衣食住完備 勤労不要
一瞬でエステラとルフィナは建物の外に瞬間移動した。エステラの視界一面に牧草地が広がる。それぞれの魔獣ごとに柵で囲われているようだが、どの囲いも広い。
エステラは牧場の中で猪のような魔獣を慈しんでいる男性を怪訝な表情で見つめる。先程は暗かったので人違いの可能性もあるが、彼女には謁見した魔王にしか見えない。
「ご主人様、こちらにいらしていたのですか」
ルフィナが魔王に駆け寄って声を掛けた。エステラは魔王という立場を考え始める。玉座にふんぞり返り手下を顎で使っているのではないかと勝手に思っていた。しかし猪のような魔獣に餌を与えている男性は、乳牛の世話をしている村の人々と同じにしか見えない。
「勇者に備えないといけないからな」
「そうですね」
二人の会話を聞いて、エステラはここへ来る前のルフィナの言葉を思い出していた。勇者一行に対しては魔獣を襲わせるのだから、あの猪のような魔獣もセルヒオを襲うかもしれない。目の前にいる魔獣は今まで食糧として狩られてきたどの魔獣よりも大きく見えた。セルヒオが手にしていた勇者の剣は確かに立派ではあったが、無傷のまま魔獣を倒せるとは思えない。手当が面倒だ、と思った所で彼女はハッとする。
どれくらいここに来てから時間が経過しているかはわからないが、セルヒオとリタは魔王退治の旅に出ただろう。今後セルヒオが怪我をしても、リタが治癒魔法を使って治すはずだ。伝承によれば、聖女の力は素晴らしく命さえあればどのような傷でも一瞬で治せるという。包帯を巻く必要もない。エステラはその現実にせいせいするはずだったのだが、何故か寂しかった。
「エステラ様?」
「ルフィナ。ここはどういう場所なのか、きちんと話はしたのか」
「長い説明を聞きたくないと言われましたので、牧場で魔獣を見てもらおうと飛んできました」
ルフィナの呼びかけも、魔王との会話もエステラの耳には届かない。彼女は村に帰った所でどう生きていけばいいのか真剣に悩んでいた。セルヒオが勇者となった今、彼はリタと結婚をする。年の近い独身男性は村にはいない。彼女は多少治療の覚えがあるが、生計を立てられる程ではなかった。
「難しい話をしようとするから断られるのだろう。衣食住完備、勤労不要とだけ言えばいい」
「流石ご主人様。人心掌握が上手いですね」
衣食住完備、勤労不要という言葉をエステラの耳が受け止める。将来の不安を払拭するのにこれほど魅力的な言葉があるだろうか。結婚云々は一旦置いておき、今の条件で魔界に留まりながら未来について考えてもいい。彼女は魔王に返事をしようとして、別の懸念が頭を過る。衣食住完備状態で悩んでいる間に村が滅びては意味がない。
「セルヒオがいないと村が魔獣に襲われてしまいます。それは困ります」
エステラは流石に敬語を使うべきだろうと言葉遣いは改めたものの、はっきり自己主張した。到底自分が敵う相手ではないが、大人しく人質になる気はない。
「天候は我の力ではどうにも出来ないが、魔獣の弱体化はしておこう」
「弱体化ではなく消して欲しいと言ってるのですが」
「それでは飢える」
また飢えの話かとエステラが嫌そうな顔をすると、急に魔王が指を鳴らした。瞬時に彼女の目の前に魔獣が現れる。それは彼女も見覚えのある兎に似た魔獣だ。そしてセルヒオが退治した中で一番美味しい魔獣である。
「このような弱い物だけ適時配置する。弱体化しても栄養素はそのままだから安心するといい」
栄養素とは何の話だとエステラが文句を言おうとすると、兎に似た魔獣が彼女の方へと歩み寄ってきた。よく見るとつぶらな瞳が可愛い。兎は長い耳がピンと伸びているが、この魔獣の耳は地面に着くほど垂れ下がっている。そのせいか彼女は普通の兎よりも可愛く感じていた。それでも魔獣である以上、襲われるのではないかという恐怖は消えない。
「ここにいる魔獣は襲い掛からない。触りたいなら触るといい」
魔王の声色は優しかった。兎に似た魔獣も一定の距離で止まりエステラを見つめている。魔王が先程餌をあげていた魔獣も大人しくしている。彼女は襲ってくる気配がないと判断し、兎に似た魔獣に近付いて屈むとそっと背を撫でた。
「ペットにしたかったらするといい。言葉も必要なら話せるようにしてやろう」
「話せる?」
エステラが驚いたように聞き返すと、魔王は冷静な顔のまま指を鳴らした。
『もっと撫でて』
鳴き声なのか人間と同じ言葉なのか、エステラには理解出来ない。しかし目の前の魔獣が発した声を彼女は認識した。彼女は乞われるまま背を撫でると、魔獣は気持ちよさそうな表情を浮かべる。毛並みがふかふかで彼女も気持ちがいい。
『名前を決めて欲しいな』
魔獣はエステラに向かってそう言った。彼女は考える。兎に似ているだけで兎ではないのでウサは良くないだろう。たれ耳が可愛くて真っ白なのでシロミミ。もしくは兎もどきだから。
「ギモちゃん」
エステラの言葉に魔獣は嫌そうな顔をした。魔獣なのにこれ程表情で感情がわかるのは凄いと感心しつつ、彼女は違う候補を口にする。
「ロミちゃんは?」
『ロミがいい』
名前を選りすぐるなんて魔獣は賢いな、と思ったもののエステラは考え直す。兎もどきを略したギモと、シロミミを略したロミなら大差はない。音の響きに差はあるが賢さとは関係なさそうな気がした。
それよりも人懐っこいペットを受け取ってしまったら、ここでの生活が確定してしまうのではないかという不安がエステラを襲う。彼女はここに永住する気はない。その気配を魔王は察したように口を開く。
「村で暮らすより、ここの方がゆっくり出来る。戻るかどうかは少し過ごしてみてから考えてもいいと思うが」
『ロミを置いていかないで』
ロミがつぶらな瞳でエステラを見つめる。名前を付けただけなのに、エステラは少し愛着がわき始めていた。先程ルフィナが言っていたように魔王は人心掌握が上手なのかもしれないと思いながら、エステラは必死にいい訳を探す。
「両親が心配してると思うから帰らないと」
「勇者の人質として預かったと連絡してあるから安心していい」
「それなら安心――ってならないですよ?!」
エステラのつっこみに、魔王だけでなくルフィナもロミも驚きの表情を浮かべた。