第9話 SSRウエディングモモカ
サロンの三階にあるチャペルは、洋画で見るカトリック教会のように重厚で美しい内装だった。
――ここで結婚式を挙げたら、女の子はみんな舞い上がっちゃいそうだな。エリカがこのヴァージンロードを歩くと思って、気を引き締めていこ。
男性スタッフが、父親の代わりに萌々花の手を取る。並んで一歩一歩、ゆっくりと祭壇の前まで進む。そこで待つ藤倉に萌々花の手を渡し、男性スタッフが去る。神父がにこにこと迎えてくれ、誓いの言葉を読み上げる。
「一臣、あなたは萌々花を生涯愛することを誓いますか」
――ああ、そっか。藤倉さんは一臣っていうんだっけ。ここまで本格的にやらなくてもいいのにさ。
「はい、誓います」
藤倉のきっぱりした答えに、席に着いているスタッフが溜め息をもらした。ヴェールの下で俯いている萌々花も、その声に心臓がきゅっと縮んだような気がした。そして、ドキドキと急激に早く脈打っている。
――やだやだ、次はあたしの番じゃん! 誓いますって言わなきゃまずいよね? どうしよう、どうしよう……!
萌々花は急にオロオロしだした。漫画の取材とはいえ、こんなことになるとはまったく思っていなかったのだ。
お父さんもニセモノで、新郎もニセモノで、あたしだってニセモノだよ。どうすればいいの? 彩ちゃん、たすけて。河村さん、助けて!
「萌々花? どうしましたか? 誓いますか?」
ノリが悪く、つまらない女だと思われているのかもしれない。せっかくこんなに綺麗にメイクをしてもらい、ドレスまで着せてもらったのに、漫画家本人である萌々花がウジウジしていては気持ちの良い仕事ができないと、萌々花は決心した。
「はい。誓います」
「グゥッ」
神父が笑って親指を立てる。そうだ、これは取材。エリカが最高に美しく輝く日を、あたしが先に疑似体験しているのだと、萌々花も幸せそうに微笑んだ。
指輪の交換、そして誓いのキスは、どうしても無理だと言う萌々花に負け、省くことにした。小休止の後、いよいよこの日の目的である、ブーケトスの体験だ。
チャペルの外、二十段ほどの階段の下には、アルバイトも含めたスタッフが大勢待っていてくれた。係の人がチャペルの扉を、内側から外に向けて大きく開く。
「おめでとう!」
「おめでとうございます!」
「おしあわせに!」
祝福の声があちこちから上がり、萌々花は驚いた。取材でお邪魔したブライダルサロンで、こんなに本物っぽい演出をしてもらえるとは思ってもみなかったのだ。
ビスチェのドレスで外気は少し肌寒かったが、藤倉の腕にからめた指先が熱くなる。扉を出た踊り場に立ち、写真を撮られる。
階段を数段降りたところで、藤倉の二段下に萌々花が立つように言われた。この段差があれば、身長差が目立たない。それどころか、背筋を伸ばして姿勢の良い藤倉が、いつもより大きく見えた。
ブリクサに抱きかかえられた妄想ではなく、本物の藤倉を初めて見上げる格好になった萌々花は、その顔を下から見つめて思う。
――くそぅ、かっこいいじゃねえか……。
「こちらにお顔をください! はい、幸せそうな笑顔でお願いします」
カメラマンが手を挙げて叫ぶ。ふたりとも正面を向いて、たった今結婚式を挙げた新婚夫婦のように写真に納まる。藤倉はどんな顔で立っているのだろう、と萌々花はふと気になったが、カメラマンの方を向いたままなので、その表情は見えない。笑っているのか、それとも、いつもの不機嫌寄りの無表情なのか……。
パシャパシャと焚かれるストロボを受けながら、萌々花は藤倉のことばかり考えていた。
「では、これで最後です。今日いちばんのいい笑顔でお願いします!」
パシャッとひときわ大きな音をたて、カメラは萌々花と藤倉の一瞬を切り取っていった。
仕事場に入ってくるなり、彩が早口で言う。
「先生! 昨日はすみませんでした。で、どうでした?」
「どうでした、じゃないよもう! 彩ちゃんひどいよ!」
ふざけて彩をぽかすか殴りながら、萌々花は恥ずかしそうに昨日の写真をデスクのトレイから出した。撮影のあと、その場でプリントしてもらったものだ。
民生機のプリンタと違い、フィルムで撮った写真のように美しいプリントに仕上がっている。
「いや~ん、先生、すっごくお似合いですよぅ!」
彩は頬を両手で包んでモジモジしている。
「なわけないじゃん! 担当って言っても藤倉さんがヤなヤツなことは変わらないんだからね!」
カップルとして藤倉と「お似合い」だと言われたのだと思い、萌々花は慌てて否定する。
「いえ、ブリクサのことじゃなくて……ドレスが似合ってますって言いたかったんですけど……」
彩に言われ、萌々花はさーっと血の気が引く音を聞いたような気がした。そして自分が勘違いをしたとわかると、ぼんっと音がするほど急激に顔を真っ赤に染める。
――やだもう、熱い。熱い。顔が熱いよぅ。
彩と竜樹に背を向け、顔から熱が引くのを待っていると、竜樹がまたよけいなことを言う。
「いや、俺らアシなんで……」
「え、だからなに?」
「ドレスは先生が描くんスよ。だから、ブリクサとの結婚式をドヤ顔で見せられても、ねぇ?」
彩に同意を求める竜樹は、完全に萌々花をなめてかかっているようだ。
「あー、もう、わかったから。はいはい、ふたりとも原稿にかかって」
パンパン、と手を叩き、ふたりのアシスタントをそれぞれの持ち場へ戻した。
結婚式のシーンのあとは、エリカの新婚生活を描いてゆく。
本当に好きな人を見つけたエリカは、瞬と一緒にいつまでも幸せに暮らしましたとさ。などと『ルベ燃え』が単純に終わるはずがない。
このあとの展開は……、瞬と付き合い始める前、エリカは既婚者と付き合っていた時期があった。不倫である。
その相手の男の部下だと名乗る者から呼び出され、「俺と付き合わなければ、旦那にばらす」と脅される。その男は、なぜか不倫現場の写真と動画を持っていた。
ホテルに呼び出され、関係を迫られるエリカ。
私は瞬を愛している。浮気なんかしない、と言うと、では自分は手を出さないから、ここでストリップをして見せろ、と言う男。屈辱にまみれながら、エリカは一枚ずつ身に着けているものを取ってゆく――という波乱と不穏の幕開けで終わるこの十四回だが、ネームはきのう、藤倉のOKが取れているので、あとは前回の描き直し前の原稿で、藤倉にダメ出しされた部分を注意して描いていくだけだ。
式場の外観やチャペル内の調度など、今回は彩にとってもチャレンジの回だ。
彩はパソコンでさまざまな結婚式場の画像を検索し、それらを参考にして背景を丁寧に描き込んでいく。できるだけトーンは使いたくないと、彩も思っているのだ。
新展開の十四話は、結婚式のあとにベッドシーンがあるだけで、エリカの外出などストーリー中心の回であるため、竜樹は少し余裕があるらしく、萌々花のペン入れを手伝っている。
「あぁ……、エリカが結婚するなんて……」
竜樹はわざとらしく原稿の上に突っ伏し、まるで失恋したようにしくしくしている。
「やだ竜樹くん、まさかエリカのこと、本気だったの?」
冗談めかして訊く萌々花に、暗く沈んだ声で竜樹が答える。
「いや、俺はエリカの父親なんで」
「父親にエロシーン描かれるって、どんな親子なの」
やや白い目で見ながらも、彩は手を伸ばして竜樹の頭をいい子いい子してあげた。
仕事場がこんなに和やかで楽しいなんて、と萌々花は満足そうに部屋を見回す。
「えっ! 四位!」
一か月後に発売された『ベリィ・タルト』新年号。そのアンケート結果を聞き、萌々花は驚いて声を上げた。
連載開始以来、ずっと十位前後をうろうろしていた『ルベ燃え』が、いきなり四位に上がったと藤倉からの電話を受けたのだ。
「新展開は好評だ。その感じで続けろ」
と、それだけ言って藤倉は電話を切った。切る直前、萌々花と彩の「きゃーっ」という声が漏れ聞こえ、藤倉は唇の端を少し上げる。
光迅社。藤倉のデスクには『ベリィ・タルト』本誌が高く積み上げられていた。そしてその前には香り高い紅茶が入ったカップがあり、その陰に隠れるように、ブライダルサロンの階段で、萌々花と結婚式の真似事をさせられた時の写真がひっそりと立て掛けられている。
窓を覆うカーテンは濃いピンクで、その裾には白いレースがたっぷりと縫い付けられている。ローラアシュレイの壁紙も、ピンクを基調とした小花の濃淡で、ペンダントにはフリルのシェードがついている。
アンティーク調のチェストの上には、ドレスを着たビスクドールが並び、その隣のキャビネットの上には服を着たテディベアがいくつも座っている。ベッドカバーにも花柄とレースがちりばめられ、サシェが部屋の何か所にも置かれていた。
セミロングの茶色い髪に、少女のようなイメージの柔らかなウエーブをかけた女は、『ベリィ・タルト』本誌の『ルベ燃え』を読み終えると、それを床に放ってから原稿用紙に向かった。
「萌々花ちゃん、いきなり攻めてきたんじゃない……?」
人物にペン入れをし、自身で背景も描き込み、そうしながら女は口元を歪めつづける。
スポット照明だけが灯された、うす暗い部屋の大きなデスクで、ザッザッ、シャカシャカ……とペン先がこすれる音が狭い室内に不気味に響いていた。