第四話
摂津国の堺・中之島は凄まじい経済成長を遂げる最中であり、『天下の台所』と呼ぶ者さえいた。江戸、京都、大坂を指す『三都』という呼び方も、数十年後に普及する単語である。
では、如何様な理由で大坂はここまでの成長を遂げたのだろうか。
「大坂といえば、豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣が記憶に新しいな。ではそもそも豊臣秀吉は、何故大坂に城を構えたと思う?」
竹千夜は水路に沿って並ぶ建物や、積荷を乗せて揺蕩う船を指差した。
「京都はかつて日ノ本の中心だった。大坂は淀川という航路のおかげで京都と繋がっているのだ。そして、海にも面している故、海路を駆使して日ノ本中と交易がしやすい。また、町全体に運河が多いことからも、大坂は『水都』なんて呼び方もある。大坂は昔から商業の中心に位置するのだ」
「なるほど……その中でも商業の中心に位置したのが堺と中之島ということですね?」
「その通り。特に中之島は、さらに発展する理由がある。水路が物の集まる理由ならば、金が集まる理由はあれだ」
彼の視線の先にあったものは、米俵や絹が多く運搬される蔵。護衛も複数おり、警備がかなり強固な場所だと、素人目でも理解できる。
「竹千夜様、あれは一体何なのでしょうか」
「蔵屋敷だ。その本質は、各国の大名たちが年貢米や特産物を保管し、金に換える役目がある。そして、寝泊まりもできる点から『蔵』と『屋敷』の二面性を合わせ『蔵屋敷』と呼ばれているんだ」
「それが大坂に人・金・物が集まる理由なのですね。それにしても金ですか……、物々交換の時代は終わりつつあるのですね」
彼女の横顔はどこか寂しそうだった。
楽市楽座の影響により、商業は爆発的に進化を遂げた。文明の発展は、天人にとっても衝撃なのだろうか。
「それはそうと、あれはなんでしょうか……!?」
哥刈が興奮を隠せない様子で指差すは寿司屋。先程まで浮かべていた憂いはどこへ行ったのか。
まだ稗、漬物しか食していない哥刈は、少し涎を垂らす犬が如く姿であり、美人顔が台無しである。
竹千夜は呆れて溜め息を吐いた。
「あれは寿司屋だ。米と生魚を合わせた料理が出る。江戸で最も人気の食事で、その文化が流れ入り、大坂でも流行っている。江戸では握りが主流だが、こっちでは『押し・巻き・蒸し』が主で、大坂寿司と総称している。あの店は押し寿司が目玉らしいな」
しかし、説明を受けた哥刈は、先程まで煌めかせていた瞳に影を落とした。
竹千夜は、自分のどこに失言があったのか冷や汗をかく。
「寿司……、あれが寿司なのですか……」
「良くない思い出でもあるのか?」
「私が寿司と聞いて思い浮かべるものは『鮒ずし』です……が、これが生臭くて個人的に好まないのです」
なるほど、と竹千夜は納得すると、彼女の手を引っ張って店に連れて行き、早速購入した。
「な、なにをしてるのですか!?」
「いいから食べてみろ」
赤酢によって茶色がかった米。その上から新鮮な鯵の身が乗っかり、手の平ほどの大きさが重みとして胃を圧迫し、空腹感を誘う。そして、店から借りた器に入った醤油と生姜を付け、竹千夜は美味しそうに頬張る。
その様へ生唾を飲む哥刈は、寿司を睨み、迷い……意を決して寿司を食べた。
「……! お、美味しいです! 咀嚼を妨害するが如く弾力の激しい引き締まった身。青魚特有の後味と相性が良い生姜。そこに醤油を少し付けるだけで鯵の旨みを引き出しています! 赤酢と米の相性も良く、我々に対する魚の食欲促進になってます……! 江戸はこんなにも美味な料理の最先端を走っているのですか!?」
「お気に召したようで何より」
瞳を輝かせて寿司を食す哥刈を見て、竹千夜は能面翁を被り直して吊り上がった口角を隠す。
そして、先程彼女がうっかり漏らした言葉が気になっていた。
「まるで、貴殿がかつて鮒ずしを食べた経験がある物言いだったな。過去に地上へ降りたことがあるのか?」
すると、哥刈は三貫ぺろりと平らげ、頬に米粒を付けたまま厳しい形相を浮かべた。
彼女と同行して未だ数日だが、竹千夜の中で初対面の哥刈から感じた優雅さが、氷の如くあっけなく溶けゆく気がした。
「言われてみれば……そうですね」
「まるで己でさえわかっていない様子だな?」
「竹千夜様から『寿司』という単語を聞き、無意識に呟いておりました。しかし、不可思議なことに、味も臭いも知っているはずですが、私自身は鮒ずしを食した記憶がないのです」
「……なんと?」
竹千夜は能面翁越しに素っ頓狂な声を上げた。その眼差しには、困惑が混ざっているが、哥刈には伝わらない。
「私には月の記憶……、そもそも自分が何者かさえわからないのです。私に与えられたものと言えば、哥刈という名と遺産集めの大役を任されたことだけ」
「記憶喪失にもかかわらず地上へ派遣され、命の危機がある大役を押し付ける天人どもは理解できないな……。貴殿はそれで納得しているのか? 辛くないのか?」
「微塵も不安でない……と言えば嘘になります。ですが、記憶が欠落した私でも、何かしら役割を持てることは、大変素晴らしいことだと思うのです」
「…………」
「さぁ、私の話もこれくらいにして、調査を再開いたしましょう!」
哥刈は頬の米粒を口に入れ、竹千夜の手を引っ張った。
童が迷子にならないよう導く母子を連想し、竹千夜は恥ずかしく思って彼女の手を優しく振り払い、港へ足を運ぶ。
やはり商業の中心というべきか、港へ向かうにつれ雑踏を極め、すれ違う商人たちの会話が嫌でも耳に入った。
竹千夜は「手掛かりになりそうな会話を探そう」と、目線で哥刈へ促した。
「また院島辺りで海賊が出没したらしい。今月で二回目だ。今後も続くようなら、商売あがったりだぜ」
「浪人から護衛を集うか? 今なら相場より安く済むだろ」
「うーむ、流石に金より命の方が惜しいか……致し方あるまい」
「折角南蛮から取り寄せた品だ! 藩主殿に高く売りつけねぇとなぁ!」
「最近築島周辺に不穏な動きが見られると噂に聞いたな……近い内に争いが起きるかもしれん。出荷が減るのを待って、より高値で売りつけた方がいいんじゃないか?」
「そんなに待ってられねぇよ! 商品にも鮮度がある! 早い内に金に換えちまうぜ!?」
「この前江戸まで行ったが、屋台で飲食を提供するやつがいて驚いたもんだ」
「衛生面がやや気になるが……何を食べたんだ?」
「饂飩だ。立ち食いだったが、上手く改良すれば金の臭いがする。あれは遅かれ早かれ爆発的な人気を得ると思うぜ。投資するなら今だな」
「また大和の方で出没したんだって? 主に賊が狙われるから助かるが、おちおち夜戸手もできないなぁ」
「目撃情報によると、其奴は『いくら斬っても無傷』らしいわぃ。同業者の中じゃ【不死身の人斬り】なんて呼ばれておる」
「物の怪も怖いが、面妖な人間の方がもっと恐ろしいなぁ」
不死身の人斬り────明らかに異様な話題である。
竹千夜と哥刈は互いに見合わせ、二人の商人へ声を掛けた。
「すまない。その話、詳しく聞かせてもらえるか?」
すると、小太りな商人と老人の商人は快く話してくれた。竹千夜の能面翁から商売の匂いを感じ取ったのか、提示した情報量の金銭に納得したからか、はたまた哥刈の美しさへ鼻の下を伸ばしたのか、真相は不明である。
簡潔にまとめると、ここ数年に渡って『商人を標的にした賊ばかり狙う人斬り』が出現したそうな。商人たちは大和や丹波への商売を避けていたため、犯罪率が減少するだろうと感謝していた。
しかし、物事はそう簡単に終わらない。
たまたま目撃した商人曰く、人斬りは鎧を身に纏っていないにもかかわらず、どれだけ斬られても無傷だったとか。そして【不死身の人斬り】と呼称され、噂好きの人々の耳に入ってどのような結果を招いたか。
人斬りへの報復に燃える賊の仲間、彼の噂を聞いて実力試しをするため犯罪へ手を染める者、人斬りの正体を暴こうと躍起になる者が増え、商人たちの願いと逆の結果を引き起こしてしまった。
これが【不死身の人斬り】に関するあらましである。
「哥刈、この件についてどう思う?」
「不死身の人斬りという言葉は、本来と異なる使われ方をしております。どれだけ怪我を負っても、生存するからこそ不死身と呼ぶのです。そも、彼の人斬りは怪我を負わぬため、【不死身】でなく【無敵】が適切でございます。そも鋼鉄の皮膚など、この世に存在しましょうか。かぐやの遺産が原因であれば、不壊に関する宝は一つしかございません」
竹千夜は思考を張り巡らす。
ここで問題なのは、金の匂いに敏感な商人たちが、口を揃えて宝であるかぐやの遺産の話題へ触れないことである。商人たちの目に触れていない……否、所持していると分からないならどうだろう。
無敵の発動条件を『着用』に絞ると、一つの候補が浮かび上がる。
「……決して燃えない宝────【火鼠の皮衣】か」
「あくまで可能性の範疇です。もしくは、【龍の首の玉】へ『無敵になる』と願った輩の可能性もございます」
「どちらにせよ、商人や民が困っているなら見捨てておけない。では目指すとしようか────大和最大の都市・奈良町へ」
丹波は現在の京都にあたる国です。
また、大“坂”が大“阪”へ表記変更したのは明治2年(1869年)とされているため、本作では大阪を『大坂』表記で統一してます。