下で抱きしめ合う恋人の姿があった。随分とロマンチックなそのパッケージは、まるで終末を思わせるような素振りがない。


 せっかく手に取ったのだし、とりあえずそのDVDをカゴの中に入れる。ムルダも1つのDVDを手に取っており、説明文を読んでいた。


「これ、ゾンビが世界を侵略した後の話ですって。面白そう」


「随分と物騒な物を選びましたね」


ムルダの取ったDVDのパッケージには、これもまた暗い夜空の下で、テントを張りその近くで焚き火をしている若い黒人の姿。それだけ見れば、ただキャンプを楽しんでいる人と何ら変わりは無い。


「終末期ってだけでも、色んな種類があるのね」


「今選んだ物は、全て実現はしませんでしたね」


「せっかくだから、ウイルス系のも見なきゃね」


「″今″が映画よりもよっぽど臨場感あると思いますよ」


 見たいだけのDVDを選び終わり、カゴをカウンターに持っていく。結局、合計で十数枚ほど買う羽目になった。


「お客さん、ここに来るのは初めてですか?」


 先程の、若い女性店員が声をかけてくる。バーコードを読み取る仕草はとてもスムーズで抜け目ない。


 ムルダが答える。


「はい。寄り道してみたら、たまたま見つけて」


「いいですねぇ。寄り道」


 にこやかに笑う女性は、その名をアメリと名乗った。某有名な映画から取られた名前らしい。


「アメリさんは、映画が好きなんですか?」


「大好きですよ。毎日1本見るくらいには。だからこんなご時世でも、ここで働いちゃってるんですよね」


 ムルダの質問に対し、アメリが自嘲的に笑う。しかしその声色には、後悔がないように感じた。


 カフネはそのテキパキと動くアメリの姿を、ただじっと見つめる。


その時、最後のDVDを手に取ったアメリが、バーコードを読み取る手を止めた。


「...これ、懐かしいですね……」


 アメリが手にしたDVDは、ミュージカル映画のコーナーで選んだ作品だ。家族の取り決めた制約結構を逃れるため、恋人と逃亡する1人の男性の話。


「私これ、大好きなんですよ。久しぶりに見たなぁ」


 アメリはDVDを愛おしそうに見つめ、バーコードをかざす。その瞳は、まるで幼い頃の自身のアルバムを、家族と団欒しながら眺める姿に似ていた。


 最後のDVDをカゴに入れ終わったところで、アメリがちょっと待っててくださいとひと声掛け、DVDの陳列してある棚の方まで向かっていく。カフネはその後ろ姿を見つめながら、雨音に耳をかざす。


 横目でムルダを見ると、彼女は険しい表情でレジを見つめていた。


「ちょっと高いわね……」


 ムルダは財布と格闘している。


 すると少ししてから、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。


「ありましたありました!これです」


 戻ってきたアメリが手にしていたのは、1枚のDVD。


「サービスです。今どきお客さんが来てくれるのさえ珍しいので」


 もちろん無料ですよ。ぜひ受け取ってください。そう言われて渡された、少し埃を被っているDVD。アメリは埃を服の袖で拭き取りながら、それをカゴに入れてくれた。


「これも私のお気に入りです。見る時には、コップ一杯の牛乳を用意してくださいね」


「わあ!ありがとうございます」


 ムルダが喜びながら、DVDを鞄に詰めていく。カフネも一礼し、そのDVDショップを後にした。




 相変わらず雨はふりやまない。ぬかるんだけもの道をまた歩いていき、帰路へと向かう。生い茂る草には雨水と跳ねた泥がこびりつき、それがスーツのズボンに飛び散る。帰ったら洗わないとな、なんて考えながら、ビニール傘越しにムルダの様子を伺った。


「まあまあいい値段してましたけど、大丈夫だったんですか?」


「ん?んー、まあね。両親の残してくれた財産は、私じゃ処理しきれないくらい、まだまだ残ってるから」


 かと言って無駄遣いはしないわよ。ムルダは鞄を持ち直しながらそう言う。細いけもの道は横並びになることが出来ず、傘と傘がぶつかり合いながら縦になって歩く。そのせいでムルダの後ろ姿しか見えないが、声色から、後悔はしていないのだろうな、と推測できた。


「牛乳も買って帰れば良かったですね」


「ポップコーンとコーラだって、必要だったわ。コーラは瓶入りのやつね」


 そんな何気ない会話を繰り返していくうちに、見覚えのある道まで辿り着く。あとはここを真っ直ぐ歩いて右に曲がれば、村まで辿り着くはずだ。


 雨は先程よりも弱まり、細かく小さな雨粒が傘を絶え間なく打つ。満遍なく敷き詰められた雨粒のせいで、外の世界が伺いにくかった。


 カフネはムルダに左手を差し出す。


「鞄、私が持ちますよ」


「いいの。私が持ちたいから」


 差し出した左手は空を舞い、そこから無様に低空飛行。良心を無下にされたわだかまりが若干喉につっかえるが、それを無視して左手をポケットにしまう。


 雨のせいで湿気と薄暗さの漂う道を歩いてく。すると、つま先で何かを蹴った感覚を覚え、立ち止まった。


 下を見ると、そこには1足のハイヒール。元々は白かったのだろうか。僅かにその明るさが残っているが、泥と土にまみれ、ほとんどが薄汚くなり、そのせいで古びて見える。


「どうしたの?」


 消えた足音に違和感を持ったのだろうか。ムルダも立ちどまり、振り返る。そしてそのまま、僕の視線に合わせて俯き、立ち止まった正体を見つけた。


「誰のかしら、これ」


「さあ……。片方だけなくなっているのが、不思議ですね」


「まるでシンデレラよ」


 行きには見かけなかった1足のハイヒールに、2人は疑問符を浮かべる。カフネは何となく、自身から見て右側にある、鬱蒼とした緑の草原に目をやった。


 ───ああ、なるほど。


 そして一人静かに、納得する。


「まぁ、もう行きましょうか。犯人がわかるわけでもありませんので」


「それもそうね」


 なぜだかその場からすぐに離れたくなったカフネは、先を急ぐようムルダを急かす。ムルダの視線の先はまだそのハイヒールにあったが、僕に声をかけられたことですぐに踵を帰し、また来た道を歩き出す。


 ハイヒールは、そっと土の上に置いておいた。



 ◇◇◇◇◇◇



 テレビにDVDをセットし、机にはビスケットと自家製メロンクリームソーダ。ビスケットは家にあったものだ。


 ビスケットは非常食用らしい。さっきムルダが言っていた。そんな物を食べて大丈夫なのかと問うたが、彼女によれば今が非常時らしい。何を言っているのやら。


 2人はテレビの前のソファに座り、メロンソーダにストローをさす。ソーダの表面がコップから溢れ出し、アイスクリームごとこぼれ落ちてしまいそうになった。


 部屋をわざと暗くし、準備を整える。


「映画観るの久しぶり!」


「私もです」


 メロンソーダをひとくち飲む。アイスのまろやかさとメロンソーダの甘さが相まって、とても美味しかった。


 その姿を見たムルダが目を光らせる。


「良かった。メロンソーダ飲んでる。最初あんなにいらないって意地張ってたのに」


 ムルダがいたずらっぽく笑う。たしかに、最初はジュースを拒否していた。別に飲む必要を感じなかったし、それなら1本分ムルダが全て飲んだ方が有効的だと思ったからだ。


 ───結局、推しに負けてしまったけれど。


 なんて思いながらメロンソーダを吸い込む。別に悔いは無い。美味しいものは美味しい。


 そうこうしているうちに、かの有名な映画のオープニングが流れ、本編へと移る。


 今見ているのは、数あるDVDの中から厳選されたものだ。内容は確か、ひとつの家族の愛を唄ったヒューマン映画。


 ムルダは事前に、1枚のタオルを用意していた。泣く準備はできているそうだ。


 移りゆく画面を、2人は静かに見つめる。外は日が沈み始めており、海のさざなみと、カモメの鳴き声が遠くから聞こえてくる。


 映画では、4人の家族がドライブをしていた。向かう先は美しいエメラルドグリーンの大きな湖。主人公と思われる少年が窓から顔を出し、風に当てられながら目を細め、行先を眺める姿が美しかった。

 

映画に集中すればするほど、暗い世界が身を包んでいき、この世に1人だけとなったような感覚を覚える。目の前の映像だけが世界の全てで、その彼らの生き様を、遠くの、崖の上にそびえ立つ灯台から眺めているような、そんな感覚。


 不思議な浮遊感に包まれそうになりながら、膝の上に重なる手を少しばかり握りしめる。


 燃える夕焼けが、心を深い海に突き落としていくのを、感じていた。



 ◇◇◇◇◇◇


 7月3日 今日は昨日と打って変わって、パニック映画を見た。姿の見えない化け物が、身近に迫ってくる恐怖。最後のどんでん返しに驚いた。ムルダは夜眠れないと泣きついてきた。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月4日 今日はムルダがカメラを見つけてきた。古い一眼レフだ。まだ動くらしい。記念にと、ツーショットを撮る。カメラに写るのはこれが初めてだった。今度現像しに行く約束をした。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月5日 今日はとてもよく晴れていた。青い空が美しい。ムルダとまた街まで向かい、買い物を済ませる。ポップコーンと瓶入りのコーラ、それから牛乳瓶を2本、買っておいた。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月6日 昨日の清々しいほどの青空はなんだったのだろう。外は大雨。外出できそうにない。せっかくなので、また映画観ることにした。今回はラブロマンス。キスシーンでムルダが恥ずかしがっていた。そんなに気になるのだろうか。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月7日 また雨だ。チョビちゃんもげんなりしていると、ムルダが嘆いていた。いつまでこの雨は続くのだろうか。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月8日 雨だ。空気が湿っている。外も暗い。こんな天気がずっと続いてしまうと、つい憂鬱な気分になってしまう。ムルダは一人でヨガを始めていた。


 ◇◇◇◇◇◇

 

 7月9日 今日も大雨なので、映画を見た。あのアメリと言う店員におすすめされた映画。二人で冷やした牛乳瓶用意して、その映画を見る。


 少女と殺し屋の映画は、2人の別れで終わる。拳銃の黒く無情な姿と、恐怖に顔をひきつらせる少女の泣き顔、殺し屋の眼差しが、とても印象的な映画だった。


 美しい曲と共にエンドロールが終わって、肩の力が一気に抜けるのを感じる。時計を見ると、もう午後7時過ぎになっていた。


 大きく伸びをしたついでに隣を見て、つい顔を顰める。


 それもそのはず、ムルダは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、タオルで涙を拭っていた。


「い、良い映画だったわね…」


「え、ああ、はい……」


 震えた声でムルダが感想を伝える。声よりも鼻をすする音の方が大きかった。


 カフネは一旦ムルダをそっとしておくことにした。そのままキッチンに向かい、冷蔵庫から晩御飯の材料を取り出す。今日は、カフネが料理当番だ。


 取り出したのはじゃがいもとにんじん、パスタとトマトソース。今日の献立は、トマトパスタとじゃがいものポトフだ。


 手際よく野菜を切っていき、鍋の中に入れる。火をつけ、沸騰するのを待つ間にもうひとつの鍋にお湯と適当な塩を入れる。そしてキッチンの棚をあけ、そこから缶切りを取りだした。


 机に料理が並べられていく。湯だったポトフと美しい赤を誇るトマトパスタ。ムルダはそれを見て、歓喜の声を上げていた。


「すっごく美味しそう!」


「ありがとうございます」


 椅子を引いて、2人は向かい合って座る。手を合わせ、フォークを手に取り、パスタをかき混ぜた。


 トマトソースは胡椒がきいてて、トマトの酸味とソースのコクがちょうどよく織り交ざっている。パスタも質が良く、弾力のある噛みごたえだ。


 1人の同僚は、″ここ″に来てから食の文化に目覚めたと言っていた。たしかに、この世界の食べ物は美味しい。美味しいものを食べると、自然と心地よい気分になる。それに食事を共にすることで、患者の幸福度をあげる良いチャンスにもなる。メリットだらけだ。


 ″あちら″にいた時には、ものを食べるという文化そのものがなかったため、初めはとても驚いた。でも今じゃ、料理の腕も1人前だ。しかし自分一人だけだと、やっぱり食べることを忘れてしまう。


 ムルダは相変わらず、楽しそうにしている。


 カフネはポトフを掬う手を止め、ムルダの方を見た。


「今日、楽しかったですか?」


「ええ、とっても」


 ムルダがポトフのにんじんを口に入れる。


「カフネが作った料理、本当に美味しい。誰かが作ってくれた料理って、暖かくて優しくて、私、大好きだなぁ」


 ムルダは本当に幸せそうで、この上なく嬉しそうで、それでいて泣き出してしまいそうな瞳で、掬ったポトフを見つめる。


 その姿に、カフネは達成感と、何故だか寂しさを感じた。


「...じゃあ、今は楽しくて、それで、とっても幸せですか?」


 自分の質問が突拍子もないことはわかっている。しかし今ここで言質を取ってしまい、自分自身を安心させたいのが本音だった。


 カフネの質問に対し、ムルダはゆっくりと口角を上げる。


「とっても幸せよ。まだ会ったばかりだけれど、貴方が来てくれて、本当に良かったって、心から思ってるわ」


 その言葉に安心する。今までの2回、仕事でまだ1週間ほどしか経っていないのに、でここまで達成感を得ることはなかった。───悪寒まで感じてしまうほどに、順調だ。本当にそう思う。順調に事が進んでいる。これなら、まだきっと大丈夫。


 抱いた安心感を外に取りこぼしてしまわないよう、グラスに入った水を一息に飲み干し、水で心に蓋をする。


「私も、誰かと食べる食事がこんなにも美味しいとは、思っていませんでした」


 私も幸せです。そう答えると、ムルダは瞳を輝かせ、感嘆の声を上げた。


「幸せなの、私、今」


 嬉しい嬉しいと、歌う鳥のような声でムルダは喜んでいる。ああ、良かった。幸先は明るい。


「また映画、一緒に見ましょうね」


「もちろんですよ」


 その日、ムルダが日記に書いたことは、言われなくても想像できる。



 ◇◇◇◇◇◇



 カフネは一人、静かに老人の背を見つめる。日に日に小さくなっていくその背中が背負っているものは、きっと悲しみだけのような気がした。


 大きな古時計の横の壁を背もたれに、老人が食事を取り終わるのを、ただただ待つ。ゆっくりとした動作で動く右腕と、スプーンとお皿の触れる音。古時計の重厚な秒針の揺れ。外から僅かに漏れる風の音。その3つだけが部屋の中で重なり合い、生活を構成している。


 その時、急に老人の動きが止まる。


「…………もういらん」


「ダメですよ。しっかり食事を取らないと、ますます活力が減ってしまう」


 そんなカフネの助言など一切耳に入っていないのか、食器を重ねていく音が響く。カフネは急いで老人の座る机まで向かい、その手を止めた。


「せめてあと1口、一口でいいので、スープを飲んでください」


 非常に栄養バランスの取れたそのスープは、カフネ特製のものだ。天界でレシピを教わり、今日初めて作ったもの。


 しかし老人は聞く耳を持たない。


「だからいらないと」


「ダメです食べてください。でないと...」


「だからいらんと言っとるじゃろ!」


 掴んだ手を勢いよく弾かれ、咄嗟に数歩後ずさる。一瞬何が起きたのか分からなかった。弾かれた手が痛い。


 老人も勢いよく腕を動かしたことで関節が痛んだのか、静かに腕をさすっている。


 沈黙。


 お互い愕然としている。古時計の秒針が等間隔で刻まれていく。まるでこちらの行動を急かすように。しかし、この重たくなった空気が動くことは無い。


 何故こんなにも衝突してしまうのか、分からなかった。こちらがいけないのか。何を間違えてしまっているのだろうか。そんなに、貴方は、生きていたくないのか。ただただ、本当に、分からなかった。


 食器落ちるシャンデリアの光が、静かに揺れている。


 最初に口火を切ったのは、カフネだった。


「食器は、私が片付けます。貴方は部屋に戻ってください」


 自分の発した声が、思ったよりも冷たく固いものになる。そんな自分に違和感を覚えながら、静かに食器を片ずけていく。


 キッチンの洗い場に食器を置くと、後ろから椅子を引く音がした。


「……もう、お前は出ていけ」


「できません」


「いいから出ていけ。これは命令だ」


「いくら患者様の命令でも、それはできません」


 蛇口から水を捻り出し、食器の汚れを落としていく。


「今日はもう、早めに寝てしまうのが最適です。早く部屋に戻って、日記を書いて、横になってください」


 スポンジに洗剤をつける。水がやけに冷たかった。手が冷えていく。その直後。


 かだりと、椅子が倒れる音。次に、人の、倒れる音がした。


 後ろを振り向くと、弱々しい老人の小さな背中。


 翌日彼は、土に還った。



 ◇◇◇◇◇◇



 目を覚ますと、微かな鳥の鳴き声と海の音が聞こえてくる。


 カフネがムルダの家に来て、もう3週間が経つ。


 ベッドの上で、陽の光によくあたったシーツと、布団にくるまりながら眠ることが心地良いことを、ここに来て初めて知った。


 さざなみに耳を傾けながら眠りに落ちていく事が気持ちの良いことを、ここに来て初めて知った。


 朝、起きた時に誰かがいる喜びを、ここに来て初めて知った。


 カフネは、この村を、この家を、この海を、そして、彼女を。愛おしく思い始めていた。





「一気にまた晴れましたね」


 朝ご飯の用意をしながら、ムルダに問いかける。


「そうねぇ。今日は良い洗濯日和だわ」


 ムルダは微笑みながらシーツをカゴに入れていく。キッチンの窓から、外の景色を眺める。どこまでも続いていきそうなその青空を、鳥が飛んでいく。まるで、何にも縛られることの無い自由の象徴のようなその鳥の姿に、カフネは見惚れていた。


 その時、トースターから勢いよくトーストが出てくる。


 カフネは丁寧に2枚のお皿にトーストと目玉焼き、ミニトマトとオレンジを載せていき、コップには牛乳を注ぐ。これで、朝ごはんの完成だ。


「朝ごはんできましたよ」


「わかったー!」


 お風呂場からムルダの声が聞こえる。シーツを水に浸しているのだろう。僅かに水の音が聞こえる。カフネは机にお皿を乗せて、ムルダが来るのを待っていた。


 



 透明な風が吹いている。


 朝食を食べ終わり、ムルダとカフネは洗ったシーツを物干し竿に掛けていた。風が吹き、シーツがなびいて、カフネの顔に横髪がへばりつく。


 ワイシャツの袖をまくり、腕で汗を拭う。白いシーツたちは清々しく太陽の光を全身に浴び、風に身を任せていた。


 ───気持ちがいい。


 今まで、特別汗をかく作業をしてこなかったカフネは、今額にへばりつく前髪と、滴る汗をとても不思議に感じる。汗をかくのは、なんだか気持ちの悪い感じなのかと思っていたが、意外とそうでも無い。


 カフネがシーツをはたき、ムルダが枕カバーを手に取って竿に掛けようとした時、急に風が強くなる。その瞬間、1枚のシーツが宙を舞い、空を飛んで行った。


「あっ!」


 ムルダの声とともに、飛んでいくシーツを目で追う。シーツはキッチンで見た鳥のように、自由に身を置き、嬉しそうに羽ばたいていくように見えた。


「やだ、どうしよう」


 その声にハッとする。まずい、取り返さなければ。直感でそう思った。


「私が取りに行きます!直ぐに戻るので」


 そう言って急いでシーツを追う。シーツは風に流されるまま、どんどん空高くへと羽ばたき、青い空へと落ちていく。


 その姿が、本当に鳥のようで、それでいて。


 ───まるで、天使のようで。


 なんて、百歩譲って鳥には見えても、天使には見えない。たしかにあの白さは、天使の白い羽のようにも見える。でも、天使はあんな自由に飛ばない。


 走って、走って、走る。こんなに走るのは初めてだった。空を見上げ、未だ羽ばたき続けるシーツを追う。がたつく土を踏み抜き、目の端に映る家々をかき分けていく。崖の上を走るのは、下手したら落ちてしまいそうで怖かった。でも、今、下を見ている暇は無い。


 村の入口に着いた時、ちょうどその入口付近に、シーツは落ちていた。


 汗を拭いながら、シーツの元へと駆け寄る。息が切れて、苦しい。苦しくて、いつもより、空気を美味しく感じた。


 急に激しく動いたことでふらつく体を何とか動かしながら、シーツを手に取る。土を叩き、また洗わなきゃな、なんて思っていた時、右側から見知った声が聞こえてくる。


「おやおや、これは、カフネじゃんか」


 横を見ると、同僚のキリグが立っていた。彼女はいつもボサボサの長い髪を下ろしていて、眠たげな表情で微笑んでいる。青天使たちは顔は違えど、みな髪と瞳の色が同じなので、見分けをつけるために髪型を独特にするものも少なくないが、キリグとカフネはそのことにあまりこだわりがなかった。カフネも、ただ髪を前下がりのボブに切りそろえているだけである。


───そういえば、今回この村を担当するグループに、キリグもいたな。


 こんなに小さな村の中で、3週間近く顔を合わせなかったことを、今更ながら不思議に思う。カフネはシーツを畳みながら、軽く会釈をした。


「久しぶりですね。同じ村担当なのにここまで顔を合わせないとは、思っていませんでした」


「ね〜。ウチもそれ思ってた。まぁウチは、村に来てからほとんど外に出てなかったんだけどねぇ」


 キリグはゆったりとした動作で頭を搔く。そのマイペースさは、彼女の周りの空気だけが遅くなっているような錯覚を起こす。


「調子はどう?カフネ。その感じ、結構順調なんじゃない?」


 一瞬で図星をつかれ、思わず掴んでいたシーツを握りしめる。誤魔化すように咳払いをしたが、きっと誤魔化せていない。思わず目を逸らした。


「あ、ふーん。図星なのね」


 キリグは満足そうに笑う。


「まあ、まあ。そうですね。私が優秀だったおかげ、という事ですかね」


「ウンウン、なかなかあたりの患者に当たったんじゃないの〜?」


 キリグはカフネの自慢を軽くかわす。


 当たり。その言葉が、カフネの胸につっかかる。たしかに、当たり。なのだろう。そうだ。患者の当たり外れなんてものを、天界ではよく天使たちが話していた。天使は優劣をつけるのが好きだから。


「そうですね。とても良い患者さんですよ。こっちの話も積極的に聞いてくれるし、指示にも従ってくれる」


 カフネはムルダのことを思いながら、素直に話す。


「うわ〜、いいなぁ。ウチのとこ、もう随分歳のいったおばあちゃんなんだけど、なーんも話聞いてくれなくて。挙句の果て、薬全部土に埋めちゃってたの」


「え」


 土に?薬を?驚きのあまり、つい間抜けな声を発してしまった。


 キリグは相変わらず眠たげな声色で、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「だから今は、その薬を掘り出してたの。おかげでズボンが汚れちゃって」


 たしかに、キリグのズボンは、膝から下が土で汚れていた。そこまでする患者がいるとは。随分と意地を張るのだな。


 キリグはズボンの汚れをはたきながら、ため息を着く。


「今度の報告会で、これは上に言わなきゃだよねぇ。あーあ、こんな調子じゃ、まだまだ昇級の道は遠いよ」


 キリグあからさまに、悲しげに俯く。


 ───そうか、報告会。


 キリグの発言によって、思い出す。定期的に患者の進捗を伝えるために、月に1度天使たちが天界へ戻るタイミングがある。それが報告会だ。確か、来週の月曜だっただろうか。ちょうど1週間後だ。それに向けての資料を書いていなかったことを、今思い出した。


「報告会の場所って、8番地区でしたっけ」


「残念、14番地区でした。こっからだとちょっと遠いね〜」


 14番地区。ここから西方に10キロほどにのところある、商業に特化した街。カフネはそこに一度だけ言ったことがある。


「まー、お互い、頑張ろうよ。いつまでもこんな下っ端仕事、やってる訳にはいかないしね」


 そう言ってキリグが手を振る。


「じゃーまたね。報告会で会おう」


 カフネも手を振り、ムルダの家へと引き返した。



 ◇◇◇◇◇◇



「あ!戻ってきた!」


 家に帰ると、ムルダは机に鏡を置き、髪を結んでいる最中だった。


「すみません。遅れてしまって。たまたま同僚がいたので立ち話をしていたら、こんな時間に」


 既に、シーツを取りに行ってから30分以上は経っていた。カフネはシーツをお風呂場の桶のところまで持っていく。「これ、もう一度洗っちゃいます」


「あ、待って待って、その前に休憩しないと。走って取りに行ってくれたんだもの。1度ゆっくりしましょう」


 そう言いながら、ムルダがやかんに水を注いでいく音が聞こえてきた。カフネは言われた通りリビングまで戻り、素直にダイニングテーブルの椅子に座る。


「紅茶用意してるから、待ってね」


「はい。ありがとうございます」


 コンロに火をつける音を聞きながら、机に置かれた物に目をやる。レトロな卓上ミラーの周りには、くしといくつかのヘアゴムが散りばめられている。


「髪、結んでたんですか」


「えへへ、ちょっとね。せっかく髪も伸びてきたし、アレンジとかしてみようかなって」


 そう言うムルダの表情はどこか嬉しそうだった。彼女の髪は、可愛らしく1つ結びになっている。


「良いですね。気分転換に。可愛らしいですよ」


「え、そうかな」


 素直に褒めれば、より一層ムルダは嬉しそうに微笑む。


「これからも色々、アレンジしてみようかなー、なんて」


「いいじゃないですか」


 相変わらず、ムルダは嬉しそうだ。





「日記の進捗は、どうですか」


 夜。昼間よりも滑らかになった空気が漂う時間。


 夜ご飯を食べ終わり、2人は静かに机に向かい合っていた。


「ちょっとずつだけど、埋まってきてるわよ。最近は、日記を書くのが楽しい」


「それは良かった」


 いい傾向だ。かなり着実に、快方へと向かっている。ここ最近、ムルダは出会った時よりも少しだけ、毎日を楽しそうに過ごしている気がする。最初も、患者の中では珍しく、笑顔の多い人だとは思っていたけれど、最近はその笑顔がより華やかになっていた。


 カフネは鞄から、飲み薬と薬用クリームを取り出す。


「では、背中を向けてください。薬を塗りますので」


 そう言えば、ムルダは素直に背中を向ける。1ヶ月分のクリームは、もう少しで底をつきそうだった。


 ───今度の報告会で、新しい物を貰わないとな。


 そう思いながら、牛斑にクリームを塗っていく。牛斑派予想よりも遥かに進捗が遅く、体全体に広がっていない。背中だけにあるそれも、まだ小さなもので、薄い皮膚の下に薄く黒ずんでいるだけだった。


 その様子に安心したせいだろうか。何も考えることなく、自然と口が開く。


「実は私も、毎日日記をつけているんですよ」


 そうカミングアウトしたのは、本当になんとなくだった。何気ない会話の一旦として、気軽に口にする。不思議と、恥じらいはなかった。こういったプライベートな事は普段なら話さないはずなのに。なんだか今日は、気が抜けていた。


「え、そうなの!?初耳なんだけど」


 案の定ムルダは驚く。それもそうだ。あまり日記を書かなさそうな者が日記を書いていたら、誰だって驚くし、食いつく。


 カフネはそのまま、話を続けた。


「貴方と同じ時期に始めたんですよ。日記と言っても、ほぼ記録書なんですけど」


 実際に、書いてある内容はほとんどがムルダに関する事だ。彼女がその日何をしたか、どんな表情だったか。病気の進行具合はどのくらいなのか。もちろん天気や少しばかりの感情も連ねるが、そういうのはどこか気恥ずかしくて、あまり文字に起こせない。


 ムルダは瞳を輝かせている。


「うそうそ、何それ。超読みたいんだけど!」


「絶対嫌です」


「私の読んでもいいから、読ませてよ!」


「つまらないことしか書いてませんよ」


「それでも読みたいの!」


 ムルダが駄々をこね始める。カフネは意に介さず、クリームの蓋を閉め、コップを手に取り、水道から水を注いだ。


「ほら、早く薬を飲んで。さっさと寝ましょう」


「えー読みたいよー」


 カフネはムルダを無視して、そのまま自室に戻った。扉を閉めても、まだ何か言っているが、知ったことでは無い。


 その時カフネは無意識に、鼻歌を口ずさんでいた。



 ◇◇◇◇◇◇



 海に出かけることになったのは、昼過ぎのことだった。


 ムルダの家の扉を開けた先には、美しい海を崖の上から眺めることが出来る。前々から、行ってみたいと思っていた。という旨を伝えると、彼女はすぐさま海に行こうと提案してきた。


「もう!なんでもっと早くに言ってくれなかったの?」


「いや、タイミングがなくて...」


「そんなの関係ないわ!やりたいことはすぐにやらないと!ほら準備しましょう!今日は幸い晴天なんだから」


 そのままムルダに連れられ、今に至る。


 彼女の父親が生前に着用していたという、何ともバカンス的なTシャツと短パンを履いて、カフネは真夏の砂の上に立っていた。つまりアウェイである。


 カフネの目の先には、ムルダが海の波打ち際に立っている。白いワンピースがよく似合っていた。今日の髪型は、長い髪をふたつ三つ編みにして、それをお団子にしている。という感じだ。やり方を教えてくれたが、よく分からなかった。分かったのは、彼女が予想に反して器用だということ。そのくらいだ。


 足の裏から砂の熱さがじんわりと伝わってくる。このまま立っていたら、火傷してしまいそうだった。

 カフネは熱さを意識しないよう、小走りで波打ち際に立つムルダの元へと駆け寄る。


「ふふ、やっぱり全然似合わないなぁ」


 駆け寄ってきたカフネを見て、ムルダが笑う。そりゃ、こんなアロハなTシャツ、似合う人の方が珍しい。


 カフネは柄にもなく、少しムッとした。


「貴方が着せたじゃないですか。これ」


「だって、真っ黒なスーツで海とか、おかしいんだもの」


 そう言って笑う彼女の姿は、馬鹿にされてなんだか悔しかったが、それでも、とても美しかった。褐色肌に白いワンピースはよく映える。


 カフネはムルダを横目で流し見しながら、前を向く。


 そして目の前に写る、真っ青な景色。キラキラと、太陽の光に照らされて眩く海は、まるで宝石のようだった。そんな海は、どこまでも続いていきそうなほど広がっていて、逆に、何故か空は掴めてしまいそうな程近くにあるような感覚に陥る。波が時折足元をかすめ、その冷たさが心地いい。


「どう?夢の海は」


「ええ、とても」


 とても満足いきました。そう伝えれば、ムルダも満足そうに前を向く。


 海のさざなみと、カモメの鳴き声。太陽は程よい光で世界を照らし、海に濡れた足に砂がへばり付いていく。風が髪を掬い、一気に首元が涼しくなった。


 清々しい。青は、大好きだ。


 そうしてしばらくの沈黙を楽しんだ後、ふと、ムルダが口を開いた。


「私、昔は海が怖かったの」


 ムルダの声色は、何故だか迷子になってしまった子供のように、不安げで心細さを感じさせた。それでも、瞳は真っ直ぐと目の前の景色を捉えている。彼女の瞳に反射して見える青い景色が美しくて、つい盗み見る。


「...なぜ、ですか」


「だって、海はとっても綺麗で、どこまでも行けてしまいそうな気がしちゃうの。でもそれはただの思い込みで、本当は数歩足を踏み入れただけで、深い深い恐怖に落とされる」


深い深い恐怖。その言葉を頭の中で反芻し、その暗がりを想像する。カフネは海で溺れたこともないし、そしてまずまず海に入ったこともなかったが、深い所に落ちる。という恐怖は、想像だけで何となくわかった。


「確かに、それはとても怖い」


「そう。とっても怖いの。でも、海は本当に綺麗だから」


 だから。彼女がそこで言葉を止める。潮風が鼻を掠めて、波が足元を濡らし、波がまた引いていく。その繰り返し。カフネは、元の場所へ戻っていく波の姿が、なんだかこちらにおいでよと、誘われているような気がしてならなかった。


 ゆっくりと、彼女の言葉を待つ。しかしいつまで経っても、ムルダは何も言わない。


 カフネは視線をムルダから海へと戻す。続きが気になったけれど、なんだか急かしてはいけないような気がして、じっと、その場に身を任せる。


 結局、ムルダが口を開くことはなかった。





観葉植物のチョビちゃんは、もう鉢に収まりきらないほどの大きさまで成長していた。


「まさかこんな短期間で大きくなる植物だったとは」


「育ち盛りなのね〜」


 ムルダはチョビちゃんの葉に霧吹きで水をかける。チョビちゃんは、なんだか嬉しそうだ。


「せっかくなので、庭に植え替えましょうか」


「そうね。多分その方がチョビちゃんも嬉しいと思う」


 カフネが鉢を持ち、庭まで向かう。


 扉を開け、外の景色を眺める。もう、日が暮れ始めていた。


「スコップ持ってくるね」


「お願いします」


 揺れる西日がカフネの左頬を差す。海は、昼間とは打って変わって、なんだか哀愁漂う雰囲気を醸し出していた。オレンジの光が水面に映り、まるでスパンコールを散りばめたかのように美しく輝いており、真っ直ぐと伸びた光はまるで海に架かる橋のようだった。


 静かな空気が肌を撫で、カフネの青い瞳に西日が反射する。


 後ろを振り返れば、ムルダがスコップを持って戻ってきたので、鉢を庭の土の上に置く。


 土を掘り返し、小さな穴を空ける。鉢から慎重にチョビちゃんを取りだして、その穴の中に座らせる。


「このまますくすく育って欲しいですね」


「ここは風通しもいいし日もよく当たるから、きっと大丈夫よ」


 二人で土を周りに被せ、隙間を無くしていく。手で土を固めていると、前髪が目にかかった。


「カフネは最近、最初よりも表情が豊かになったわよね」


 唐突にそう告げられ、手が止まる。


「そう、なんですか?」


 そう、なのだろうか。


「そうよ!前よりもなんだか、柔らかくなった」


「柔らかく……」


 そんなつもりはなかった。普段通りだと思っていたのだが、僕にも愛嬌というものが生まれたのだろうか。


「愛嬌ありますかね?」


「それはどうかしら」


 ムルダは笑っている。


 それを見て、カフネは自分の表情が緩むのを感じた。


 ───確かにこれは、ムルダの言う通りなのかもしれない。


 何が影響したのかは分からない。いや、違う。検討は着く。きっと……。


 そこでカフネは、あることを思い出した。


「そう言えば、来週の今日、仕事のために家を外さなければならなくなります」


「仕事?私といるのも仕事じゃないの?」


 ムルダは僕の顔を見て、頭に疑問符を浮かべていた。


「ああいや、言い忘れていたんですけど、天使たちは月に一度、報告会というものがあるんですよ」


「はぇ〜」


「なので丸一日、天界へと帰ります。翌日にはまた戻って来れると思うので」


「わかったわ。来週の今日ね」


 ムルダは額の汗を拭いながら、微笑みかける。カフネも、首筋に汗がへばりつくのを感じながら、土の付いた手をはたく。


「早くお風呂に入っちゃいたい」


「じゃあその間に、紅茶を入れておきます」



 ◇◇◇◇◇◇



 7月24日。今日のムルダは、髪を編み込んでツインテールにしていた。チョビちゃんは新しい住処を気に入っているらしいと、喜んでいる。また二人で映画を見た。ポップコーンとコーラが美味しい。映画はアメリが気に入っていると言っていた、ミュージカル映画だ。面白かった。

 その後はムルダとチェスをした。ルールは先輩と1度やった事があったので、苦戦することはなかった。結果は2勝0敗。ムルダが悔しがっていた。



 ◇◇◇◇◇◇



 7月25日。二人で隣町まで行き、アイス屋さんに立ち寄った。初めて食べたが、意外と美味しい。これは確かに、夏にピッタリだ。ムルダのストロベリー味を一口食べさせて貰った。代わりに、僕の食べていたピスタチオのアイスをあげる。彼女は笑っていた。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月26日。村の住人が1人減った。キリグの担当していたおばあちゃんが亡くなったらしい。朝起きた時、庭の土の上で、息を引き取っていたと言っていた。葬式は静かに行われた。ムルダともう1人の住人は、泣いていた。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月27日。キリグが先に天界へと戻り、別れの挨拶をした。もう1人の同僚のヴェーラという男は、中年の男を担当しているらしい。その男も、もうほとんど外に出ないと言っていた。家に帰ると、ムルダはまたヨガをしている。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月28日。今日のムルダの髪型はハーフアップと言うものだった。簡単に可愛くなれると、喜んでいる。朝ごはんに出されたヨーグルトが、苦手ということが判明した。ムルダは苦笑いしていた。我慢して、全部食べる。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月29日。明日は遂に、報告会の日だ。荷物をまとめ、報告書の確認をする。ムルダの一眼レフを預かった。今回行く天界には写真を現像してくれる場所があるので、ついでにやってくるという旨を話すと、ムルダは手を叩き感謝を述べた。その日のムルダの髪型は、なんだか猫耳のようだった。


 ◇◇◇◇◇◇


 日記を胸鞄にしまい、中身を確認して、部屋の扉を開ける。


「では、行ってきます」


「いってらっしゃい!」


 ムルダが笑顔で手を振り、玄関まで着いてきてくれた。カフネも手を振り、扉を開ける。


「気をつけてね」


「大丈夫ですよ」


 心配そうに見つめるムルダに、安心させるようゆっくり微笑みかける。そして後ろを振り返り、村の入口へと向かった。数歩歩いて後ろを振り返ると、ムルダはまだ扉の前から動いていない。




「よぉ、行こうぜ」


 入口には既に、ヴェーラが待っていた。軽く挨拶を交わし、14番地区へと向かう。


「だるいなー。報告会」


「今回は何時間続くかな」


「俺の足が痺れる前に、終わってくれれば幸いだよ」


 久しぶりの空は心地よかった。横をカモメが通り過ぎる。普段よりも勢いよく吹き付ける風は冷たくて、日差しは暖かい。


「君のところのは、どうなの」


 カフネが話を振る。


「まぁ、持ってあと1週間かな。アイツ、外れ中の外れだよ。俺の話を一切聞かない」


 その話を聞いて、キリグも苦労していたことを思い出す。外れ。そうか、外れか。


「あんたのとこは当たりだって、キリグから聞いたよ」


 どうやら2人は、僕の知らないところで会っていたらしい。


「2人でデートしてるんだろ。この前見たぜ、お前らが隣町まで向かうとこ」


 デートと言われて、カフネは何だか気恥しくなる。顔を隠すように、視線を正面へともどし、少しだけ上へと羽ばたく。


「デートではない。仕事だよ」


「情が湧いてんだろ。見ればわかる」


「どこをどう見たらそう見えるんだ」


「だってお前、前より明るくなったじゃん」


 そう言われて、一瞬、飛ぶことを忘れてしまいそうになる。急いで羽を羽ばたかせ、前へ前へと進む。


「良かったじゃん。無愛想よりかはマシだ」


 ヴェーラの声は挑発的だ。カフネはその時、ムルダにも同じ事を言われたなと、考えていた。


「…………愛嬌が、あるだろ」


「いいや、それはないね」


 ヴェーラを睨む。彼は余裕げに笑っていた。





 結局報告会は6時間にわたり、終わった頃には死にもしない癖に、魂が抜け落ちるとはこういう事なのだろうと、カフネは悟りを開きそうになっていた。6時間立ちっぱなし。ほぼ、やっていることが修行僧と同じだ。


 ふらつく足元が憎たらしい。カフネは朦朧としながら、足を進める。向かう先は、小さなカメラ屋。


 扉を開けると、1人の老人天使が、入ってきたカフネにほほ笑みかける。


「珍しいね。こんな時間にお客さんとは。その調子じゃ、報告会終わりかな?」


「ええ、まぁ、そんなところです」


 老人の立っているカウンターまで向かい、鞄からカメラを取り出す。


「写真の現像をお願いしたくて」


 写真を見せる。笑うムルダと、真顔の自分。見せるのが少し恥ずかしかったが、老人は気にもしない様子でカメラを受け取った。


「ハイハイこれね。わかった。じゃあ1時間後にまたここに来てくれるかな」


 カフネは頷き、よろしくと伝えてその店を後にする。そう言えば、ここでの現像は、地上でも同じ方法で行うのだろうか。


 伸びをしながら現像を待つ間の暇つぶしとして、商店街へと向かう。どこか座れるところはないだろうか。足が痛くて仕方がない。


 ふと空を見上げると、そこには分厚い青空。簡単に届いてしまいそうだ。ここの天気は変わることがない。夜でも明るく、雨も降らないし虹もかからない。面白みのない世界だ。


 商店街の門をくぐり、敷き詰められるように並ぶ店を眺める。


 幸い、大勢の天使が居ることはなかった。みんなきっと、疲れてカプセルホテルで眠っている。


 歩みを進めていくうちに、ひとつの雑貨屋が目に留まった。アンティークで可愛らしいお店だ。窓ガラスから、中の商品が伺える。


 そこに、女性用の髪留めが目に映る。カフネは引き寄せられるように、店の中へと入っていった。


 ドア鈴の可愛らしい音色が店内に響く。中には数人のお客さんと、1人の店員が、商品の位置を確認していた。


 入ったあとから、後悔が始まる。なぜならその店には女性しかいなかったからだ。肩身が狭い。よく考えてから入らなかった自分を恨む。


 入った手前すぐに出るのは何故だか申しわけなく感じ、そのまま目的の棚へと向かう。


 その棚には、可愛らしいヘアゴムやカチューシャ、ヘアクリップなど、沢たくさんの髪飾りが並んでいた。


 カフネはそのうちの一つ、ピンクの小さな花が付いたヘアピンを手に取る。


 ヘアピンの入った袋には、スイートピーと書かれたシールが貼ってあった。


 カフネはそれを、カウンターまで持っていく。





 写真は綺麗に現像されていた。


「ありがとうございます。こんなに綺麗に現像されるとは思ってませんでした」


「ははは、そうじゃろ。ワシの腕は天使界ナンバーワンじゃからな」


 満足気に老人が笑う。カフネはまたお礼を言って、店を出た。


 空の景色は、変わらない。



 ◇◇◇◇◇◇



 珍しく、その日、書斎に老人の姿はなかった。大抵、カフネが起きた時には既に、無駄に早起きなあの老人は身を縮めて書斎に籠っていたというのに。珍しいこともあるものだ。


 カフネは老人の姿を探すため、書斎を後にする。そのまま老人の部屋に向かおうと、扉を閉めようとした時、書斎から小さな風が肌をかすめる。


 後ろを振り向くと、書斎の小さな窓が、少しだけ空いていた。


 カフネは窓を閉めようと、部屋に入る。


 暗くて埃臭い書斎は、窓から除く青い光だけが頼りだった。


 カフネは窓に手をかけ、閉めるために身を乗り出す。窓の前に置かれた机を頼りの体重をかけた時、暖かな春の風が、息をすると同時に鼻を通っていく。


 書斎の窓から見える、青い世界が美しかった。


 ───多分、きっと、この景色だけは忘れない。


 老人が亡くなったのは、その日から2日後、夕食の時間でのことだった。



 ◇◇◇◇◇◇



 地上に戻った時には、もう日が暮れていた。


 鞄に入った写真と髪留め。そのふたつを大切に大切に持ち帰ってきた。ムルダはどんな反応をするのだろう。喜んで、くれるだろうか。


 家の前に着き、扉を開けて、ムルダの姿を探す。帰った時に人間は、ただいまと言うらしいが、それを自分が言うのはどこか違う気がして、既のところで口を閉じる。


 ムルダはキッチン前のダイニングテーブルに座っていた。


「あら、カフネ。おかえりなさい」


 僕を見つけたムルダが、こちらまで寄ってくる。


「どうだった?報告会。やっぱり大変なのかしら」


 ムルダはいつも通り笑っている。にこやかに、軽く柔らかい声で、カフネを気遣ってくれた。


 ただ一人、カフネだけがその表情に答えることが出来ない。今は、立つことに神経を注ぐことしかできなかった。


 ───ムルダの、髪が、短くなっている。


 目の前に映るムルダは、その髪を除けば、何らいつもと変わりはなかった。ただその髪だけが異質で、胸焼けを覚える。なぜ、なぜ、なんで。どうして、切ってしまったのか。


 鎖骨ほどまで伸びていた髪は、呆気なく失われている。髪はもう、結べる長さでは無くなってしまっていた。耳まで切られ、涼しげだ。確かに、夏にはもってこいの長さ。


 ───でも、なぜ。


 カフネはただじっと黙っている。


 そんな様子のカフネの心中を察したのか、ムルダはあぁ、と言いながら、短くなった髪を撫でる。


「実はね、髪切っちゃったの。ほら、これからもっと暑くなるし、邪魔かなって」


 ムルダの言い分は予想通りのものだ。理にかなった意見。それでも、カフネは納得できない。呆然としたまま立ち尽くしている。


 頭の中は、疑問と困惑で埋め尽くされるばかり。何か言わなければと、声を出そうとするも、喉が震えて上手く言葉が出ない。


 ───なんで、あんなに、毎日楽しそうに、髪型を変えていたのに。


 頭が、真っ白だった。


 ムルダは不安げにカフネを見つめる。


「カフネ、どうしたの?何か言ってよ」


 鞄の取っ手を強く握りしめる。冷や汗が額を伝う。喉が縮まっていくのを感じた。なぜ、なぜ。


「…………似合っています。とても。夏にピッタリですね」


 何とか声を絞り出して、口角をあげようと意識する。でも、きっと、今の顔は最悪な状態だろう。上手く笑えている気がしない。


 カフネは誤魔化すように、鞄から1枚の写真を取り出す。


「これ、写真です。上手く現像できました」


「わぁ!ほんと、すごく綺麗」


 ムルダの目が輝く。写真を手に取って、満足そうに微笑んだ。


「ありがとう。カフネ」


「ええ」


 身体中に泥がへばり付いたように、上手く動かなかった。



 ◇◇◇◇◇◇



 部屋の棚の中には、髪飾りが閉まってある。


 カフネはそれを一瞥し、扉を開けた。


「おはようございます」


「おはよう。カフネ」


 ムルダは朝ごはんを作っている最中だった。スクランブルエッグのいい香りがする。


「今日は、何をしましょうか」


「あ、それなんだけど」


 ムルダがコンロの火を止め、こちらに顔を向ける。


「今日、実はちょっと行かなきゃ行けないとこがあって。お留守番、お願いできるかしら」


「ああ、わかりました」


 夕方には帰ってくるから。そう言いながら、ムルダが手を合わせる。ごめんね、というポーズだ。


 入れ違いで用事があるとは。カフネはどこか寂しく感じたが、ムルダは楽しげに、鼻歌を歌っている。


 ───どこに行くのだろうか。


 そう聞きたかったが、言葉が喉を通ることはなかった。なぜ聞けなかったのか、自分でも分からない。


 ムルダの涼し気な首筋が目に留まる。涼しそうで、良かった。





 ムルダが家を出て1時間が経った。


 カフネは一人、映画を見ていたが、なんだか集中できなくて、途中で再生ボタンを止める。


 飲んでいたコーラはもう底をついた。コーラの瓶をキッチンに置き、コップに水を注ぐ。


 乾いた喉に、水が通る。干からびた土が潤う様と似ていた。


 コップを置き、項垂れる。寝たのに疲れが取れた気がしない。ずっと胸がざわついている。


 それはまるで、暗い森の中を、裸足で駆け巡っているかのよう。辺りは真っ暗で何も見えなくて、でも得体の知れない焦燥感にかけられ、浅い呼吸と冷えていくからだを気にする暇もなく、手で森の草木を掻き分ける。ざらついた石とぬかるんでまとわりつく土と泥を足で蹴り、一糸まとわぬ姿で走り抜けていく感じが、心から抜けない。


 カフネは小さくため息をつく。


 あることを思いついたのは、項垂れたまま5分ほどしてからだろうか。


 カフネは、それを絶対にやってはいけないとわかっていた。しかし、早くこの焦燥感をどうにかしたい。不安が心を抜け落ちるのを、ただ待っているだけでは気が遠くなる。


 そしてカフネは、ドアノブに手をかける。


 ムルダの部屋の扉を開けたのは、この時が初めてだった。



 ◇◇◇◇◇◇



 ムルダの部屋の間取りは、カフネのものとほとんど変わらなかった。ただ、窓の位置が違うだけ。机もベッドもクローゼットも同じ。まるでコピーしたみたいだと、思った。


 ベッドの上には、たたまれた衣服がひとつ。パジャマのようだ。隅に置かれている。壁には何の飾りもなく、家具も最小限。まるで生活感がない。そう思ってカフネは、棚に目をやる。


 ───その中に、あった。


 見覚えのある、髪飾りたち。


 毎朝ムルダが少し悩みながら選んでいた、たくさんのピンやゴムやカチューシャ。それらはすべて、ひとつの小箱に丁寧にしまわれていた。


 ムルダの机の上には、ぽつんとひとつ、カフネが差し出した日記が置かれている。


 カフネはそれを手に取った。それをじっと見つめ、ページをめくる。



 ◇◇◇◇◇◇


 7月2日 今日、家に青天使団の男の子がやってきた。その子の名前は、カフネって言うらしい。ショートの白い髪と、まるで透き通った青い空をそのまま写し取ったかのような瞳がとっても綺麗。その子から貰った日記帳で、今日から日記を書き始めます。私こういうの、続かないんだよなぁ。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月3日 今日は久しぶりに街へ行った。もちろんカフネと一緒にね。一緒に入ったカフェのプリンアラモードがとっても美味しかったから、また食べに行きたいなぁ。

 その後は隣町のスーパーに寄って、寄り道をしたら、何とDVDショップを発見!まだDVDショップがあることにとっても感動しちゃった。それで調子に乗って、たくさんのDVDを買っちゃったけど、別に後悔してないわ。あと、あそこの店員さん。アメリって女の子、優しくて素敵だったなぁ。

 その後はカフネと映画を見たの。とっても良い映画だったわ。私、ちょっと泣いちゃった。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月4日 今日は両親の使っていた部屋から、一眼レフが見つかった。幸いまだ使えるみたいだから、記念に1枚、カフネとのツーショットを撮ったの。カフネ、写真は初めてだったのかな。顔が強ばっててほんとおかしい。今度現像して、その前に、素敵な額縁も探さなきゃ。家のどこかにあったはず。

 これはちょっと愚痴になっちゃうけど、毎日薬を塗らなきゃいけないの、少しだけめんどくさいなぁ。でも、カフネが優しく背中を撫でてくれて、嬉しい。たくさんお喋りもできて、楽しい。だから、これはほんとに、ちょっとした愚痴。


 ◇◇◇◇◇◇


 日記は、まだまだたくさん続いている。ちゃんと毎日、書いてくれていたのだ。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月10日 カフネと一緒に簡単なケーキを作ってみた!混ぜて焼くだけのやつ。カップケーキって表現の方が正しいかしら。カフネの手際が良すぎて驚いちゃった。おかげでとっても美味しくできたの。嬉しかったな。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月11日 カフネと一緒にヨガをやってみた。これが結構難しい。カフネはスーツ姿でヨガをするものだから、なんだかおかしくて笑っちゃった。動きにくくないのか聞いたら、そうでもないですって。絶対、嘘。だってちょっとスーツから変な音したもの。あれ、カフネは気づいてたのかな。


 ◇◇◇◇◇◇


 ───いや、あれは本当にそうでもなかったんだ。それに、スーツから変な音なんてしてない。


 カフネは心の中で、そう反論する。まるで、ムルダの書いた日記と会話するように。読む手が止まらなかった。


 また1ページ、2ページと、ページを進めていく。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月23日 今日はカフネと海に行った。なんだかんだ、近いのに今まで1度も行かなかったことが不思議。カフネは初めての海だったの。もうびっくりよ。私は産まれた時から海が生活の一部になっていたのに、最近は全然行かなかったな。

 海。やっぱりとっても綺麗だった。それに懐かしい気持ちにもなれた。潮風が気持ちよかったし、相変わらず海はとっても綺麗。アロハシャツを着たカフネは、おかしくて面白かったな。

 あと最近、髪をアレンジするのにハマってるの。これが結構楽しくて、カフネも褒めてくれるし、やりがいあるわ。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月24日 庭に埋めたチョビちゃんは、なんだかとっても気持ちよさそう。今日の髪型は編み込みツインテール。ふふ、結構可愛くできたな。最近はずっと晴れてるし、そのおかげで空気がとっても美味しい。その後はアメリのおすすめしてくれた映画を見たの。これもとっても面白かったわ。主人公の男の子がブランコに乗りながら歌うシーンがとっても素敵だった。ブランコ、懐かしいなぁ。

 映画を見たあとは、カフネとチェスをやったの、楽しかったな。2回も負けちゃったけど、楽しかった。もちろん悔しいけどね。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月25日 今日は隣町のアイス屋さんに行ったの。私はストロベリーアイスで、カフネはピスタチオアイス。1口貰ったけど、とっても美味しかったわ。やっぱり夏はアイスに限るわね。

 カフネは初めて食べるって言ってたけど、美味しそうに食べてて安心。カフネは初めてがいっぱいなのね。今日もとっても、楽しかったわ。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月26日 今日、マーガレットおばさんが、亡くなった。83歳だって。とっても長生きね。涙が、まだ止まらない。アダルベルトおじさんも泣いてた。悲しい。とっても悲しい。小さい頃、たくさん、色んな昔話を聞かせてもらってたな。飴屋のおじさんの話、大好きだったな。また、一緒にヨーグルトを食べたかったな。マーガレットおばさんの作るヨーグルト、とっても美味しいの。あーあ、悲しいな。このまま涙が溢れて、ずっとずっと止まらなくて、体が干からびちゃいそう。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月27日 気分転換に、今日はヨガをしてみた。ずっと泣いてばっかじゃダメね。動いて気分を晴らして、それでまた、マーガレットおばさんのところに行こう。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月28日 今日の髪型はハーフアップ。簡単で、だけどとっても可愛くなれるの。カフネに説明したら、褒めて貰えちゃった。嬉しい。でもカフネったら、髪型にとっても疎いの。ハーフアップも知らないなんて、信じられない。天使はみんなこういうのに疎いのって聞いたら、そうでもないんだって。カフネによると、天使は結構髪型に気を使う子が多いって言ってた。とっても以外。だって、カフネって髪にこだわってる印象なかったから、他の天使もそうなのかって。そのことを言ったら、私が気にしてないだけ。と言ってた。

 朝ごはんはヨーグルト。マーガレットおばさんのヨーグルトを意識したけど、全然再現できなかったな。カフネはヨーグルトも初めてだって。結構躊躇なく食べてたけど、食べた瞬間の顔、凄かったなあ。これが、苦虫を噛み潰したような表情、なのかしら。ものすごく渋い顔をしてて笑っちゃった。ヨーグルト、苦手なんだな。でも、ちゃんと間食してて、とっても偉い。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月29日 明日はついに、カフネが天界に戻っちゃう。少し寂しいけど、ここは我慢。それに、天界に戻るついでに、この前撮った写真を現像しに行ってくれるんですって。すっごく嬉しい。やっぱりカフネは優しいなぁ。


 ◇◇◇◇◇◇


 7月30日 今日は、1ヶ月ぶりのひとりぼっち。暇だったなぁ。明日には、カフネは帰ってくるけれど、ひとりぼっちって、こんなに寂しかったかしら。よく分からないわ。忘れちゃった。いろいろ。全部、忘れちゃったのかしら。おかしいなぁ。毎日楽しいのに。いつからこんなに、変だったっけ。


 ◇◇◇◇◇◇


 静かに、日記を机に置く。


 そのままカフネは、なんだか全身の力が抜け落ちてしまったように感じた。無意識に体の重心が後ろに傾き、そのままベッドに座る。


 ふかふかとしたベッドが、軽く反発する。それに合わせて、カフネの身体も小さく上下する。


 カフネの脳内に、日記の一文が木霊する。


 ─── いつからこんなに、変だったっけ。


 その言葉が頭から離れない。頭が一気に重くなり、肩の力が抜けていく。


 ───何が、何を、間違えていた?


 カフネの目に、ムルダは毎日、楽しそうに映っていた。よく笑い、よく喜び、よく動く。最初からずっと、患者にしては珍しいと思っていた。珍しくよく笑う患者だ。珍しくよく動く患者だ。珍しく、感情のわかりやすい患者だ。そう思っていた。ずっと。この患者は、当たりなのだと。


 油断していた。いや、これは油断なのだろうか。でも、思い込みが激しかったことは確かだ。だから些細な変化に気がつけなかった。完全に安心しきっていた。


 病状も変化することなく、毎日笑っていて、楽しそうで、それに自分も当てられて。


 ───だからもう、手遅れなんだ。


 カフネは下唇を噛み締める。膝の上に置いた拳を、静かに握りしめた。体が、凍えるように震えるのを感じた。息をするのも忘れてしまいそうになる。心臓の鼓動が耳音で鳴り響いて、それが、とてもうるさかった。


 ◇◇◇◇◇◇


 午後6時半に、ムルダは帰ってきた。


「明日、海に行かない?」


 帰ってきて唐突に、そう告げられる。


「なぜ、ですか?」


「また行きたくなっちゃったのよ。今度は海に入りたいなって思って」


 そう言うムルダはずっと笑っている。声も弾んでいる。しかしそれが、今のカフネには、異質に写って仕方がなかった。


 心を落ち着かせるよう、小さく深呼吸をする。


「水着は、持ってるんですか?」


「うん。部屋のクローゼットにあるの。カフネも入りたければ、父のを用意するけど」


 ムルダの提案に、カフネは首を振る。


「あらそう?一緒に入れたら嬉しかったのに」


 ムルダは分かりやすく声のトーンを落とした。その姿に少し罪悪感を覚えたが、どうしても今は、海ではしゃげる気分では無い。


「……とりあえず、夜ご飯にしましょう」


 そう告げればムルダはまた笑い、静かに扉を閉めた。





 ご飯は、味がしなかった。


 ミートソースパスタは、もちろん美味しい。しかし、味がしない。ただ咀嚼しているだけ。何も感じなかった。脳が、舌の機能を奪ってしまったのだろうか。


「カフネったら、浮かない顔してるけど、大丈夫?」


 そう聞かれて、慌てて表情を取り繕う。ムルダを見れば、心配そうに僕のことを見つめていた。


「ええ、全然、平気ですよ。強いていえば、昨日の報告会で、ちょっと疲れちゃってるかもしれません」


 そう言えば、ムルダはまだ納得のいかなそうな声色で、そう、とつぶやくだけだった。


「すみません。心配させてしまって」


「んーん。大丈夫。もし具合が悪かったら、明日の海も、無理に行かなくていいからね」


 ムルダのその優しさが、苦しくて、もう、どうしようもないのだろうかと、悲しくなった。






 違和感は、あった。


 ───症状が、進行している。


 昨日まではなかったところに、新しく牛斑ができている。元々あった牛斑も、僅かに広がっていた。


 これは今日1日で、進行したものだ。僅か、1日で。


 その事実に、全身に冷たい汗が溢れ出す。息がか細くなっていく。目の前の事実を、受け入れたくない。


 カフネはムルダに悟られることのないよう、手だけはとめないように、意識を集中させた。


 ───ムルダはこのことに、気づいているのだろうか。


 気づいて、ちゃんと、悲しんで、苦しんで、恐怖に身を強ばらせているのだろうか。


 カフネはただ、ただそれだけを、ムルダに聞きたかった。



 ◇◇◇◇◇◇



 朝4時に叩き起され、まだ覚醒しきってない頭を一生懸命動かす。


 目の前には、ムルダの姿。時計を確認して、ため息を着く。


「……こんな朝早くに、どうしたんですか?」


「海よ、海。行くって言ったじゃない」


 その言葉に愕然とする。


「こんな、早いとは、思わないじゃないですか……」


「もしかして具合悪い?」


「いえ...」


 カフネは重い体を何とか起こして、ムルダに向き合う。


 外はまだ暗く、変に冷えているように感じた。


「具合、ほんとに悪くないの?」


「ほんとに大丈夫ですから……。行くんですね?」


 カフネの問いに、ムルダは元気よく頷いく。


 目を擦り、あくびを噛み殺し、何とか頭を働かせる。


「準備するので、待っててください」


 そう言ってベッドから足を出せば、ムルダは嬉しそうに部屋を出ていった。



 ◇◇◇◇◇◇



 夏なのに、朝は寒いのか。


 海には着いたが、暗くて周りが見えにくい。夏なのがまだ救いだった。


 ムルダは元気に、砂浜を駆け抜ける。その後をカフネは静かに追う。


 ムルダが着ていた服は水着ではなく、白いワンピースだった。


「水着はどうしたんですか?入らないんですか?」


「入るわよ」


 そのワンピースで?そう聞きたくなったが、その前にあくびが先走ってしまう。目に涙が浮かび、視界が悪くなった。眠い。


 水が跳ねる音がする。見れば、ムルダが海に入っていっていく。


「ちょっと、あなた、そのまま入るんですか?」


「カフネも来てよ。気持ちいよ」


 ムルダは躊躇なく、前へ前へと進んでいく。このままじゃ、溺れてしまう。


 そう思った時には、体が勝手に、海へと向かっていた。


「あはは。ふふ。カフネ、こっちに来て」


 ムルダに誘われるまま、海に浸かっていく。スーツに塩水がへばりつく感覚が、気持ち悪かった。


「ちょっと、本当に、何やってるんですか。溺れますよ。そのままじゃ」


「ねー、早く来てよ」


 ムルダは歩みを止めない。早く追いかけなければ。そう思うのに、海が邪魔をして上手く進めない。足が重い。体が濡れていく。服が浮つく。体が芯から冷えていく。


 その時やっと、ムルダの背中が止まった。


 カフネは少しでも早く進めるよう、手で水をかいていく。もう、上半身まで浸かりきっていた。


 水をかいて、かいて、ムルダの目の前まできて、足を止める。


「……捕まえた」


 そして、ムルダの肩を掴む。


 思ったよりも体力を使ってしまい、呼吸が不規則になる。喉が焼かれたように熱く、声が上擦った。


「ほら、早く帰りますよ。風邪をひいてしまう」


 次に、ムルダの腕を勢いよく掴む。そしてそのまま戻るよう、後ろへ引っ張った。服がベタつく。早く戻りたい。


 しかしムルダは、一向に戻ろうとしない。声さえも発しない。


「ムルダ、聞こえてますか?帰りますよ」


 さっきよりも大きな声で、問いかける。それでも、ムルダは振り返ってくれない。


 そこで初めて、カフネは言われようのない焦りを覚えた。


 直感が、このままではダメだと言っている。


 勢いよく腕を引っ張る。全身の力を込めた。早く帰らなければいけない。でないと、取り返しのつかないことになる。


 水の音がうるさい。水が跳ね上がり、顔にかかる。そのせいで髪まで濡れて、肌にへばりつく。塩水が口に入って、辛くて、喉が枯れていく。呼吸がしにくい。


 焦るせいで、足元がふらついた。砂が服の中に入り込む。


 その時、急にムルダが動き出す。今度は逆に、ムルダがカフネの手を掴み、そしてそのまま、また前へと進んでいく。


「な、ちょっと!ムルダ、溺れるから」


 驚いて、声が震えた。何故だかとても怖かった。それでも、手を離すことができない。離してしまったら、ムルダがどこかに行ってしまいそうだったから。


 だから、ムルダを掴んでいる手に、力を込める。


 もう、言葉を発することはなかった。


 ただ、前に進むムルダの後を追う。肩まで水が浸かって、息がしにくくなる。地面が足から離れていく。口に水が入る。咳き込んで、水が目に入りそうになるから、目を閉じて。それでも歩くことは辞めない。


 また目を開けて、ムルダの姿を確認する。ムルダの牛斑は、もう右肩全体に広がっていた。


 朝日が、顔を照らす。


 朝日に照らされ、濡れた体に光が反射して、美しく輝くムルダの姿を見て、何故か、泣いてしまいそうになった。


 つま先に、地面が僅かに当たる。


 青い海は、近くで見ると、ただの液体だった。

 


 

 


 


 



 


 


 



 





 









 






 





 

 


 


 


 


 

 




 


 


 

 

 





 

 


 


 


 


 

 




 


 


 





 


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