01. 旅立ち、そして前進
硬質な虚無の世界に囚われて、今日も僕を黒い霧が覆う
「ほら、飯の時間だ!」
醜い看守のがなり声が聞こえる。乱雑に投げ入れられた盆の上には、粗末というにはあまりにも、人が食べるのに相応しいとは言い難い食事が載せられていた。いつものことだ。
「カビパンに塩汁、いつぞやの生ごみよりマシか」
「墓石は作ってやる」そう言って別れを告げたのは、いつのことだったか。父親らしい愛情などに覚えもなかったが、ここに来る心細さと不安な気持ちに追い打ちをかけるそのことばは、果たしてそれも彼なりの思いやりだったのだろうか。今となってはそれも分からない。
新しい服など新調されず伸びた背の分、縮んだ裾が年月の長さを物語っている。
「なんて美しい漆黒の髪!」「見目麗しい御容姿は陛下に似られたのですね!」「なんという神力の高さだ!」「有望なご子息」称賛の声はやがて、国を守れという刃に変わった。僕は盾なのだ。
五大陸の南方にその地、ゼーレはあった。奴らはそこを国と呼んだ。ゼーレの首都と称されるリムダにある一角の城、その地下牢に僕、リセル・ウィン・ランドルードは幽閉されていた。
ゼーレの民、人間による反乱が起こったのが今から約5年前、僕が4歳の時だ。予想外の反乱だった。南の国バレイスはゼーレの奇襲と圧倒的な数の差に押され、一気にゼーレの支配下に置かれた。
食事をする度に、首と繋がった両手の手枷がガチャガチャと音を立てる。実に不快だ。
(邪魔だ…… みんな消えればいい……)
心に暗い炎が灯る、だが誰一人そのつぶやきに耳を傾ける者はいない。
―――
眠りたいときに眠りにつき、食べたいときに食べたいものを食べる。遊びたいときには遊び、歌いたいときに歌う。なんて幸せなんだろう、私は自由だ。
緑あふれ花咲き乱れる。動物たちは仲良く駆け回り、子どもたちも楽しく歌を歌いながら愉快に過ごす。美しく清らかで、楽しいところ。そこが私の生まれた場所だ。
大切な存在、若葉色のルゥイがいる。みんなの友達であり、私のお母さんでもある。この森に居なくてはならない存在であり、この地に必要不可欠な存在でもある。世界中の人々はルゥイのことを世界樹と呼ぶらしい。ここはルゥイの森だ。
東西南北、4つの大陸の中心に中央大陸が位置し、そこには世界樹と呼ばれる大樹が聳え立っていた。中央大陸には、大陸を囲むように瘴気の壁が厚く立ち込め、人々の行く手を阻んだ。人々はこの地を世界樹の守る地、聖域と呼んだ。
聖域で生きる唯一の人の子がいる。世界樹に愛され、精霊に愛され、彼らと共に生きる私のことを、彼らはティアと呼んだ。私もそんな彼らを愛していた。ルゥイは人々との約束を守り、ずっと昔から大地を清め続けている。私は、ルゥイの心を喜ばせたい。それが私の願いだ。
ある日、ルゥイは外に出てみないかと私に言った。人々が争いを起こし、大地がひどく汚れているけれど、そうなることを望まない人々がいる。だから、人である私が争いを収める手助けができれば、彼は再び約束を果たすことを考えていると語った。
ルゥイが人々との約束を果たさなくなれば、大地が汚れる。大地が汚れ続けると、ルゥイはやがて眠りにつくそうだ。私はルゥイといっしょに歌を歌いたい。もっと話をしたいし、彼に抱きしめてもらいたい。だから私は、外に出ることにした。彼が約束を果せるように。そして、もっと一緒に居られるように。
肩口で揺れる髪。
さらさらと頬をなでる風が心地よい。
初めて感じる外の風は、私をさらに遠くへと連れていく。
「怖いか?」
「ううん、リョウがいる、みんなも。それにちょっと楽しみなんだ。外ってどんなところなんだろう? リョウは行った事あるんでしょ?」
「この森の方がずっと綺麗だけどな。行けばわかるさ」
肩の上で踊る髪がこそばゆい。大きな大きな風の精霊、リョウの背に乗り、私はこの日初めて聖域の外に出た。
―――
声が聞こえた
それはいつものことだ。この肌寒く陰鬱な地下牢に訪れる者は、日ごろの鬱憤を晴らしに来る物好きな変わり者ばかりだ。彼らは。陰湿で陰険、高慢で強欲なクソ人間だ。
首錠によって元来の力が封じられていても、元々の身体能力の高さから、微かな音にも機敏に反応できる。ましてこのような薄暗い環境にいれば、音には自然と敏感にならざるを得ない。
(聞いたことのない声だ、女……?)
僕は身構えた、近づく足音と相手の目的を図りかねているからだ。しかし大体の想像はついていた。誰であれどんな理由であれ、食事の時間以外でここに来る物好きは、決まって僕を痛めつける者なのだ。
「ここにいるの?………… わかった…………」
扉の外から女の声がした。どうやら部屋の前で誰かと話をしているようだ。途端に身体が緊張する。
扉に亀裂が入り、大きな音を立てて鉄の板が目の前に倒れた。
頑丈な扉がきれいに切断され、あっという間に部屋の前に大きな穴が開いた。僕は唖然とした。目も大きく見開き、口をぽかんと開けてその場に立ち尽くしていた。
「あ、ほんとにいるね! 黒い髪に黒い目、私よりも小さな身体。この子で合ってるんじゃない?」
侵入者は少女だった。笑顔で駆け寄ってきたが、その姿が余計な緊張感を引き起こし、更なる恐怖心を煽った。顔と身体がこわばっていくのが分かる。
「ティア、怯えている、これは人の怯えだ。あるいは警戒している、そのどちらか、いや両方かもしれない」
少女の横にいる半透明の男が口を開く。彼に言われて、少女は僕から一歩身体を引いた。
「私ティア、こっちの子はリョウだよ。ねぇ、あなた龍の国の王の子?」
「そう、だけど……」
「よかった! 私、あなたを迎えに来たの。一緒にあなたの国に帰ろう!」
少女はにっこりと笑みを浮かべたが、僕には何が起こっているのか全く理解できない。彼女の突然の言葉に深い困惑を感じていた。
「君は何者だ? 助けに来たというけれど、僕は人質だ。僕がここからいなくなれば、国が大変な損害を受ける。僕はそのための人質なんだ。だからここから出るわけにはいかない」
突然現れたこのティアという少女が一体何者なのかわからない以上、やすやすとついて行くわけにはいかない。彼女は迎えに来たというが、そもそも自分は人質としてこの国にやって来たのだ。自ら帰ることは出来ない。更に、このリョウという人物は、半透明の身体をしている。そのような状況で簡単この少女を信用することはできなかった。
「ルゥイが、たくさんの人々が大地が再び緑豊かになることを望んでるって言ってたの。だから手伝ってあげてほしいって。そのためには、世界中の人たちの首の輪を外して、あなたが国に戻らないといけないの。だから私が来たんだよ」
少女の話に僕は驚愕する。
「今、みんなの首の輪といったか!? 国の者たちにもこの首錠が嵌められているのか!?」
「うん、あなたの国の人たちにも首に輪が嵌められているって聞いたよ。そこから小さな瘴気が出るんだって」
自分以外にも人質として囚われている者がいることは懸念していた。しかし、国中の人々に首錠が嵌められているとは思いもよらなかった。これでは、自分がここで人質として囚われている意味が果たしてあるのか、疑問が湧いてくる。
ふと、少女を見やった。
年齢は僕と近い、10歳前後だろうか。薄暗い中でもわかるほどの、透き通るような銀髪に陶器のような滑らかな肌は、少女の美しさを強調した。僕を見つめるアメジストの瞳は意志の強さを感じさせる。細い手足に小さな体が可憐な印象を与えた。
さらに少女は、龍族やエルフ、魔族などとはまったく異なる、白銀にほんのり金色の入り交じったような、容姿同様とてつもなく美しいオーラを纏っていた。
「僕がここから出たとしても、すぐに人間に知られるさ。そうなれば国の者たちがただでは済まされない。やっぱり僕はここから出られないよ」
「そっか、じゃああなたの国の人たちの首の輪を最初に取っておけば良かったんだね」
少女はしんみりした声で、心底がっかりしたように答えた。
「あなた、名前はなんていうの? ねえ王はあなたのこときっと待ってるよ」
少女は僕の顔をそっと覗き見た。
「ノーレ…… あいつらはそう呼んでる」
「あいつら?」
「人間のやつらだ。奴隷って意味だって」
「奴隷って何?」
「人のゴミだ……」
「そっか、それは悲しいね…… あなたの髪の色、夜空の色だね。ルーシアと同じだ」
(……ルーシア?)
「ルーシアはね、私の一番好きな花なの。とってもきれいな花だよ。名前、ルーシアってどうかな?」
「僕に名を付けるのか? お前、僕の名を知らないのか?」
「ノーレって呼ばれていたんでしょ? でもその名前は悲しいと思う。それならもっと良い名前を私がつけてあげようと思って。ルーシアは悲しくない名前だよ。そうじゃなきゃ、あなたを何て呼べば良いのか分からないもん」
言葉が出なかった。ここでは誰もが僕を人として扱い、尊厳を持って名を呼ぶ者はいなかった。それが、僕が「ノーレ」と呼ばれる理由だ。
だが僕はバレイス国の王子だ、国中の誰もが僕の名前を知っている。だからこそ、この少女が僕を助けに来たというのなら、当然名前を知っているはずだと思っていた。だからこそ、敢えて自分の名を明かさなかった。知っているはずの名を訪ねる少女に向けて、僕は苛立ちと、自重めいた思いをぶつけたのだ。
僕は言いようのない感情に目を見張っていた。続けて少女は言う。
「私、最初にあなたを見つけちゃったの。それにあなた何だか、とっても痛そう……」
そう言う、と少女は何の戸惑いもなく僕に近づき、無遠慮に僕の手を取り歌い始めた。唐突な彼女の行動に、初め戸惑いを見せたが、その歌声が僕を包み込んでいくのを感じた。
心が満たされていく。寒々しかった心の隙間に歌が塗り込まれていった。
同時に、身体の隅々に感じていた痛みも次第に消えていった。
(きれい…… 暖かい……)
カシャンと音を立てて、首錠とそれに繋がっていた手枷が地に砕け落ちていた。
「これ、君が……?」
「もう、痛くないよ。いっしょに帰ろう! みんなの首の輪もちゃんと取れるんだよ!」
強がっていても、自分がまだ未熟であることを認識した。長らく感じていなかった人の温もりと、僅かながら見え隠れする希望。それだけで、この地獄からの脱出に十分な動機が生まれた。
「さ、行こう!」
僕は立ち上がり、歩き出そうとした。しかし、足にうまく力が入らなかった。長年鎖につながれたことで衰えた体力を痛感し、やはり脱走など無理だということに気づいた。
「僕は行けない。走ったりできる体力がないんだ。これでは外に出る前に簡単に捕まるよ。君もこのままでは人間に捕まってしまうよ。ここから早く立ち去ったほうがいい」
「じゃあ、おんぶしてあげる!」
「はっ?」
「早く来て! 人が来ちゃうよ?」
少女は僕の前でしゃがみ込み、背を向けて後ろに手を伸ばしてくる。つまり、僕をおぶってくれるということだ。
「!!? 君、いくつだよ? ひとは意外と重いんだぞ! そんな小さな細い身体で僕をおぶって逃げるなんて無理だ! 絶対に捕まる!」
「大丈夫! 私、力持ちだよ! 親友たちも助けてくれるから。ほら、早く!!」
親友とは誰のことを言っているのだろうか…… 僕がなかなか動かずにいると、身体が勝手に宙に浮き、そのまますぐに少女の背中に着地した。どういうわけか、僕は彼女におんぶされていた。
「面倒だ、早くしろ」
横でリョウと呼ばれた半透明の男が、面倒くさそうな顔でこちらを見下ろしている。どうやら彼の仕業らしい。
「じゃあ、行くよ~!」
「え、ちょ、ちょっと待った!」
少女は勢いよく駆け出した。
外に出るのは、いともたやすかった。これまでに看守や衛兵と思われる者たちと何人かすれ違ったが、少女が歌を歌うと彼らは皆、攻撃性を失うようだった。その隙に、僕は少女におんぶされたまま、ものすごい速さでその場を去った。
近場の窓から外に飛び出し、今はリョウの背に乗り、少女にしがみついたまま上空を滑空している。どうやらリョウは人ではなく精霊らしい。彼は、群青色で身体が蛇のように長く手足は短いが、とても大きな龍の姿をしていた。
「道理で透けて見えたわけだ。それどころか、伝承上の生き物の上に乗っているなんてな。それで、この後どうするつもりだ?」
「ルーシアにも会えたし、とりあえずあなたの国に行こう! 掴まってて!」
いつの間にか僕の名前はルーシアになったらしい。聞き心地の良い声に、聞き慣れない名前を呼ばれ、こそばゆさを感じながらも、僕はティアの細い腰に腕を回しギュッとしがみついた。
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