『邪神』
俺とレグルスは、立ち尽くす。
怪物を超越したそれは、尋常ならざる威容で、俺たちを見下ろす。
『これが……、あやつの言っておった、邪神なのか……』
ヒル子の言葉で、ノーデンスの話を思い出す。
神話世界を蹂躙し、神々ですら滅ぼした邪神。
今まで戦ってきた怪物ですら、まるで子供みたいに見える。
「こんなの、勝てるわけ……」
俺の口から無意識に弱音が出たのを悟ったかのように
「ふむ。 さっきまでの威勢はどこにいったのかい? かかってこないのかね? 」
馬鹿にしたように言うメッセンジャーに対し
「はっ。うるせえ」
と俺は言い返すも、剣を構えたまま、動けない。
恐れなんて、なくなった。
それ以上の怒りが、俺を突き動かしていた。
そのはずなのに。
全身の震えが止まらない。
「動け……動きやがれえ! 」
俺は叫ぶも、何かが、俺の脚は地面に縫い付けられたように動けない。
邪神は、微動だにせず、その威容で持ってただ、俺を見下ろす。
『太陽……』
「なんだよ、ヒル子。今はそれどころじゃ」
『逃げるのじゃ』
ヒル子の口から漏れ出た言葉に、衝撃を受ける。
「おいおい、らしくねえだろヒル子……」
『わかるのじゃ……あれは、まともに戦ってよいものではない』
「だから、逃げろって?! 」
俺は激昂する。
あの人を、莉々朱さんを目の前で殺されて、
仇も取ることもできず、ただ逃げるだなんて。
「んなこと、できるわけねえだろうがっ! 」
何とか動こうとしたその時、
「ふむ。かかってこないのなら」
メッセンジャーが呟く。
「こちらから行きましょうか」
メッセンジャーが大きく笑みを浮かべる。
背筋が凍り付き、全身の毛が総毛立ち、警告を発する。
邪神が、全身を震わせ、天に向かって咆哮する。
聞くもの全ての精神を崩壊させるような咆哮が、兜を貫通し、侵入してくる。
完全に身動きが取れなくなる。まるで全神経が凍り付いたかのように。
『太陽! どうしたんじゃ、太陽! 』
ヒル子の声に反応しようにも、声帯が動かず、声を発することもできない。
邪神の背中から飛び出た丸太のような触腕が、俺目掛けて放たれる。
『太陽、早く逃げ』
腹が抉れるような衝撃を受け、気づけば俺は空中を飛んでいた。
吹き飛ばされ、サッカーボールのように地面を何度もバウンドする。
衝撃と痛みで何とか体の自由を取り戻した俺は飛ばされながらも、剣を突き刺し、抉りながら膝を着き体勢を立て直す。
『太陽! 』
「くっそ、があ……」
俺は立ち上がるも、電撃のように痛みが全身を走り、思わずよろける。
レグルスが唸りながら、俺の横に走ってくる。
『また来るのじゃ、太陽! 』
「っつ、レグルスっ! 」
レグルスと俺は咄嗟に左右に飛んで避ける。
轟音と共に、触腕が地面に巨大な穴を穿つ。
俺は転がりながら、起き上がる。
邪神は腕一本を動かすことなく、背部の触腕を自由自在に動かし、俺たちを追い詰めていく。
「レグルス、同時に行くぞ! 」
『無茶だ、馬鹿者! 不用意に近づくでない! 』
ヒル子の言葉を無視した俺とレグルスは、邪神の両側面に回り、俺は剣を、レグルスはその爪を振りかぶり、突撃する。
邪神の背中から再び触腕が乱れ飛んでくる。
俺とレグルスはそれを躱しつつ、加速し、懐まで一気に飛び込む。
「貰ったあ! 」
俺は邪神の無防備な腹部めがけて剣を振り下ろすも、全身に衝撃が走り、振り下ろしたはずの剣が俺の頭の上に跳ね返される。
「はっ? 」
攻撃を仕掛けた邪神の腹部、それに黒と紫が入り混じった半透明の壁が張られている。
反対側では、突撃したレグルスの爪も同じように弾かれ、レグルスの胴体に触腕が巻き付き、上空に持ち上げられ、地面に叩きつけられる。
「レグルス! 」
地面に着地した俺は、レグルスを助けるため、邪神の気を逸らそうともう一度腹部めがけて切りかかるが、腹部に辿り着く前に再び半透明の壁に遮られる。
「っそが! 何なんだ一体!? 」
『太陽、避けるのじゃ! 』
頭上から振ってくる巨大な触腕を避けるべく、咄嗟に背後に大きく飛ぶ。
レグルスが触腕に投げ飛ばされ、地面に鈍い音を立てて落下する。
俺は慌ててレグルスに駆け寄る。
「レグルス! しっかりしろ、レグルス! 」
俺は呼びかけるも、レグルスは成体から子供姿に縮み、弱り果てた声で唸る。
「てめえ……よくもっ! 」
俺は何度も邪神に突撃を繰り返すが、そのたびに俺の剣と邪神の間に壁が現れ、俺の攻撃が阻まれる。
『太陽! 無謀じゃ! このままじゃやられてしまうのじゃ!? 』
「だけど、やるしかねえだろうが! 」
さっきまでの怪物ですら、再生しようが攻撃は通った。
だけど、一撃も攻撃が通ることのないその現実に、俺の心はかつてないほどの絶望で埋め尽くされそうになる。
「ありゃ。少し強くし過ぎたかな。バランス調整は難しいねえ」
と、樹上で足をぶらつかせながらメッセンジャーが嗤う。
その如何にも余裕そうな態度に、俺は激怒する。
「ふざっけんじゃ、ねえぞおらああああああああああ! 」
俺は突撃を止め、後ろに思いっきり飛び跳ね、邪神との距離を取る。
『太陽、何をするつもりじゃ!? 』
「ちまちまやっても通らないってんなら、一気に片付けるまでだ! 」
俺は体を前傾姿勢にし、力を脚に溜める。
「ほほう。見せてもらおうじゃないか、君の必殺の一撃とやらを」
「見せてやるよぉおおおおおおおおおおおおお! 」
俺はクラウチングスタートの体勢から、地面を砕き、邪神めがけて駆ける。
音を切り裂き、一気にトップスピードに加速する。
邪神が俺目掛けて、何十本もの触腕を飛ばしてくる。
それらが目の前まで迫ってきた瞬間、俺は右足で全力で踏ん張り、地面を、真上に飛び上がる。
周囲の木々を突き抜け、黄金樹の天辺まで飛び、そして両腕で剣を高く掲げる。
初めての怪物との戦いで、繰り出した。
あの必殺の一撃を。
「喰らいやがれぇえええええええええええええええええええ」
落下しながら、邪神の頭目掛けて、一気に剣を振り下ろす。
紋章が浮かび上がり、真紅に輝く剣は、飛んできた触腕を次々と切断しながら、怪物の頭上まで近づいていく。
「これでっ! 」
俺はそのまま頭部に必殺の一撃を決めれる、そう思ったその時
邪神の頭部から生える巨大な触尾がひび割れ、根元から先端にかけて一気に変色していく。
まるで、血塗られた舌のように。
先端に至るまで鮮血の色に染まりきると、邪神が上体を一気に逸らす。
頭部の職尾が、鞭のように俺に迫る。
剣と触尾が激突する。
空中で滞空しながら、振り下ろした剣と触尾が鍔迫り合いをする。
まるで、竜の尻尾のようなその触尾の圧力に、弾き飛ばされそうになる。
「こんなもんでえええええええええええええええええええええ」
紋章が閃光を放ち、刀身が震える。
拮抗していた剣と触尾の競り合いが、少しずつ、ほんの僅かだが剣が押しかえし始める。
『このまま一気に! 』
ヒル子と声を合わせ、叫ぶ。
『いくのじゃあああああああああああああああ』
「いっけえええええええええええええええええ」
そのまま押し込める、そう思った瞬間。
邪神の顔面に広がった虚無の穴が、俺を見る。
邪神が、嗤った。
虚無の底、ブラックホールの如き穴の中心で、暗黒が急速に形成されていく。
『いかん、太陽! 逃げるのじゃあああああああああ』
ヒル子が最大級の警告を発した瞬間
球体となったそれが大砲のように俺目掛けて放たれる。
邪神が頭部の触尾の圧力を緩め、一気に引き戻すと、力のやり場がなくなった剣が空振りする。
上空で剣をもったまま無防備になった俺は、目の前に飛来したそれを避けることもできず、全身を襲う衝撃と痛みに、意識が途切れる。
『太陽、太陽! 目を覚ますのじゃ、太陽!』
全身がバラバラになったかのように痛む。
「ヒル子……」
俺は地面に仰向けに倒れていた。
息も絶え絶えにヒル子に尋ねる。
「一体、何が……」
『覚えておらぬのか。お主の剣がもう少しであの邪神の頭に届く寸前で、邪神の頭部の穴から真っ黒い球が放たれて、お主は吹き飛ばされたのじゃ……』
俺は何とか起き上がろうとするも、全身を走る痛みに叫び声を上げる。
体を見ると、全身の鎧の殆どが砕かれていた。
その体を覆っていた俺の力のよりどころとなっていた白銀の鎧は、頭、腕、脚の僅かな部分を除き、殆どが砕け散っていた。
荒い息をはきながら、俺は傍らに倒れていた剣を杖にして、ぼろぼろの身体を何と立たせる。
そんな俺を前に、メッセンジャーは大げさに拍手をし、至極残念そうな顔をして見下ろす
「少し残念だよ、太陽君。もしかしたら、君ならば、乗り越えられると思ったのだがねえ。君の力はここまでかな? 」
俺はふらつきながら、痛みだけで、何とか意識を保っていた。
「ふむ、もはや意識すらどこかに飛んで行ってしまったようだ。まあいい、むしろ君はよくやったよ。僅か短時間でここまで強くなるとは。これは並の人間ではできることではない! 」
何とか立っていたが、限界を迎えた足は遂に折れ、両膝が地面につき、前のめりに顔から倒れる。
「だが、元から勝てる見込みなんてなかったのだよ。君がいくら頑張ろうとね。なぜだかわかるかい? 」
俺は意識が何度か飛びそうになりながらも、地面を掻き、立ち上がろうとする。
「君が先ほど倒しかけていた怪物とこれでは、絶対的な差があるのだ」
立ち上がることを諦めた俺は、うつ伏せで顔だけあげながら、メッセンジャーの声を聞く。
「この私の血を注いだことにより、これは、私の分身、謂わば化身になったといっても過言ではない。いくら君が人の身を遥かに超える守護者としての力を持っていようと、こいつを倒すことはできない。神たるこの私を倒すことができないように」
段々と、声が遠くなっていく。
「諦めたまえ。チェックメイトだ」
その言葉で、俺は自分が負けたことを、思い知らされ、力が抜けていく。
「元より、障害は君だけだった。あの老いぼれは封印で手一杯でそれどころではない。その他の脆弱な神々は我々の手にかかってもはや消滅寸前。我々に比肩しうるあの世界を砕く女神でさえも、この異界には干渉することはできない」
メッセンジャーが不自然な程大仰に笑みを浮かべる。
「それじゃあ。これを破ってみようか」
とメッセンジャーがエルピスを指さし、まるでなんでもない事のように言い放つ。
邪神の触腕が、樹上で吊るされたエルピスに近づいていく。
「さあ。これが我らにとっての、パンドラの甕の底の希望……否、福音になりうるかどうか、試してみようじゃないか」
限界が近づいていた。
俺の意識は、いまにも体を離れどこか遠くに彷徨いかけていた。
邪神が吊るされたエルピスに段々と近づいていく様子が、ぼやけて見える。
『太陽! 眼を閉じてはならぬ! このままでは、あの娘も、エルピスも殺されてしまうのじゃ!? 』
ヒル子の言葉で、俺は閉じかけていた目を何とか開ける。
唯一僅かに残った兜越しに、俺は視線を吊るされたエルピスに向ける。
エルピスが、俺を見ている。
エルピスの瞳と焦点が合い、思わず俺は息を呑む。
エルピスの瞳の奥に光は無く、どこまでも深い闇黒が、俺を覗き込んでいた。




