第十話
「竹千夜様、体の具合はいかがですか?」
傷口を覆っていた手拭いを交換し、哥刈は彼の体を水で拭き、驚く。社交辞令として定型文を投げたつもりが、実物を目にすると驚愕するのも無理はない。
刀傷が一閃を描いた箇所は、未だ痛々しい跡を見せつつも、すでに瘡蓋で覆われ、くすんだ赤紫色へ変化していた。
確かに、本人が「他と比べると、傷の治りが早い方だ」と何度も口癖の如く発していたが、哥刈の予想を大きく上回る治癒力である。これも、竹取之翁が継承する性質か。もしくは、人並み外れた代謝能力を保有しているのか。
哥刈はそんなことを考えつつ、血を操る彼ら特有の個性かもしれないと胸の内へしたためた。
「まだ少し痛む……が、二日も経てば十分だ。我が儘を承知で言うならば、今は一早くでも剣を振りたい」
「傷が開く可能性があるので、もちろん許可しませんよ。どうせ、三厳様との差を少しでも埋めたいとお考えなのでしょう?」
「ぬぅ……」
見透かされた竹千夜は唸った。
説教される柴犬の如くしおらしい彼の姿を、哥刈は己が脳裏に焼き付ける。無骨な竹千夜にしては珍しい表情だ……否、三厳戦から帰還以来、能面翁を付けていないため、いつも以上に彼の表情がよく観察できるのか。
「竹千夜様の考えは理解できます。ですが、柳生 三厳は彼の柳生 宗矩の息子であり、生まれた時から武人として剣術を学んだお方。対し、竹取之翁として継承した竹千夜様は、竹売りをしながら技術を次世代に繋いできた家系。そも、修行した時間も力量差は根本から違うのです」
「……むぅ、正論を言われると返す言葉もない」
哥刈は女将から借りたお手製傷薬を、彼の刀傷へ優しく刷り込む。
傷口に染みたのか、竹千夜はしかめっ面を浮かべ、布団の横に転がる能面翁の目の穴を見た。その深淵から、先代たちの瞳が覗いている気がした。
そして、ゆっくり手を伸ばし、能面翁を被る。
「哥刈、俺は想像以上に落ち込んでいる。竹取之翁たちが歩んだ積年の想いは、柳生新陰流に敗れるのかと。俺は、先代たちに顔向けができるのかと」
「今の情けない貴方様では難しいかと。顔を覆う能面翁も、今では本心を隠すための道具へ成り下がっているように見えます」
人は正論でなく、感情で動く生き物だ。
天人の哥刈は己の使命を果たすため、身心ともに傷付く竹千夜を励ましさえしない冷徹な生き物だ────などと、竹千夜がそっぽを向こうとした瞬間。
哥刈の瞳は、落ち込む彼を叱咤するものでなく、激励するものだと気付いた。
「竹千夜様は一つ勘違いをしております」
「勘違いだと?」
能面翁の隙間から、竹千夜が顔を覗かせる。
「生まれながらの武人と正面から戦って勝てましょうか? ましてや、三厳様は【火鼠の皮衣】で無敵の加護を得ております。正々堂々倒す方法はあるのでしょうか?」
「それがわかれば簡単なのだ。三厳殿の無敵の攻略法で、俺たちは行き詰っている。攻撃だけでなく、衝撃さえ無力化する【火鼠の皮衣】を────」
そこまで口に出し、竹千夜は何か気付いた様子で彼女へ視線を移す。
互いの思惑が一致したことが嬉しかったのか、哥刈は満面の笑みを浮かべた。
「敵の言葉を借りるのは癪ですが、『勝負の世界は勝者こそ正義』なのでしょう? 視点を変えれば、無敵の攻略法は幾らでも思いつきます」
確か、がごぜ戦が終わった場面を狙って襲撃した三厳が、そのようなことを言っていた。
竹千夜は彼と交えた記憶を掘り返す。
「【火鼠の皮衣】の攻略法は二つございます。一つ目は、竹千夜様も思いついた通り────」
「三厳殿が【火鼠の皮衣】を装着しない瞬間を襲撃する……だな。風呂や女遊びでまで衣類は身に付けないだろう。そこを襲撃すればいい」
「その通りです」
「昨日の忍者に聞けば、三厳殿の居場所は容易に知ることができるだろう。ただ、そこまですれば、主を裏切った忍者の運命はどうなるか……といった懸念はある。あまり期待はできまい」
竹千夜は胡坐をかきつつ「もう一つの策は?」と促す。
すると、哥刈は声を潜め、こっそり耳打ちする。
この部屋には二人しかいないのに、わざわざそのような行為をする意味があるのだろうか。
彼女のか細くこそばゆい声音の余韻に浸りつつ、竹千夜は驚愕の表情を浮かべる。
「……確かに、それならば無敵の能力も完封できるやもしれん。しかし、かなり博打に近い。何せその作戦は血継流の性質上、最大の弱点でもある」
「逆に言えば、その課題さえ克服すれば勝機があるのです。この方法なら、正面から無敵の加護と対峙せずとも勝てると確信しております」
竹千夜は「ふむ……」と考え込む。
先刻までの塞ぎ込んだ彼と打って変わり、哥刈の眼前にいる彼の姿は、微かな希望を手繰り寄せる、とても良い表情だ。
哥刈はどこか懐かしい気分に浸りつつ、作戦の概要を説明する。
「二つ目の作戦について、すでに決戦の地を決めております。昨夜、女将から面白い話を伺っており、この作戦に適しているかと」
「準備が良いな」
「もちろんです。悔しいのは竹千夜様だけではございません。昨夜逃走した時から、私はずっと策を練っていたのですから」
竹千夜は納得した。
彼女が檄を飛ばした理由は、とても単純だった。
己が諦めていないのに、竹千夜が諦めてどうするのか、と。
哥刈の意志が伝播した竹千夜は、己を恥じた。
「では、貴殿が一晩かけて組み立てた策を────、選び抜いた決戦の地を聞かせてくれまいか」
「はい。昨夜と同じように、三厳様から名声を奪う形でおびき寄せます。そして、その舞台は────采女神社でございます」