第二話
新免武蔵守・藤原信玄、またの名を宮本武蔵。
十三からニ十九の歳の間にて六十余の決闘を行い、その全てで勝利を掴み取った無敗の剣豪。
中でも有名なのは、慶長十七年に長門の西に位置する船島にて、剣豪・佐々木小次郎と行われた決闘だろう。武蔵は見事勝利を収め、健闘した小次郎の流派から“巌流島”と呼ぶ者も現れたほどに。
「俺でさえその名は知っている。だが、天人はかぐや姫を迎えに来た時に使った、戦意喪失の妖術があるのだろう? 何故敗れる道理がある?」
「先程も申した通り、『かぐやの遺産』には多大な月の力が宿っているのです。一般人ならともかく、天人同等の力を得た者に、我々の妖術が効きましょうか」
先刻までの哥刈が茶化す様子は感じられず、自信満々だった彼女は何処へ消え失せたのやら……と、竹千夜は思考する。
同時に、天人をここまで苦戦させた剣豪と、かぐや姫の話を伝承するだけの己が決闘したとて、はたして勝機が存在するだろうかとも。
「天人でも敵わない輩に、一般人の俺が敵うとでも?」
「うふふ、御冗談を。貴方のどこが一般なのでしょうか」
「……何を言っているか理解できんな。ちなみに池田 好運という者は?」
「船乗りを家業としているらしいです」
「最早武士でさえないではないか。如何にして天人は敗北したのだ。ただの船乗りではないのか……?」
竹千夜の発言のどこに笑える要素があったか不明だが、彼女の顔から暗さが薄れると、竹千夜は不思議と心地良かった。
まるで、童が泣き止んで安堵する親の如き感覚。
「そう構える必要はありませんよ。【竹取之翁】の貴方だからこそ、天人たちは希望を託したのです。どうか、それが大変名誉であることを努々忘れぬよう」
「天人の御眼鏡に適ったならば、額面通りに受け取ってやる。しかしだな、かつて最愛なるかぐや姫を奪ったにもかかわらず、讃岐造の子孫へ『かぐやの遺産』の蒐集の要請とは……天人の心とやらも理解できまいな」
竹千夜が苦言を呈すと、一拍置いて哥刈は笑いを堪えつつ、漆黒の髪を揺らして蹲る。
夕刻と白日の光が交わる空に、彼女の口から吐息となって漏れる笑い声は、まさに心奪われる様であった。貴族の如き耽美な女が笑い上戸であるなぞ、虜にならぬ男は世を探し回ってもいまい。
「あははっ、も、申し訳ございませんっ。だって、だって仰る通りなんですものっ。同族が申し訳ありません……ふふっ」
「笑い事でないだろう。かぐや姫の二度目の来訪及び護衛は、先祖から託された宿願だ。ようやく手掛かりが舞い込んだ矢先、かぐや姫のことを聞かぬは間抜けも過ぎるだろう」
「と言いますと?」
「貴殿らは容易く『協力せよ』と抜かすが、元を辿ればかぐや姫の失態だろう。であるならば、俺が無償で血汗を捧げるのは些か納得できない。褒美の一つくらい提示しても良いだろうよ」
哥刈は少し考えた後、己を指差した。
「私と話を交わせること……?」
「そんなわけないだろ! しいて挙げるなら、かぐや姫への謁見や天上の宝など、もっと色々あるのではないか」
すると彼女は両手を合わせ、表情と共に理解した意を示す。
「確かに。かつての讃岐造様も、かぐやの護衛に対する報酬として、財力と地位を授けました。無償で協力してほしいなど、貴方……竹千夜様も納得できましょうか」
哥刈の雅な声音から『竹千夜様』と呼ばれ、竹千夜はやや照れ臭そうに頭を搔いた。
「ということは、前述した褒美を得ることが可能だと?」
「もちろん。貴方が求める全てを」
「ただし、貴公子の誰もが成し得なかった五つの宝……『かぐやの遺産』全てを蒐集した暁に……だろ? 天人は今の昔も無理難題がお好きなみたいだ」
彼女が浮かべた笑みは、彼の言葉の肯定であった。
竹千夜は近くに置いていた荷物と作業道具を回収し、哥刈と反対方向へ歩き出した。
「どこへ行かれるのですか?」
「我が家だよ。言っただろ、この竹林は俺の仕事場であり住処だと。やると決まれば出立は明日だ、それまで準備と計画に入る」
「私も同行しても?」
「むぅ……出会って間もない男女が同じ屋根の下で一緒なのだぞ。貴殿は今すぐ引き返して宿を探せ。ここから東に行けば町が見えるはずだ」
竹千夜は恥ずかし気に手を払うが、あろうことか哥刈はその手を掴んだ。
流石の竹千夜も驚いて勢いよく払った後、申し訳なさそうに彼女の手を取った。
「貴殿が急に触れたとはいえ、乱暴に扱ってすまない……! どこか怪我はないだろうか?」
「特にございませんが……竹千夜様は不思議な方なのですね」
「そ、そうか?」
「常識的に考えれば美しさの権化が如き私が、未婚の殿方と同じ宿で寝たい……など申せば、殿方は大喜びされると天人の先輩方から伺ったのですが」
己を”美しさの権化“と宣える彼女の自信は、一体どこから湧いているのだろうか。あと、愚かな入れ知恵を行った天人は確実に俗世へ染まっているのではなかろうか。
喉まで出掛かった言葉を、竹千夜は飲み込んだ。
「確かに世の男は喜ぶだろう……が、もう少し貴殿は体を大事にするべきだ。その美しさは武器であるが、決して消費して良いものではないよ」
「…………っ」
「わかったなら、さっさと宿を探しに……うぉ!?」
竹千夜は素っ頓狂な声を上げてしまう。
それもそのはず。哥刈が彼の右手を掴んだから。
しかし、そこにいたのは笑い上戸の面を見せていた彼女の表情でなく、困惑を浮かべる少女だった。そして己が行動を認識すると、今度は哥刈が彼の手を払い除けた。
「あっ、すみません。そのようなお言葉……何と言いますかいただいたことなかったもので、重ねてすみません……」
「貴殿も人間らしい顔ができるではないか。残念美人な天人だと思っていたが」
「私が人間らしい……と」
「気に障ったならすまん。天人に斯様な言い草は禁忌であったか?」
すると、哥刈は一拍遅れて笑った。
その笑顔は、己が顔を隠匿する仮面ではなく、心の底から見せる笑顔。
そういうところが人間らしいのだ、と竹千夜は言いかけてやめた。
「ふふっ、不敬になど当たりませんよ。この私の虜にならず、あまつさえ『人間らしい』と言ってのける、竹千夜様が面白かっただけですもの」
「どうにも馬鹿にされている気がするんだが……」
「あらあら、そんなことないですよ? 協力者としてこれほど愉快な方と邂逅できるなど、私はなんて稀有な体験ができているかと実感したのです」
彼女はそう言いながら、己の腕を摩って体の冷えを訴える。
竹千夜は、天人であっても温度を気にするのだな、と考えつつもやや早歩きで帰宅した。
哥刈の妖術で照らした先に映ったのは、一人暮らしにはやや広すぎる長屋。畑と井戸が完備されているが、壁や屋根はかなり年季が入っており、幾度となく修復した跡が見受けられる。
竹千夜は────、歴代の竹取之翁たちは一体いつから、如何様に生活し、竹取物語を継承してきたのか。
彼女の無垢な好奇心が刺激される。
竹千夜が建付けの悪い引き戸を動かし、煙草盆から炭火を取り出して囲炉裏へ投げ込んだ。室内の影が灯りで揺らめくと、竹千夜は哥刈へ妖術をやめるよう指示する。
先刻まで昼の如き明るさだったが、一瞬で梟が囀る時刻へ引き戻される。否、本来はこの暗さが本来の光景である。
輝く妖術はなんと奇怪か。
竹千夜は、光度の変化に対して目頭を抑えながら思考した。
「竹千夜様は竹職人を生業としているのですか?」
囲炉裏の前でくつろぐ少女は、室内を見渡しながら質問する。
質素な居間の奥には作業場と思しき光景が広がっていた。竹籠、竹笊、調理器具など竹製の道具が数多く並んでおり、心地良い竹の匂いが居間に流れ込む。
「ああ、代々受け継がれているよ。どれだけの年月が経とうとも、竹に触れる初心を忘れないように、と。特に都市部だと竹筆の需要が高いから、時間がある時に製造している」
「素人目でも竹千夜様が作ったものは、丁寧かつ繊細な仕事が施されております。魂の籠った職人技と言ったところでしょうか」
日頃の仕事ぶりを褒められたことが純粋に嬉しかったのか、竹千夜は目線を逸らしながら囲炉裏の前に腰を下ろした。
そして覚悟を決めたのか、改めて哥刈を視界の中心へ見据える。
「さて、本題に移ろうか」
「遺産集めの計画でございますね」
彼女の回答へ、竹千夜は静かに頷いた。
「幸いにも宮本武蔵は江戸、池田好運は肥前と居場所が判明している。この情報は確かなんだろう?」
「はい。過去に天人は両名に敗北しておりますゆえ」
「問題は情報のない残り三名だ。これは地道に情報収集する他ないだろうな。そこでだ、ここから北西にある摂津国の堺……もしくは中之島を目指すのが妥当だろう」
提案した竹千夜だが、疑問が顔中に貼りついた哥刈が映るなりハッとする。天人に日ノ本の地名を話したところで、理解しているとは限らないことに。
「摂津は現在、目覚ましい成長を遂げている。俺も何度か訪れたが、人、物、金が目まぐるしいほどに集中し圧巻されたよ。商人の間でも『天下の台所』なんて呼ばれ方もしている。そういう場所は必然と────」
「情報が集まる、ということですね?」
「その通り」
竹千夜はそう言いながら夕餉の準備に取り掛かる。
その様子を哥刈は興味津々に観察していた。
「あらまぁ、私にも何か作って下さるのかしら?」
「天人は霧や霞を食べるゆえ、人間の食事は不必要ではないのか」
「この地へ降りた影響か、私は天人でありながら食事が必要となってしまったのです……。同盟者として夕餉を用意していただけると幸いなのですが」
彼の脳内に、食費を再計算するためにそろばんを打つ光景が視え、哥刈は慌てて弁解した。
「も、もちろんタダ飯食らいにはなりませんよ!? そうですね……あっ、夜間は妖術で照らしますよ! ほらっ、これで炭や油を節約できます! …………、うぉ、お願いじまず、ご飯をお恵みくださいぃぃぃ」
半べそをかき、見惚れるほど綺麗な姿勢の土下座。
悲しいことにこれが高貴なる天人の姿である。
「ま、まだ何も言ってないだろ。それに『腹が減っては戦ができぬ』と言う言葉もある。明日に備えて早めの休息にするから、貴殿も夕餉の準備を手伝ってくれ」
「…………!」
嬉しさのあまり、哥刈は童の如く飛び回る。
その光景が微笑ましく、竹千夜は穏やかな眼差しで窓の隙間から顔を出す満月を見上げた。