第6話 合格だ
JR飯田橋駅から徒歩五分ほどの場所にある、表面を紺色のタイルで覆われた七階建てのビル。そこが「光迅社」の本社だ。
「全ページ直せ」と言い切って遠山萌々花の仕事場を出てきたはいいが、藤倉は態度が冷た過ぎなかっただろうかと気が気ではなかった。
エレベーターで四階に上がり、女性向けコミック誌のフロアで降りた藤倉は、『ベリィ・タルト』と書かれたパーテーションで仕切られたエリアに向かった。
自分のデスクに着くと、先月号の本誌を取り上げ、萌々花の連載『ルベライトのように燃えて』の扉ページを開く。
主人公・エリカは相当な美人で、スタイルも抜群。富裕層ともいえるほどリッチだ。常にハイクラスな男性に囲まれ、恋もセックスも相手はよりどりみどり。大勢の中からエリカが選ぶのは、一番セックスの相性がいい男か――。
「ハリウッド女優のスキャンダルじゃねえんだぞ……」
ふぅ、と溜め息をつきながら、エリカの瞳をじっと見つめる。
これが河村の推したレディコミのスタンダードか。
デスクの上に本誌をバサッと放り投げ、自身のサラサラした黒い前髪を指先でさばくと、もう一度雑誌を手に取って萌々花のページを読み始めた。
「なんで気づかないんだ」
似たようなカットやトーンが続くページを、悔しそうに眺めては溜め息を洩らし、忌々しそうにネクタイを緩めた。
「どうです? 遠山先生とはうまくやっていけそうですか」
奥の部屋から編集長が出てきて、サーバーで保温されているコーヒーを注ぎながら言う。
「ええ、まあ。いい漫画を読者に届けるのが俺の仕事ですから」
「何を編集者ぶって。河村さんが退社すると聞きつけて、真っ先に統都出版さんから遠山先生の担当に名乗りを上げたのはあなたでしょうに。統都出版さんは突然あなたが辞職して、さぞお困りなんじゃないですか? うちは、ありがたいですけどね」」
からかうように言う編集長に、藤倉は無言で視線を送るが、無表情のその顔からは、なにを想っているのか感情は読み取れない。
萌々花の仕事部屋では、もはや誰も口をきかなくなっていた。
藤倉が一旦社に戻ると出ていってから、四時間が経とうとしている。
アシスタントのふたりは、ペットボトルの飲み物を自分のデスク脇にある棚に置き、ときおりそれを口に運ぶ以外は、原稿用紙だけに視線を固定し、トイレに立つことさえなく、まともに休憩も取っていない。
竜樹くんはそろそろお腹が空いてるはずだ、彩ちゃんはトイレを我慢していないかと、手を動かしながらも、萌々花はふたりのアシスタントにとてつもない負担をかけてしまったと、申し訳ない思いでいっぱいだった。
――ふたりの前で初対面の編集者にダメ出しをされ、「先生」としてのメンツも丸つぶれだし、こんなんで本当に作品が良くなるのか? あたしが完全に自信を失くしたこんな状態で、読者になにが届くっていうんだろう。
萌々花は混乱していた。
藤倉の言い方は確かにひどかったが、今まで誰も指摘しなかったことを、原稿に一通り目を通しただけで、萌々花たちにストレートに伝えてきた。
男の目線で主人公を見たカットが多過ぎること。ひどい時は一ページに五箇所もあった。そして、薔薇が密集するトーンの、暑苦しい背景ばかりのページ。いったい、毎月同じトーンを何枚つかっていたのだと、自分で読み返して思う。そのほかにも細かい直しがいくつもあった。
河村は、そんな原稿をいつも褒めてくれた。たまにダメ出しされることはあったが、藤倉のように否定的な言い方をしたことなどない。それは萌々花が漫画家の「先生」だから? だから言い出せなかったというのだろうか、まさか。それとも、河村も本当に「素晴らしい」原稿だと思っていたのだろうか。
担当者が気づいて指摘してくれなければ、質の悪い原稿がそのまま印刷され、雑誌になってしまうのだ。もちろん気づけなかった萌々花が悪い。自分の鈍さとセンスのなさを呪いたい気分だ。だが、より良い漫画を届けるため、いいところも悪いところもきちんと伝えてくれる。それが信頼というものではないのだろうか?
河村との何年間かを思い出し、ふぅ、と小さく息を吐いた。それが耳に届いたのか、竜樹と彩が同時に顔を上げて萌々花を見る。三人で顔を見合わせ、それぞれが曖昧に微笑んだ。
「先生、コーヒーでも淹れましょうか」
「俺、コンビニでなんか食いもん買ってきますよ」
そしてまた同時に、壁に掛けられた時計を見る。時刻は九時になろうとしていた。
「えっ! やだ、もうこんな時間。全然気がつかなかった。ふたりともごめんね。二時間も残業させちゃった。もう帰って。あとはあたしひとりで大丈夫だから」
オロオロしながら言う萌々花に、ふたりは笑顔で答える。
「ひとりじゃ無理っスよ。まだ半分も終わってないのに」
「そうですよぅ。一息入れて、もうひとふんばりしましょ」
萌々花は泣きそうになった。こんなあたしに、なんて出来たアシスタントたちなんだ。だが、そう甘えるわけにもいかない。
「就業は十時から十九時まで。基本的に残業はしない」という約束でふたりを雇っている。ふたりは漫画家のアシスタントなのだ。自宅に戻ってやることがきっとあるだろう。たとえば、自分の漫画を描くとか――。
「本当に大丈夫だよ。後半はあいつに指摘されたような直しもあまりないし……たぶん。ははっ、いや、ほんとほんと。もうひとりで大丈夫だから、早く帰って」
彩のジャケットをハンガーから外して手渡し、シッ、シッと追い払う仕草をしながら萌々花は笑顔を見せる。ふたりは渋々身支度を整え、名残惜しそうに帰って行った。
それまでも静かだったが、人気がなくなって急にしん、と静まり返った家で、萌々花はぽつんと立ち尽くした。
母の千鶴子は、オペラのあと友人の家に泊まると言っていた。その友人は定年離婚をしたばかりで、自宅に女学校時代の友だちを招くのが楽しくて仕方がないのだそうだ。
いつまでもお嬢様気分の抜けない千鶴子を、萌々花は羨ましいとさえ思うことがある。
キッチンもリビングも、二階へと続く階段も、間接照明だけのぼんやりとした明るさに調節された家で、萌々花はこの世にたったひとり取り残されたような心細さを感じた。小さな子どもの頃のように、怖いよぅ、と泣きたい気持ちになったが、〆切まであと三時間を切ったのだ。藤倉が再びここへ来るまでに、何としてでも一人で仕上げなければならない。いや、必ず仕上げてみせる、と気持ちを引き締めた。
仕事部屋に戻り、すべての工程を終えた原稿を手に取って眺める。藤倉にダメ出しされたからか、いつもより緊張感のある絵面に見える。全体に引き締まった感じがして、映画のスクリーンを見ているようなのだ。
これは漫画の中の出来事ではなく、あなたの身にも起こりうることだ、と画面が言っているような、いつもより漫画の世界にのめり込めるような、そんな印象だった。
――これを、あと三時間で同じくらいのページ数ひとりでやるのか……。さすがに厳しいかも。
萌々花が弱気になりかけた時、玄関の鍵を開ける音が響いた。千鶴子が帰ってきたのだろうかと廊下に出てみると、竜樹と彩のふたりが、コンビニの袋を下げて靴を脱いでいるところだった。
「あんたたち! 戻ってきたの」
思わず大きな声を出したが、萌々花は玄関からこちらに向かってくるふたりに走り寄り、抱きしめずにはいられなかった。もちろん「走り寄る」ほどの距離がある長い廊下ではないが、萌々花は正面からふたりをいっぺんに抱き寄せ、夜気に冷えた髪に唇を押し付けた。
「先生、水くさいですよぅ。私たちは三人でチームじゃないですか」
彩の言葉に、萌々花はうん、うんと頷き、そのままキッチンに入ると、三人一緒にコンビニ弁当を食べて熱いコーヒーを飲んだ。
「さあ! じゃラストスパートいくよ!」
チームの仕事が始まった。直しのコツをつかんだ三人は、それぞれが自分の持てる知識と技術を最大限活かしたと思えるような仕事をした。その自信に満ちた顔はどれもが輝き、漫画を描くのは本当に楽しいのだと言っているようだった。
深夜十二時まであと少しという時刻。
「終わった! おつかれ!」
まだ余力があるような顔の竜樹と彩は、狭い仕事部屋で嬉しそうにハイタッチをする。
「うわーっ、ギリギリっていうか、あいつに渡す頃には完全に〆切後だけど、もうそろそろ来るはずだよね」
萌々花が腕時計を見ながら立ち上がる。彩が封筒に入れてくれた原稿に手を伸ばした時、目の前が真っ白になった。
「先生っ」
床に倒れ込みそうな萌々花を支えようと、彩はセンターテーブルをまたぎながら腕を伸ばす。
スローモーションのように萌々花の身体が沈んでゆき、先生が怪我しちゃう! と悲鳴を上げそうになったとき、彩の瞳に信じられないものが映った。
「あ、ブリクサ……」
真っ青になってぐったりする萌々花を、藤倉の腕がやさしく抱きとめていた。
「あっ、早く原稿を渡さなきゃ!」
飛び起きた萌々花は、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。
そこは見慣れた自宅リビングの三人掛けソファの上で、端には出来上がったばかりの原稿をチェックする藤倉がいた。
「あ……これは、どういう……」
「まだ起きなくていい。顔色がよくないからな」
「あの子たちは?」
「仕事部屋で仮眠を取らせてる」
原稿から目を離さずに言う藤倉は、最終ページまで読むとゆっくり萌々花に向き直った。
「よくやった。合格だ」
すっ、と藤倉の手が伸びてきて、萌々花は思わず目を閉じて首をすくめた。
その手が自分のどこに触れようとしているのか、藤倉は何をするつもりなのか。
頭の中までレディコミに侵されてしまったように、萌々花は自分と藤倉の卑猥な光景に目がくらむような想いがして、思わず息をのむ。
だが、萌々花の妄想は外れ、藤倉は萌々花の頭にそっと手のひらを置くと、父親が幼い娘にそうするように、やさしく撫でてくれた。
イヤな奴だと思っていた編集者の、不意打ちのようなやさしさに、萌々花の心臓は跳ね上がる。藤倉の耳に届いてしまうのではないかとびくびくするほど、ドキドキと大きな音で刻み続けた。
「ご、合格なんですね」
――だけど、だけど、あたしの方が作家先生のはずなのに、なんなの、これ。ほんっと解せない。
「あの、ケーキ、食べますか?」
藤倉の顔を見られないまま、まだくらくらする振りをして訊くと、藤倉は編集部へ戻ると言う。
「俺はいい。三人で食え」
三日後、萌々花の元へ『ベリィ・タルト』十二月号の見本誌が届いた。
表紙には『ルベライトのように燃えて』最高潮!! の文字が深紅に踊り、最終ページの枠外に「次号、新展開!」と記されていた。
あと三回程度で終わるはずなのに、何かの間違いだと首を傾げていると、編集長から電話がかかってきた。
「遠山先生、今回のは素晴らしい出来ですね。次回から展開を変えて話を広げ、連載ももっと続けていただきたいんですが、どうでしょうか」
興奮気味にまくし立てる編集長に、萌々花は「はい、はい」と答えることしかできなかった。
あの編集長があんなにほめるなんて、どんな仕上がりになってるんだろうと、萌々花と彩は描き上げたばかりのように感じる『ルベ燃え』のページを開いた。
「先生、なんだかいままでと違いますね。すごく素敵です」
「うん、うん、彩ちゃん、ありがと」
玄関マットの上で、抱き合うような格好で泣くふたりから見本誌を取り上げると、竜樹も自分の描いたエリカに感動して涙をこぼしていた。
「それでね、竜樹くん、連載もっと続行だって」
洟をすすりながら言う彩に、竜樹は親指を立てて見せる。
三人は一冊の見本誌を大切そうに抱き、廊下を仲良く並んで仕事部屋まで歩いた。