第5話 純潔と情熱のあいだ
――あと一時間でキメる……。彩ちゃんと竜樹くんにコーヒーでも淹れてあげようと思ってたのに、そんな余裕もないじゃないか。もう、何だよ、なんなんだよ、あいつは。
今日が〆切の原稿は、本当なら河村に手渡すはずだったのだ。その場でチェックを受け、全員が同じような顔で満足げに笑うシーンを妄想していたのに、それがこの重々しい雰囲気はなんだ。
こんなんでいい作品が描けるわけねえだろうが! と萌々花はリビングで待つ藤倉の胸ぐらをつかんで言ってやりたいくらいだったが、もちろんそんな暴挙にでるわけにはいかない。
とても急いでいた様子の河村からは、さっきの電話では何も聞かされなかったが、この藤倉という編集者はいったい何者だろう? 何年も世話になっている光迅社の社内で見かけたことは一度もない。それどころか、噂程度に名前を聞いたことすらないのだ。こいつはさっき「光迅社の藤倉だ」と言ったけど、お前なんか見たことないぞ、と萌々花は藤倉の整った横顔を思い出しながら毒づいた。
「先生、終わりました!」
両手を挙げ、首をコキコキと鳴らしながら竜樹が言う。
「こっちも完成でーす」
椅子から立ち上がり、竜樹に向けてハイタッチを要求するように両手を伸ばした彩が笑う。
「おーし! あたしも上がりだ!」
二人のアシスタントの顔を交互に見て、萌々花も満面の笑みで応える。
やっと出来たという安堵に、三人は一瞬、藤倉の存在を忘れかけていた。
原稿が終わったら、コーヒーを淹れてケーキを食べるんだ。そう思って藤倉が到着してからの一時間を集中して頑張ってきたのだ。
――そうだよ、そのつもりだったのに。
「全ページ直せ」と言われてから一時間が経過していた。
彩と竜樹はいつになく真剣な表情で手を動かしている。この子たちとあたしはチームなんだ。あんな得体のしれない奴に舐められるわけにはいかないって、同じ気持ちなんだよね。心強さを感じて嬉しくなるが、でも、と萌々花は想う。
――こんな、命令されるような形で描き直すことが本当に正しいのかな?
あたしの漫画は、それを好きだと言ってくれる人と、やさしさで包むようにして作り上げたいのに。あいつの言ったことは、たぶん正解なんだろう。同じようなカットが続いたり、瞬目線のエリカの喘ぎ顔が多かったり、背景がいつもトーンの薔薇だったりって、あたしは全っ然きづいてなかった。本誌で読んでも、単行本で読んでも、それをおかしいとは思わなかった。だって、そんなことは気にならないほど、あたしの漫画は面白いと思ってるから。純粋に楽しめるから。そんなのプロじゃない、自分の作品に責任を持てって、あいつなら言うんだろうか。あたしは、なにを描きたくて漫画家になったんだろう。
自分の描きたい漫画とは?
萌々花は、プロ十年目にして、初めて大きな壁にぶち当たったのを感じた。
それは、今までに何度も考えたことのある問題だったはずなのに、振り返ってみると、自分が納得できる答えなど一度も導き出してはいなかったのだ。
月日を経るごと、年齢を重ねるごとに様々な価値観が変わっていくのは当然だが、ただの一度も、自分自身に答えを出してこなかった。それどころか、河村という担当編集者に頼り切り、彼女が舵を切る方向に、なんのためらいもなく進んでいたような気がしてきたのだ。
自分の描きたい漫画。自分の描きたい世界。
漫画を描くことによって、どんな世界を見たかったのか。読者と感動を共有したり、読者の想像もつかないようなシーンを描いたりして、人は、人をこんな風に愛せるのだということを示したいと思った。
愛と性とは? 性愛と恋愛は別物か? 愛情のないセックスをすることは、女性にとってどんな功罪があるのか? レディコミの主人公は性に奔放で、男にとって都合のいいだけの女なのか?
『レモネード』から『ベリィ・タルト』に移籍してからというもの、萌々花の頭の中には常に「降格」というワードがつきまとい、どうせ『レモネード』よりランク下なんだから、という想いが意識の外にあったのかもしれない。
大切な自分の仕事を、自分自身で貶めていたのではないかと、萌々花はとつぜん思い至ってはっとした。
そうだ、河村さんとの約束を果たすためにも、今が、今日が一番の踏ん張りどころかもしれない! そう思い、猛然とペンを動かし始める。
美しいドレスが並ぶショウウィンドウの前で、今夜も瞬と待ち合わせをするエリカ。
これからふたりで買い物をし、静かなレストランでワインと食事を楽しみ、ホテルのバーでカクテルを飲んだあとにエレベーターに乗るのだ。
無人のエレベーターの中で唇を交わし、瞬の逞しい背中に華奢な腕を回すエリカ。部屋のドアを後ろ手に閉めたら、そのままもつれ合いながらベッドのそばまで進み、瞬はエリカが着ているワンピースのファスナーを、片手でその身体を抱きしめたまま下ろす――。
『ベリィ・タルト』に移籍してから、三年と少し。現在の『ルベライトのように燃えて』は、いま描いているのが第十三話だ。あと四回程度で終了の予定だが、一冊の単行本に五話収録されることになっているので、最終巻にはスピンオフか別の描きおろしを収めるのかもしれない。
シャワーを浴びるエリカの、これから行われるセックスへの期待が高まる顔。乳房にシャワーの強い水圧がかかって、柔らかい肉がへこむ描写は竜樹が描くとして、ヘッドを握るエリカの手指の表情は、萌々花自身が描いておきたかった。
さて……と、セックスシーンを描き始めるときにたびたび頭をもたげるのが、萌々花自身の恋愛経験についてだ。
萌々花は小学校五年生、十一歳の頃から漫画を描き始めた。学年に何人かは必ずいるような、「漫画のうまい」女の子だった。
休み時間には自由帳に少女の絵を描き、その少女が友だちと語ったり遊んだり、冒険をしたり怖い体験をしたりと、萌々花の描く少女たちは、白い紙の中でさまざまなことをして成長していった。
当然、そこには憧れの男の子も存在し、少女は恋をしてデートを重ね、やがて結婚する。華やかなウエディングドレスを着て、幸せの絶頂の笑顔を見せる花嫁は、萌々花に似ているようでもあり、友だちの誰かに似ているようでもあった。
やがて、中学・高校・大学と順調に人生を歩んでいた萌々花は、中学時代、高校時代、それから大学卒業後、それぞれ別の彼氏と付き合っていた。だが、どれも長続きはしなかった。
応募作品が『レモネード』新人賞を受賞してデビューした当時、萌々花はまだ学生で、このまま漫画家として本当にやっていけるのかと悩み、卒業後もたびたび依頼される短編の〆切にいつも追われていた。そんな時に彼氏が別の女性とデートしている現場を目撃してしまい、すっかり男性不信になった。
自分の描く理想の恋愛は、結局空想の世界にしかなくて、現実なんてこんなものだと、早とちりともいえるように悟ってしまい、結局、その彼氏とは肉体関係を結ぶ以前に別れてしまったのだ。
そう。萌々花の最大の弱点であり、機密事項ともいえる秘密は、処女であるということだ。
実体験がないまま、性的内容を多く含む漫画を、勉強で補いつつ三年以上も描いているのだ。
エリカは仰向けになった瞬の上で腰を振り、長い髪を振り乱しては泣くように叫ぶ。
瞬はエリカの反応を愉しみつつ、急に身体を離して、その切なそうな顔を見ては再び欲情する。
――はぁ……。これでいいのか、あたしの人生。あたしには漫画しかないのに、やっとレディコミ誌の仕事も楽しくなってきたのに、なんでこんな……。
萌々花の瞳から涙があふれ、熱い液体はメガネの内側を濡らした。




