魔界と人間界の違い
「人間に任せられる仕事など魔界にはない」
瞬間移動ではなく歩きたいと言ったエステラの希望を、ルフィナは受け入れてくれた。そして辿り着いた牧草地で魔獣に餌を与えている魔王に仕事をしたいと伝えた所、魔王はエステラの希望を無情に切り捨てた。だがエステラは怯まない。
「私は村で山羊の世話を手伝ってました」
「しかし魔獣の声は聞こえないだろう? どのように好みの餌を与えるつもりだ」
魔王の言葉にエステラは衝撃を受けた。家畜の好みなど気にした事もない。そもそも食糧事情が厳しく、人間でさえ選ぶ余地などなかったのだ。しかし魔界では人間界へと送られる魔獣でさえ、好みの食事を与えられているらしい。
「勤労不要と言ったはずだ。勇者が来るまでペットと大人しくしておけ」
言葉を返せないエステラに魔王は冷たく言い放つ。しかし彼女にはその言葉にどこか温もりを感じた。
「私が寂しいと思ってロミを?」
「それは人間界に送り出せない残念な魔獣だ」
魔王の言葉にエステラに抱かれていたロミの瞳が悲しげに揺れる。ロミの瞳はエステラには見えないが、彼女は安心させるようにロミを優しく撫でた。
「残念というのはどういう意味ですか?」
「それは偏食過ぎて使命を果たせない」
エステラの予想通り優しい理由だった。ロミに与えられていた餌は、今は魔界にしかないという彼女の知らない草。人間には毒草でしかない草だけ食べるロミを、食料として人間界に送り出すのは抵抗があったのだろう。万が一その毒で人間が死んでしまったら意味がない。しかもこの毒草は過去人間界に生殖しており、魔王が時間をかけて根絶やしにしたというのだから頭が下がる。
「それではロミと一緒に出来る仕事を下さい」
「何度言えばわかる。仕事をせず大人しくしておけ」
「じっとしているのは苦手です」
エステラは衣食住完備、勤労不要と聞いた時、とても魅力的に感じた。しかし実際には不慣れで落ち着かない。昨夜も食事の後は寝ていいと言われて喜んだのも束の間、精神的には疲れていたはずなのに全然寝付けなかった。未体験のふかふかベッドだったせいもあるかもしれない。だがそれよりも普段色々な雑用で動き回っていた時間がなかったせいだろうと彼女は判断していた。
「人間とは本当に不自由だな」
魔王は憐みの表情だが、エステラは気にならなかった。余程魔王の方が不自由である。人間の誰もが感謝をしない。むしろ魔王が魔獣を嗾けていると思っている。それでもこうして魔獣に好みの餌を与えて育て、人間界に送り出しているのだから。
「そう言えば名乗ってなかったですよね。私はエステラと言います。お名前を聞いてもいいですか?」
エステラはルフィナにしか名乗っていないが、ルフィナが名前で呼びかけているし、水晶の映像でも出てきたので魔王は名前を把握しているだろう。しかし相手の名前を教えて貰うには名乗るのが礼儀だろうと、あえて名乗った。それに対し、魔王は不審そうな視線を彼女に向ける。
「何故」
「私はあなたの部下ではないのでご主人様と呼びかけるのは違和感しかありません。しかし魔王も違う気がするのです」
最初に会った時、魔界以外の者は魔王と呼ぶと言っていた。つまり魔界ではその呼称は使わない。魔族全員がご主人様と呼んでいるのかもしれないが、エステラは人間なので倣う必要はないはずだ。人質に名乗る名などないと言われればそれまでだが、出来れば名前で呼びたかった。
「バルドゥイノだ」
魔王は吐き捨てるように名乗る。見た目通りの厳つい名前だとエステラは思った。同時に呼び難いとも思う。
「イノ様と呼んでもいいですか?」
「何故後ろを切り取る」
「呼びやすいので」
エステラはにっこりと微笑んだ。正直魔王に名前があるかどうかは賭けだった。生まれてすぐに魔界へ放り込まれたのなら、名前を付けてもらえなかった可能性もある。しかしすぐに名乗ったのだから両親のどちらかから名前は与えられていたのだ。だがそれだと愛称で呼ばれていた可能性もある。バルだと被ると判断し、あえて彼女はイノと呼ぼうと決めた。
「好きにしろ」
「それではイノ様、お仕事を下さい」
バルドゥイノはわざとらしく溜息を吐いた。しかしエステラは怯まず微笑んでいる。彼女は自分が面倒くさい事を言っていると重々承知しているのだ。それでも言わずにはいられなかった。
「仕事なら自分で探せ。ルフィナ、彼女に魔界の案内をしろ」
「畏まりました」
バルドゥイノの言葉にルフィナが一礼をして答える。エステラもルフィナを真似て一礼をした。ロミも慌てて頭を下げて同じように振舞う。バルドゥイノは話が済んだとばかりに、目の前の魔獣へと視線を向けた。
「歩いて移動しますか?」
「距離感がわからないから任せる」
エステラに魔界の広さなどわからない。今いる牧草地が仮住まいしている建物の隣にあるのは歩いてわかったが、流石に暮らしていた村よりは大きいだろう。
「それでは歩きましょう」
ルフィナの提案にエステラは頷く。ロミがもぞもぞと動いたので、エステラはロミを地面にゆっくりとおろした。どうやらロミも歩きたかったらしい。
「エステラ様は王都に行かれた事はありますか?」
「王都って都の事? 私は村から一歩も出てないよ」
たまにくる行商人が都の話もしていたが、エステラは興味がなくてほとんど聞いていない。一生縁のない場所に憧れるだけ無駄だと思っていたのだ。
「都は多分エステラ様が暮らしていた村の領主がいる都市ではないですか? 国王が暮らしている都市が王都ですよ」
エステラの暮らしていた山間の村は辺鄙な場所にある。魔獣も多く出現するので、わざわざやってくる者など行商人と領主の使いしかいない。毎年徴税しに来る領主の使いが何度魔獣に襲われ諦めて帰れと思ったかわからない。しかし何故か毎年襲われずに現れて、農作物など根こそぎ持っていくのだ。
「領主も神の恩恵を受けているから魔獣に襲われないの?」
「五王国の国王は神の子の祝福が与えられていますから、その恩恵に与っているならば襲われないでしょうね」
魔獣が人間界で人間を襲うのは、魔力が聖なる力によって狂気へと変換されてしまうから。しかし聖なる力の影響を受けている相手は襲わない仕組みなのだとルフィナは説明をする。
「襲われないなら彼等が自分で育てればいいのに」
「人間界のその仕組みは私も好きではありません。神の恩恵を受けた者だけ偉そうにするなんて。魔界の王であるご主人様はご自身の魔力で魔界を明るくされたり、魔獣を育てたりされていて、搾取などはしません」
搾取と言われてエステラは考える。領主が徴税するのは当然だった。しかし領主はその代わりに何をしてくれただろう。魔獣から守ってはくれなかった。だからこそセルヒオが退治していたのだ。徴税とは一体何なのだろう。
「もしかするとご主人様は、人間界と魔界の違いをエステラ様に見て欲しいのかもしれません」
「私に?」
「本来の世界はこうあるべきだと。勿論、私達には魔力があるので、人間には真似出来ない部分もありますけれど、持ちつ持たれつが正しいと思うのです」
ルフィナの言葉にエステラは頷いた。村の中では持ちつ持たれつが当然だ。しかし領主との関係は違う。一体何の為に領主は存在し、国王がいるのだろうか。エステラは国王がどのような人物かさえ知らない。領主でさえ顔も知らないのだ。
「それでは魔界の都にご案内致します。きっと物珍しい物ばかりですよ」
ルフィナは笑顔でそう言うとエステラの手を握った。相変わらず冷たい手に慣れる事はないが、転移を察したロミが飛びあがったのでエステラは慌てて受け止める。そして二人と一羽は瞬間移動をした。