『苺のショートケーキ』
その男が横断歩道を渡り去っていくのを一瞬呆然と見送っていたが、俺は無性に腹が立ち、駆け出す。
「てめえ、待ちやがれ! 」
『いかん!? 止まるのじゃ太陽!』
俺が追いかけようと前に出た瞬間、横からクラクションが鳴らされ、つま先で踏ん張って止まり、慌てて身体を後ろに反らした俺は尻餅をつく。
俺の目の前の横断歩道を、人をひき殺すほどのものすごい勢いでトラックが横切っていく。
トラックが通りすぎるのを待って立ち上がったときには、男の姿はどこにも見えない。
何事もなかったかのように、横断歩道を本屋から出てきた買い物客や家族連れが行き交う。
白昼夢でも見ていたのか、俺は。
いいや、そんなわけねえ。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
俺は地団太を踏む。
あの男を逃がすべきじゃなかった。問い詰めるべきだった。
怖気づいた俺自身に心底腹が立つ。
『太陽。追わない方がよかったのじゃ。あやつに感じた気配、人間とは思えん。あのまま追っていたら、やられておったかもしれぬ』
「ああ。わかってる」
あの男が去ってから、今まで感じていた全身の悪寒が消え去り、急に暑さと同時に現実に戻って来たような感覚を覚える。
昼間の猛暑は過ぎ去り、空の色も赤くなっていく。
残照を背に感じながら、あの男が言った言葉が脳裏を渦巻いている。
「あれは……脅し、だよな」
『そうとしか思えぬ。が、あまり考えすぎるでない』
「考えすぎるなっつってもよ」
戦いから手を引け、でないと死ぬなんて、ドラマや映画で聞き飽きた程の言葉だった。
だが、怪物との命懸けの戦いをしたばかりの俺にとって、その言葉は現実の重みとなって、のしかかってくる。
胸を錐でゆっくりと刺されるような痛み、地面に足が沈み込みそうな深い重しを両肩に感じはじめたその時、レグルスが足元で唸り、俺の脚を叩く。
『うむ! 今はあやつのことは置いて、エルピスに会いに行くのじゃ! 渡すものがあるのじゃろ! 』
「あ、ああ。そうだな」
俺は手に握っていた箱をリュックに詰めると、青になった横断歩道を渡り、向いの本屋の駐輪場に止めていたママチャリに乗り込むと、レグルスも前の籠に飛び乗る。
本屋を飛び出し、急いで町に戻る。
橋を駆け上がりながらも、男に言われたことが脳内で反芻される。
『これ以上深入りをすれば、必ず君は後悔することになる』
橋を渡りきった俺は町に戻り、象さん公園に辿り着くと、自転車を立てかけ、かごから降りたレグルスと共に公園の中を歩く。
公園のいたる所に、破壊の後が未だ生々しく残っていた。
抉れた地面のタイルに、崩れたジャングルジム。
それらの周囲には黄色いテープが張られ、近づけないようになっていた。
いつもだったら、子供たちの騒がしい声が聞こえる公園は静かで、蝉の鳴き声だけが響き渡っていた。
怪物との戦い、感じた恐怖が脳内で蘇る。
俺は腹の中に重い石を抱えながら、頭に浮かんだ幻想を首を振って振り払い、公園を歩く。
俺は公園の中心にある噴水前に立つと、一応周囲に人がいないかを確認する。
俺は左肘を曲げ、イマジナイトに右手で触れ、頭の中でエルピスのいる黄金樹を想い描く。するとイマジナイトがゆっくりと光出す。その光に同調するかのように、目の前の何もない空間に亀裂が入り、大きな渦が現れる。
レグルスが俺を見て唸る。
「おう。そんじゃあ、エルピスに会いに行くとすっか」
俺とレグルスは一緒に渦の中に飛び込む。
渦の中で毎度の如く、俺は攪拌され、深い森に放り出される。
頭をふらつかせながらなんとか立ち上がる。
俺は渦を抜けるたびに感じる、内臓がよじれる感覚に眉をしかめる。レグルスが俺の前を歩いて先導する。
鬱蒼とした森を抜け、木のトンネルを通り再び黄金樹の森の広間に辿り着く。
「さあて、エルピスは」
俺が探そうとすると、レグルスが走り出す。
俺がレグルスを目で追うと、黄金樹の巨大な幹、その裏からエルピスが顔を出す。
レグルスがエルピスの足をくるくる回ると、エルピスは屈んでレグルスを両手で抱え抱きしめる。
「よお」
俺は手を上げると、エルピスは足元でじゃれるレグルスをなでつつ、俺を見上げる。
「よっと」
俺は黄金樹の下の芝生に座ると、背負っていたリュックを降ろして鞄を開ける。紙の箱を取り出し脇に置き、その下からある物を取り出す。
「これはレグルスに」
とサッカーボールを放ると、レグルスは夢中になって飛びつく。
「まあ俺の中学時代のお古だけど」
と言いかけるが、早速遊びまわるレグルスはボールを無我夢中で追いかけ、ボールを全身で掴むと一緒に転げまわっていた。
「ま、いいか。エルピス」
俺はエルピスを手招きすると、エルピスが俺の前にちょこんと座る。
紙の箱を渡すと、エルピスは手を伸ばしてそれをそっと受け取ったままこっちを見る。
「ん、すまん。わけわかんねえよな」
俺は箱をエルピスからもらうと、芝生に箱を置き、手提げ部分のシールをはがし、箱を開ける。
エルピスが俺の一挙手一投足を見守っている中、
「苺のショートケーキだぜ! 」
と言うと、エルピスは箱を覗き込む。
苺のショートケーキが一個箱の中にあったが、横に倒れていた。
「あっ。やっべ、倒れてやがる」
俺は入ってたフォークでそっと倒れていたケーキを元に縦に戻す。
初めてケーキを見るであろうエルピスは、何なのかわからないが興味を示しているようで、首を振りつつ、色んな角度から箱の中のケーキを見ていた。
エルピスは眼を見開いてケーキをじっと見てから、俺の目を見る。
「しまった、皿もねえ! 」
俺は自分の迂闊さを呪い、開いた箱の端を折って、何とか皿に見立ててエルピスの前に持っていく。
フォークをエルピスに渡し、エルピスはそれをそっと受け取るも、固まってしまう。
『おい、太陽よ。さっきからずるいのじゃ! 我も食べたいのじゃが! 』
「残念ながら1個しかねえよ。ってかおめえは体ないからそもそも食べれないだろうが」
と言うとヒル子が憤慨し叫ぶのを無視する。
エルピスに簡単に手振りでフォークをケーキに刺して切り取る動きを教えると、エルピスはそおっとフォークをケーキに刺して切る。
そしてフォークの先に刺したケーキを顔の前まで持ってきて、俺を見る。
俺が頷き、エルピスは小さな口を開き、ケーキを口に入れると、固まってしまう。
5秒、10秒……。
流石に口に合わなかったかと少し心配になったころ、エルピスが俺に顔を向ける。
表情はいつもの無表情のエルピスだったが、驚いているように見える。俺を見るその眼がいつもより若干大きく開いている。
中々反応は悪くなさそうだ。
「どうだ? まあちと崩れちまったが、甘くて美味しいだろ?」
「あまい? おいしい? 」
「ああ。口の中が、なんというか、ほくほくする感じというか、幸せで、嬉しくなるというか、」
美味しいという感覚自体が初めてなのか、エルピスは頬に手を当てて、小首をかしげる。
「あまい……おいしい……」
「そうだぜ。めちゃうめえってやつだ!」
俺が親指を上げサムズアップすると
「めちゃ? うめえ? 」
エルピスは不思議そうに聞き返す。
『何言うとるんじゃ、お主は』
とヒル子が呆れたように言う。
「ま、まあ。俺のことは気にしなくていいからよ。ほら、遠慮せず食べな」
エルピスはもう一度フォークをケーキに刺して無言で食べ続ける。フォークに刺したケーキを口に入れては、また目を大きくしていた。
噛みしめるようにケーキを味わって食べているエルピスの様子を見て、俺は嬉しくなる。
俺は芝生に寝転がるとヒル子が話しかけてくる。
『よかったのう、太陽。喜んでいるみたいじゃ! 』
「ああ。そうだな……。なあ、ヒル子」
『ん、何じゃ』
「あの男が言っていたこと、どう思う? 」
『お主はどう思うのじゃ』
聞き返された俺は一瞬考えるも
「俺は何にもこの子についてわかってねえのかもしれねえ。このまま深入りしたら、まじで危ないかもしれねえ。だけどよ、俺は……」
横目で、美味しそうにケーキを食べているエルピスを見る。
「この子を見殺しになんか、したくねえ」
『なら、それでよいのじゃ! 大事なのはあいつが言ったことではなく、お主がどう思っているか、何をしたいか。そうじゃろ? 』
「ああ」
『エルピスについて詳しい話は、ノーデンスに聞けばよかろう。というより、あやつは一体今どこにいるのじゃ! これだけ太陽が命を張って戦っているというのに! 』
ヒル子が憤慨しているのを聞いて、俺は苦笑しつつもヒル子の言葉にどこか救われた感じがする。
大事なのは、俺がどう思うか、か。
俺は巨大な黄金樹の下、芝生の心地よさに眠気を感じ、目をつむる。
ヒル子の言う通りだ。
詳しいことは、ノーデンスに聞けばいい。
俺は、今、俺ができることを……。
どれくらい寝ていたのか、空腹感で俺は目が覚め、起き上がる。
エルピスはレグルスを抱きながら、樹の根元でうとうとしていた。
箱を見ると、ケーキはきれいになくなっていた。
俺はエルピスを起こさないようにゆっくり立ち上がり、リュックにケーキの箱を詰める。
「おやすみ、また来っからな」
と去ろうとしたその時、
「たい、よう……」
と小さな声でエルピスが呟く。
俺はエルピスの頭をそっと撫でる。
黄金樹の広間から出た俺は、木のトンネルを抜け、暗い森から門を潜り抜け、静寂に包まれた公園に戻る。
腕時計を見ると、とっくに八時を過ぎていた。
「もうこんな時間か……」
俺は夜空を見上げると、雲一つない空に満月が浮かんでいた
満月にあまりいい思い出はない。
そういえば、昨日も怪物と遭遇したあの夜も満月だったような。
そんな物思いに耽っていると
「貴様、こんなところで何をしている! 」
背後から鋭い声で呼びかけられ、俺は驚き振り返る。
淡い月明かりの中、白い制服のようなものを着た細身の男が、俺をライトで照らしていた。
眩しさに一瞬目をやられるが、俺はその男のどこか聞き覚えのある声で懐かしさを感じる。
「もしかして……太陽か? 」
驚く男の顔を見て、記憶が蘇る。
「お前は……夕夜か! 」




