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第7話 片翼の悪魔

 それからの一週間は実りの時季にふさわしく、遠山萌々花とふたりのアシスタントにとっては、忙しくも充実した毎日だった。


 「新展開!」と本誌で告知されてしまったため、次号掲載分からは、予定していたストーリー以外の出来事と新たなキャラクターを登場させる必要がある。

 そのあたりは藤倉とも打ち合わせなければならないが、萌々花は〆切の夜、藤倉に頭をそっと撫でられた感触が忘れられず、この感覚はなんなんだ、とモヤモヤしている。


 彩と竜樹のふたりは、おおむね藤倉を受け入れているようだ。初めて会った日の、あの悪夢のような修羅場を経て、チームは作品への愛着を深め、今までよりもさらに丁寧で愛情を込めた描き方をしようと話していた。


「あれからずっと思ってたんすけど、なんで俺たち、河村さんを入れたら四人もいたのに、同じようなコマが多いとか同じトーンばっか使ってるとか、誰も気づかなかったんだろ? だからブリクサはグッジョブでしたね」


 竜樹はあごに手を当て、考えるような仕草で首を傾げてから、ぱっと明るい表情でブリクサという名を口にした。


「あー、やっぱり? 藤倉さんてブリクサに似てるって、竜樹くんも思ってた?」


 藤倉にダメ出しをされた、同じコマやトーンの件には触れずに、竜樹に向けた人差し指を上下に激しく振りながら彩は大興奮だ。「背景はお前の仕事だろう」と、会ったばかりの男に言われ、屈辱を味わったのはつい十日前なのだ。


「私ねぇ、藤倉さんがブリクサだと思うと、酷い言い方されても平気なの。それどころか、あぁ~ん、もっと言ってくださいって感じ」


 両手で頬を包み、彩は目を閉じて上半身を小刻みに震わせた。


「いや、俺も! ムカつくこと言ってる顔があんなにかっこいい人って初めて見ました。ブリクサにならついていきますって感じで」


 彩と竜樹は、「ブリクサ」という誰かの話で異様に盛り上がっている。なんのことか分からない萌々花は、ぽかんとしながら、それは誰なんだと彩に訊いた。


「先生、『片翼の悪魔』知らないんすか?」


 竜樹がびっくりしたような顔で萌々花を見下ろす。


「なに、知らないと、なんかマズいことでもあるわけ?」


 ややムッとした声で竜樹に返す。


「や、そういうわけじゃないすけど、世界中で人気のアニメっすよ、日本発の。そのくらい知っときましょうよ、漫画家なんだから」


 ドヤァ、と口許をゆがめ、自分の手柄のように言う竜樹の顔が子どものようで、萌々花はぷっ、と吹き出してしまった。


「竜樹くんのそんな顔、初めて見たよ。ブリクサってキャラはよっぽどかっこいいんだね」


 可笑しくて涙が出た、とでも言いたげに目尻を押さえ、萌々花は原稿に戻ろうとしたが、その肩を彩がそっと押さえる。


「先生、せっかくだからこの機会に知っておきましょう」


 その間に竜樹は『片翼の悪魔』を検索し、詳細なデータが書かれたページを開いて萌々花のために読み上げる。


「『片翼の悪魔』とは、『月刊コミックゼクス』二〇十七年五月号より連載が開始され、現在も続いている紀國真哉(きのくにまさや)による漫画で……あー、単行本の売り上げとかは省きます。えーと、ストーリーは……、通称エンジェルと呼ばれる、白くて巨大な蛾のような敵に人間が襲われて、どんどん殺されていくんで、人間側も討伐隊を作るわけです。その討伐隊の戦闘コスチュームが真っ黒いエナメルみたいな質感の、身体にピタピタの全身タイツみたいなヤツで、めっちゃカッコいいんスよ。その隊長がブリクサです」


 ブリクサの名前が出ると、彩は萌々花の背後で「きゅう~ん」と気味の悪い声を出し、萌々花の肩に置いた手に力を込めた。竜樹は続ける。


「ブリクサは過去に、エンジェルのリーダーとの戦闘によって片腕を失っています。それがタイトルの所以ですが、失くした左腕の代わりにギミックが装着されてて、それがものすごい威力の武器になってます。あ、ちなみに人間側の戦隊は通称デビルです。黒いから。つまり、天使と悪魔の戦いなんですが、環境破壊とか生態系への悪影響とか、本当の悪魔は人類の方だと指摘している部分もあって、だから人類は滅びて当然、エンジェルこそ正義であると考える黒幕がいて、今月号でついに! エンジェルとデビルを操っていたのは同じ団体らしい、とチラっと描かれてて、いやー、俺だって一月号待ちきれないすよ!」


 竜樹は、ブリクサというキャラクターに心酔しているような表情を浮かべる。


「じゃあ先生は、ラウラですね!」


 彩が萌々花の肩を揉みながら言う。


「ラウラ?」


 萌々花が首を回して彩を見上げると、その鼻の穴は最大限と思われるほどに膨らんでいた。


――なんでこの子たち、こんなに興奮してるんだ?


 軽くジェネレーションギャップを感じつつ萌々花が訊くと、またも竜樹が説明してくれる。


「ラウラっていうのは、人類最強といわれるブリクサとともにデビルのリーダー的存在の女性で、エンジェルの討伐数はブリクサより多いテクニカルデビルです。出身地の町をエンジェルに全滅させられ、強い憎悪と怒りに燃えてるんですが、エンジェルは人間に擬態もできるため、ラウラの弟に化けた時には、あやうくラウラも殺されかけました」

「うん、わかったわかった。はい、そろそろ仕事するよ! 今日は藤倉さんが来るから、新キャラの外見をがっちり決めちゃおう。……ったく、あたしの漫画のキャラにもそのくらいの愛情を注いでほしいよ」


 後半は口の中でブツブツつぶやいたのだが、竜樹はしつこい。


「先生! そもそもなんで『片翼の悪魔』の話が出たかっていうと、そのブリクサが藤倉さんと似てるからなんですってば!」


 いい加減な返事で適当に切り上げようとした萌々花に、竜樹はなおも食い下がる。すごいスピードで『片翼の悪魔』の戦闘シーンを検索すると、動画を再生してみせた。


「ほらっ、これがブリクサっすよ! そっくりでしょ」


 萌々花がのぞき込んだディスプレイの中で、ブリクサはうっとりするほど強かった。

 白い怪物たちを無表情でためらいなく葬る様は、アンドロイドのようでもあり、その瞳は悲しそうに翳ってもいる。

 身体にぴったりと張り付くボディスーツのような戦闘服は、ブリクサの美しさを際立たせていた。その美しい悪魔が跳躍し、敵を捕らえては殺し、ギミックの腕を翼に見立てて飛んだりもする。

 特にブリクサの後ろ姿を足元から舐めあげてゆくシーンでは、アニメとわかっていてもその色っぽさにゾクっとした。肩までパンアップしたカメラを振り返り、ブリクサが静かに言うのだ。冷徹なまなざしで「お前らに命は必要ない」と。


「ほんとだ! 藤倉さんやないか!!」

「先生、なんで関西弁やねん! って突っ込むところですか?」


 うふふ、と彩が言う。自分と竜樹の主張をやっと伝えることが出来た嬉しさからか、「でしょう? でしょう?」としきりに萌々花の顔を後ろからのぞき込む。


 ブリクサと藤倉は、本当によく似ていた。顔も、全体からにじみ出るオーラのようなものも、いつも不機嫌そうで近寄りがたい雰囲気も。

 だがブリクサは顔だけではなくスタイルも抜群だ。アニメなのだから当然といえば当然だ。ヒーロー、ヒロインを不細工に描く方が合っているような内容の漫画ではないのだから。



 萌々花は、藤倉が黒いボディスーツに身を包み、人類の敵と戦うことを妄想してしまう。

 エンジェルは本当に蛾に似た怪物で、顔にはカイコ蛾のように真っ黒く大きな目がついている。その顔に人間の身体をつけた一匹のエンジェルがひとりの女に襲いかかった。長い腕て押さえつけた女に覆いかぶさり、白い羽を大きく広げて震わせる。キラキラした鱗粉が降り注ぎ、それが付着した女の足の皮膚は、ジュッと音を立てて焼けただれた。叫び声をあげる女。

 そこへブリクサが現れる。ギミックの腕から長い剣が伸び、エンジェルの羽を切り落とすと、女を抱き上げて安全な場所へと移動させる。


――ぅわー、ぅわー、藤倉さんに抱きかかえられてる……。


 萌々花は助けられた女に自分を重ね、藤倉の腕の中でその顔を見上げているような気がして、頬を紅潮させた。指先で触れた顔は熱くなっている。こんな顔をふたりに見られたら終わりだ、とディスプレイから目をそらし、こっそりと深呼吸をした。


「でも惜しいっすよね、藤倉さん。あれでもうちょっと身長があったら、そこらのレイヤー顔負けなのにな。そしたら俺だって抱いて! って思いますよ」


 竜樹の言う「惜しい」が何を指しているのか、萌々花にはよくわからなかった。藤倉がアニメのレイヤーなど目指しているはずはないだろうに。


 もう、やだ~、と竜樹の腕をバンバン叩いた彩が、次の瞬間にはひっ、と息をのんで萌々花の腰にすがるように手を当てた。

 仕事部屋の入り口を向いて並んで立つ萌々花と彩は、不自然に視線を逸らしてゆっくり身体の向きを変える。その開け放したドアを背にした竜樹は、萌々花と彩の様子がおかしいことにも気づかず、まだブリクサ藤倉の話を続けていた。


「先生、新キャラは藤倉さんに似てる男にしましょうよ。俺、藤倉さんの全裸もはりきって描きますよ!」


――竜樹くん、今日がアシとしてのきみの、命日になるかもしれないよ……。


 胸の中で台詞っぽくつぶやいた萌々花は、のろのろした動作でデスクの椅子に腰かけた。


「……おい」


 怒りを押し殺した声が、地中から轟くように竜樹の背中を刺した。

 その声が耳に届くと、竜樹はモノになったように固まり、腋の下と背中にいやな汗が流れるのを自覚する。ゆっくり振り向くと、そこには自分よりも十六センチ低い世界を見ている藤倉がいた。見下ろす格好になる竜樹は、下から睨みあげるような藤倉の圧力に息苦しさを覚えながらも、一体どのあたりから聞かれていたのかと気が気ではない。萌々花と彩は、すでにさりげなく仕事に戻っている。


「ふっ、藤倉さん! おつかれさまです! 今日もいいスーツ着てますねぇ」


 決死のあいさつは、声が上ずったままだ。


「……青山だが」


 セールで買ったスーツをほめられた藤倉は、怒らせた相手を取りあえずおだててピンチを切り抜けようとする竜樹を、心底軽蔑しているような眼で見つめる。


「もうネームは出来ているのか」


 そんなことより仕事だ、と切り替えるように藤倉が言うと、緊張しながら竜樹とのやりとりを背中で聴いていた萌々花は、弾かれたように答えた。


「はっ、はいぃ! 新キャラを出してみたんですけど、どうでしょうか」


 椅子を回して藤倉の方へ向き直った萌々花は、ネームの束を渡す。河村も使っていた、チーム以外の人間のための、赤いハイバックチェアに腰を下ろし、藤倉は脚を組んでネームをぱらぱらとめくっていく。

 そのそばで、いまだそわそわと落ち着かない様子の竜樹は、いつ仕事に戻っていいものか、タイミングを見計らっているようだ。


 ネームを藤倉に見せるのは初めてなので、萌々花は必要以上に緊張していた。

 まるで出版社に持ち込んだ原稿を、目の前で読まれているアマチュアのようだと思い、自分で可笑しくなった。


 やや俯いてネームをチェックする藤倉を盗み見ると、相変わらず長いまつ毛が影を作り、整った小さな顔が凛々しい。

 紙の束を持っている手はやさしい表情で、大切に想っているのだということが伝わってくる。萌々花は先ほどブリクサに藤倉を重ねたことを思い出し、また頬が熱くなるのを感じた。


「ふん、悪くない。これでいこう」


 顔を上げた藤倉の機嫌は、すっかり直っているように見えた。『ルベ燃え』が漫画として良くなってきたので、嬉しいのかもしれない。

 竜樹もほっとした様子で表情を緩め、「仕事に、もどりまーす」と小声で言いながらデスクに向かう。


 彩が背景のことで藤倉にいくつか相談し、竜樹もブリクサの件はすっかり忘れた様子で、出来上がった今月号を開いて何やら話しかけている。


 藤倉を迎えてまだ十日。だが、担当編集者として、藤倉は確実にチームからの信頼を得ているようだと、萌々花は今後の仕事に大きな期待感を持ちながら仕事場の光景を眺めた。



 いつもの仕事場の雰囲気に戻り、それぞれが自分の持ち場に取り組んでいる。藤倉は壁際に設置された資料棚の前に立ち、気になる本を取り出してはパラパラとページをめくっていた。


「ああ、彩ちゃん、そういうことだから、明日はよろしくねー」


 しばらくして、思い出したように萌々花が彩に声をかけた。


「はーい! 楽しみですぅ」


 ゆるく握った両手をあごの下に置き、彩は明るい笑顔で答える。

 萌々花と彩は、明日ふたりでどこかへ行くとのことで、竜樹はオフになった。

 藤倉はふたたびネームを手に取り、何度もパラパラ見ては、要所要所に何か書き込んでいる。

 午後の日差しがカーテンを透かして入り、そろそろお茶にしようかと彩が提案した。

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