02. おいしい水
「これ、食べて」
ティアから手渡されたのは、とても香ばしい香りのする林檎だった。
「お腹すいてるでしょう? 私もペコペコ!」
僕が言葉を口にする前に、ティアはカバンの中からもう一つのリンゴを取り出し、すぐさまそれにかぶりついていた。
「ありがとう」
僕は遅れて、お礼を言った。しばらく林檎を見つめた後、おもむろに一口、小さな口でその赤い実をかじる。ティアは気にせずしばらく林檎を食べていたが、じっと動かない僕を不審に思ったのか、不思議そうな顔で声を掛けてきた。
「どうしたの? 林檎食べたことない? 私はとても好きなんだけど。あ、それとも水が飲みたい? ちょっと待ってて」
ティアは「ミウッ」と誰かを呼んだ。すると、どこからともなく、またもや半透明な人物が現れた。その人はエルフのように耳が長く、水色の腰まで伸びる長い髪をした背の高い女性で、ティアの横に佇んでいた。いや、正確には浮かんでいたのだ。この女性もリョウと同じく半透明なので、精霊なのかもしれない。
「水が欲しいの」
ティアがそう言うと、彼女の手の平の上に水の球体が浮かび上がった。ティアはその球体を僕の目の前に差し出した。
「これ、飲んで」
ティアの行為を無下にする理由もない。僕はおもむろにその球体にそっと口を付けた。
「おいしい…… とても」
思っていたより喉が渇いていたらしい。水を一気に飲み干すと、今度は先ほどの林檎にかぶりついた。
「痛いの?」
そう聞かれて、僕は自分が泣いていることに初めて気が付いた。
ティアは僕をそっと抱きしめると、静かに歌い始めた。
普段なら、見知らぬ子供に泣き顔を見られ、抱きしめられるなど恥ずかしくて仕方がないと思ったことだろう。しかし、この時の僕はただティアに身を委ね、恥じることもその行為をとがめることもしなかった。
人らしい食事や、自分のために用意されたおいしい水、人の温もり。全てが僕の心を満たしていった。僕は心地良い歌声に身を傾け、感じたことのない暖かさと心地よさに、ただただ満たされていたかったのだ。
「ティアは何者なんだ?」
歌が終わり、気持ち落ち着いた後、僕はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「私? 何者っていうのは何をするひとかってこと? 私はルーシアを王のところに連れていって、大地をきれいにしたいの。そのためにはルーシアの国の人たちの首の輪も外さないといけないから、それも何とかしないとね。それを何とかするひとだよ!」
ティアはさも当然とばかりにそう答えた。言っている主旨は合っているが、聞きたいことはそれではない。
「それは聞いたよ。そうじゃなくって、そうだな、ティアはどこから来たんだ?」
話の焦点が合わないティアに対して、僕は一つ一つ丁寧に問いかけることにした。ここは、以前幽閉されていた城の地下牢とは異なり、城からだいぶ離れた森の中だ。誰もこんな場所に、力のない子供が短時間で移動したとは思いもよらないだろう。今ならゆっくりと話ができると思った。
僕はこの機会に、ティアに気になっていたことをすべて聞いてみようと考えていた。完全に信用したわけではないが、それでも彼女には例えようのない安心感があった。信用できると思える理由が欲しかったのかもしれない。
「私、ルゥイの森から来たの」
「ルゥイの森? 聞いたことがないな。それはどこにあるんだ? 位置はどの辺だ?」
「ここからだと、あっちの方だよ」
そう言ってティアは北東を指さした。
「あ、ルゥイが、外の人たちは聖域って呼んでるって言っていたよ。知ってる? 聖域って?」
もちろん知っていた。知らぬ者などいないだろう。だがそこは、人の住める場所ではない。いや人の住まう領域ではないのだ。世界樹が根を張り守護する地。その場所には、人の立ち入りが固く禁じられている。正確には立ち入ることができないのだ。
「ああ、もちろん知っているよ。聖域はね。ただ、誰もその地に立ち入ることはできないけれど。ティアは聖域の近くに住んでいたのか?」
ティアの言葉が少し曖昧に感じたので、もう一度確認する形で尋ねてみた。
「近くじゃないよ、中で暮らしていたんだよ」
「聖域の中だって! じゃあ聞くが、そこはどんなところだ? あぁ、ちなみにどうやって瘴気を超えて外に出てきたんだ? あそこはもう、世界樹が見えないほどの瘴気に覆われているって話じゃないか。とてもじゃないが、人が暮らせる場所だとは思えないけど?」
僕はティアに詰め寄るように問いかけた。少しきつい言い方に聞こえるかもしれないが、ティアには真実を話してほしいのだ。そうすれば、自分も本心からティアを信頼できると思ったからだ。
「外に近づくほど、瘴気は濃くなるの。だから近づくのは危ないよ。私も子供たちも、ルゥイの近くで歌いながら大地をきれいにてるよ。ルゥイの近くはキレイなんだよ! だからちゃんと暮らせるよ。私、外に出たのは今回が初めてだったけど、リョウに高く飛んでもらって、たくさん歌ったよ。だから瘴気も超えられたんだ」
確かに、ここに来るまでにリョウの背に乗りながら濃い瘴気の続く場所を、ティアはあえて飛んでいたように思う。そうしてティアが歌うと、周りの瘴気がどんどん浄化されていった。
最初、その光景を目にし、軌跡を目の当たりにしているのかと驚いた。金と銀のティアのオーラが、まるで粒子が舞い散るかのように遠くまで広がっていく様は、言葉では表現しがたいほど幻想的な光景だった。
(ティアの話は本当かもしれない……)
まだ短い付き合いとはいえ、彼女には、そう思わせるだけの不思議な存在感が確かにあった。
「そう、ルゥイっていうのは誰?」
「ルゥイは私の大切なひとなの。お母さん。外の人たちは世界樹って呼ぶんだって」
「世界樹が母親? ティア、聖域にはティアのような人は他にいないのか? ティアのように聖域の外に出てきた者やティアの仲間は?」
「人はいない。でも友達はたくさんいるよ。親友もいる。リョウと、さっき水をくれたミウも親友だよ。ルゥイも、いつも一緒にいてくれるんだよ」
「リョウやミウっというのは、精霊だよな?」
「うん、そう」
彼女は精霊を使役しているのか……。普通、人々に備わった魔力は自然界の精霊の力を借りるものだと聞く。しかし、彼女は違う。リョウ、ミウ、そして世界樹――― 彼女にとっての親友たちは、まるで家族のように彼女を支え、常にそばにいる。彼女が精霊とこれほどまでに親しい関係を築いていることが、彼女の特別さを物語っていた。
「ルゥイというのは世界樹のことだろう? 世界樹は聖域にいるんじゃないのか?」
「聖域にいるよ、ルゥイ自身は。でも大地が続くところならどこでもルゥイと繋がれるよ。今だってきっと私たちのこと見てくれてる」
「友達というのは? それも精霊か?」
「うん、精霊もいるし獣もいるよ。外にもいるでしょ?」
そう話しながらティアは大地からツタを出し、あっという間に二人を囲むテントのようなものを創り上げていく。
「いる。精霊は見えないから実感はないけど、伝承によればいるらしいな。だからこそ僕たちは魔力を使えるわけだし。というか、ティア器用だね」
話している間にテントは既に完成していた。僕らを囲うそのテントは、植物の蔦を巧みに編み込んで作られた即席のものだ。外界を遮断するには十分で、広さこそ限られているが、少し休むには申し分ない造りと言えるだろう。
「見たことないの? そっか、外の人には子供たちが見えないって、ルゥイが言ってた。でも、さっきルーシアはリョウもミウも見えていたよ」
「ティアに会って初めて精霊を見たんだ。でも完全にはっきりと見えるわけじゃない。ティアのオーラに反射して見えてるみたいだ。だからティアから離れたら精霊も見えなくなるかもしれない」
ティアと一緒にいると、不思議な現象が次々と起こるのは慣れてきたとはいえ、精霊が見えるなんて思ってもみなかった。ティアの周りに漂う光の粒子たちが、その存在を示しているようだった。精霊たちは、彼女のオーラに共鳴しているのだろうか。
「ねぇ、そろそろ休もう。ルゥイが道は急ぎすぎないで休みながら進んでって言っていたの」
彼女もずっと無理をしていたのかもしれない。その顔には疲労の色が見え隠れしていた。相手の事情を考慮できなかったことに申し訳ない気持ちを感じた。ティアのことをもっと気遣うべきだったと反省する。
「そうだな…… 最後に一つだけいいか? ティアはどうして聖域の外に出てきたんだ? 世界樹の近くは安全なんだろ? わざわざ危険を冒してまで、人々の首錠を外したり、外の世界を浄化する理由は何だ?」
僕は問いかけながら、ティアの目を見つめた。どうしても知りたかったことだった。聖域から来たというティアの行動理由。僕を助けてくれた、その最たる理由が何なのか知りたかった。
「外の人たちが約束を果たしたがってるってルゥイが言ってたの。でも、ずっと出来ずにいるから手伝ってあげてほしいって。人々が約束を守らないとルゥイはそのうち眠るかもしれないって言ってた。長く眠るんだって。それでもルゥイは構わないって言っていたけれど……」
ティアは軽く肩をすくめ、ちょっとだけ寂しそうに笑った。指先で地面の草を撫でながら、顔を上げて言葉を続けた。
「私は、ルゥイともっと歌を歌いたいの。ルゥイの喜ぶ顔が見たい。ずっと眠り続けたら歌も歌えないし、一緒に話ができなくなるじゃない。だから外に出てきたの。ルゥイにはまだ起きていてほしいから」
「約束ってどんな約束?」
「人々が、みんなで仲良く大地を汚さないように努力する約束だよ。そうしたら、ルゥイも約束を守って大地をきれいにするんだって」
そう言うとティアは僕の胸にそっと手を当てる。
「ルーシアも約束の子。王の子はルゥイの根が植えられる。だから無事に帰って、いつかルゥイの根が植えられた時、ちゃんと約束を果たすんだよ。それが約束でしょ」
そう言うとティアは自ら作った小さなテントの中、僕のすぐ脇で体を丸めて横になった。
「リョウ、何かあったらすぐに教えて」
ティアがそう言うと、群青色の髪色をした年若い青年がどこからともなくティアの横に現れる。そして――――――
「わかった」
ひとこと、そう告げるだけ。
ティアは目を瞑り、そのまま数分としないうちに寝息を立てはじめた。
(なんとも無防備な……)
ティアが眠っている間、自分くらいは周囲を警戒していた方が良いだろうと思った。しかし、ティアから放たれる心地良い気があたりに充満し、うつらうつらと夢の世界へ誘う。リョウはそんな僕を気にしたそぶりも見せず、ただ静かにそこにいるだけ。
静寂が二人を包みこみ、穏やかな二つの寝息が夜の森に消えていった。
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