第4話 全ページ直せ
藤倉は仕事場の来客用椅子に腰かけ、たった今できあがったばかりの原稿をチェックしている。
萌々花が愛用しているのは、B4サイズの厚手用紙だ。小柄な藤倉は成人男性にしては手も小さめで、厚手の紙を四十枚も持っているその手を見ていると、取り落してしまわないかと萌々花がハラハラしてしまう。
赤い椅子に浅く腰掛け、脚を組んだ姿勢でやや俯いた藤倉は、ときおりわずかに顔を上げて彩が淹れた紅茶を飲む。
アラビアバレンシアのカップに注がれているのは、柔らかな香りのダージリンヒマラヤだが、藤倉はなぜか取っ手ではなく、カップを上から手のひらで覆うように持って口元に運んでいた。
その正面で、萌々花は自分のデスクの椅子に座り、背筋を伸ばして膝に手を置きながら、緊張した面持ちで新しい編集者の反応をうかがっていた。
藤倉が小さな溜め息をつくとドキッとし、眉間にシワを寄せると、思わず膝に置いた手を拳に握ってしまう。
――ったく、なんなの? なんであたしがこんなに緊張しなきゃならないのさ!
なにかが間違っている、とかすかな憤りを覚えながらも、萌々花は今月の原稿には自信を持っていた。連載も終盤に入り、多くの男性と性遍歴を重ねてきた主人公・エリカが、とうとう瞬に対して本物の愛を認めるか、という大事な局面を描いた回なのだ。
萌々花が練ったそのストーリーもさることながら、竜樹の描くエリカのヌードは美しくリアリティがあり、彩が配する背景は、作品の世界観を端的かつ華麗に表していた。
ところが、最終ページまで読み終えた藤倉は、B4厚手紙の原稿をテーブルにバサッと置くと、何でもないことのように言った。
「ボツだ。全ページ直せ」
「OK、お疲れさまでした」という言葉をきけるとばかり思っていた萌々花は、聴き間違えたのかと思い、一瞬へらっと笑って首を傾げた。
「……はい? いま、なんて?」
「直せと言ったんだ。どこが悪いかも気づかないのか」
冷たく無表情に言い放つ藤倉に、萌々花の頭には急激に怒りがこみ上げて来た。
「ちょっと待ってください。全ページなんて無理に決まってるでしょう。〆切は今日なんですよ! それに、どこがどう悪いのかも言わずにすべて直せなんて、あなたの好みに付き合ってるわけじゃありません」
言い過ぎたか、と思ったがもう遅い。萌々花は初回から牛耳られてたまるかという思いで食い下がった。
「だいたいあなた、藤倉さん。あなたは今までに私の描いたものを一つでも読まれたことはあるんですか?」
萌々花がそう言うと、藤倉は窓の方へ視線を遣り、記憶を手繰り寄せるような顔をしたあと、萌々花のデビュー作から『レモネード』時代の連載や読み切り作品、そして『ベリィ・タルト』に移ってから初めて掲載された読み切りと、連載した二作品、長い連載が終わったあとに描いた読み切りと、現在連載中の『ルベライトのように燃えて』まで、萌々花が忘れていたものまで正確に言ってみせた。
ぐっ、と詰まった萌々花は、悔しまぎれに藤倉から視線を外す。
「か、河村さん、なら……」
「河村なら、なんだ? はっきり言ってみろ」
「彼女ならきっと、これでOKをくれたはずです。編集者に作風をどうこう言われるのは辛いです」
そうだ、河村ならOKを出し、ハイタッチして原稿を預けることが出来たのに。
だが、つぎの藤倉の一言で、萌々花は目が覚めるような想いをした。
「編集者にどうこう言われるのは辛いだと? ずいぶん河村に甘やかされたな。担当の編集以外の誰がこんなイヤなことを言ってくれると思う? だから読者アンケートの順位が下がるんだ」
そうかもしれない。藤倉の言っていることは正しい。だが、初対面の相手にそこまで言われ、萌々花のプライドは一瞬でボロボロに傷ついた。
「瞬目線の画が多すぎる。読者の八割は女だ。うまい絵で女の裸を描いておけば、そこそこの人気が得られる男性向けのエロ漫画誌とは違う。しかもトーンで手抜きした背景じゃあ、読者はのめり込めない。『72番』の使いすぎだ。くどい。おい、背景はお前の仕事だろう、なぜ気づかない」
背景担当の彩に厳しい視線を向け、藤倉は原稿用紙を突きつけた。
アシスタントの彩にまできついダメ出しをされ、萌々花はふたりの間に割って入る。
「え、と、ですね、彼女は何も悪くありません。背景の指示を出したのはあたしです。そして最新号の連載十二回目まで、ずっとこの感じでやって来てるんです。いきなり変えたら、コミック掲載時に不自然です。だから、彩ちゃんに文句を言わないでください。それに、彩ちゃんはあたしが雇ってるんです。あなたの部下じゃない」
萌々花はきっぱりそう言うと、腕組みをしたまま藤倉を見下ろした。
これ以上、何も言わない方がいい。藤倉は正しくて、人気作を描くために必要なことを言っているのだ。わかっている。わかってはいるが、萌々花は意固地になっていた。
そこへ彩がおろおろしながら遠慮がちに口を挟む。
「先生、トーンを選んだのははほとんど河村さんです。手塗りする部分は先生の指示がありましたけど、私がいろんなトーンを画に合わせて選んでいると、河村さんに72番を勧められました」
「え? そうだっけ」
萌々花は今までの数知れない修羅場を振り返った。
萌々花が人物を描き終えた原稿を彩に渡す。彩がそのシーンに合うよう背景を描き込んでいると、時間がないからとか、この方がシーンに合うとか言い、河村がトーンを手渡す場面を何度も見ていた。
「エリカのアップと、男との絡みのコマはほとんど72番だ。咲き誇った薔薇がこれでもかと画面を埋め尽くすトーンだぞ。そんなものが繰り返し使われた漫画なぞ、読者から見れば手抜き感は否めない。上がってきた本誌をチェックしていないのか? それとも、見ても違和感があるとは思わないのか? 作者がそれじゃアシスタントは浮かばれねえぞ。コミックにまとめる時点で、前回までの背景を見直せ。既刊分は重版される機会があればその時に直せばいい」
重版される「機会があれば」と、藤倉はわざわざ付け加えた。その言葉が意味するのは、『ベリィ・タルト』でも萌々花の人気が落ち始めているということなのだろうか。
「俺は『ルベ燃え』を任されてここへ来てる。俺は河村じゃない」
藤倉は、話を打ち切るように言った。本当に今夜中に全ページ描き直さなければならないなら、こんな揉め事に時間を取られるわけにはいかないのだ。
「わかりました。全ページ描き直します」
藤倉から原稿をひったくるように取り、デスクに戻った萌々花は、トントン! と大きな音を立てて厚手用紙の端を揃えた。
さかのぼること一時間。
新しい担当編集者である藤倉と対面した萌々花は、驚きを隠せなかった。
――は? ちょっと待ってよ! さっきのクソチビ野郎が新編集? それはつまり、あたしはこれからこの男と一緒にやって行くってこと? え、混乱するぅ~。だって『ベリィ・タルト』の編集さんて、ほとんど女の人だよね。いやいやちょっと待ってよ、そういえば……。
萌々花はさきほどリュバンドールの入り口でぶつかったとき、その男が大きな封筒を脇に抱えていたことを思い出した。記憶の中でその光景を再生する。立派な厚い紙で作られた事務封筒の下方に印刷されていた三つの文字。それは「光迅社」……!
たあ――なんだよ! じゃあこいつはあたしたちへのお土産を買うためにあの店に行ったのか? え? 普通なら駅前とかの商業施設のテナントで見繕ってくるだろうに、なんでわざわざ住宅街の中にある、知る人ぞ知るあの名店『リュバンドール』に行ったっていうんだ? 下調べしたのか? 河村さんに訊いた? ああもう、そんなことどうでもいいや。
「おい、さっさと俺を中に入れろ。〆切は今日だろうが」
目の前の藤倉そっちのけで勝手にパニックに陥りそうになっている萌々花に、この新しい編集者はイライラを隠せない様子で告げる。
そうだ。あと一息で脱稿なのだ。さっさとこいつを中に入れて作業に戻らなければならない。
「すみませんね、気が利かなくて。いつもはアシスタントの子が応対してくれてるもんで」
ブツブツ言いながらマットの上にスリッパを揃える。藤倉は軽く目礼して玄関に上がると、萌々花に背を向けて脱いだ自分の靴をきちんと揃えた。
沓脱に置かれた藤倉の靴は、中敷に日本の老舗靴店の名前が入っていた。いまだに手縫いで仕上げているという名店だ。しかもサイズは萌々花と同じ二十四、五センチ。
この店の靴、一回履いてみたかったんだよなぁ。とひそかに思ったが、まさか履かせてくれなどと藤倉に言えるはずもなく、萌々花は廊下を手で示し、奥の仕事部屋へと藤倉を案内する。
「彩ちゃん、竜樹くん、こちらが今日から河村さんの代わりに担当してくださる、光迅社の藤倉さんです。藤倉さん、こちらが野村彩ちゃん。主に背景を担当してもらってます。それからこっちは清水竜樹くん。主にヌードのボディを男女とも描いてもらってます」
萌々花から藤倉を紹介された竜樹と彩の二人は、一瞬ひっ、と息を呑んだあとに顔を見合わせ、藤倉に頭を下げる。萌々花は「二人とも、なんか変なリアクションだな」と思ったが、男性編集者を見て驚いたのだろうと勝手に納得する。藤倉はふたりを交互に見遣ると、かるく会釈して「よろしく」と低い声で挨拶をした。
「よろしくお願いします。背景を描き込んだり、トーン貼りが主な仕事ですが、お茶が飲みたいとか、そういう細かいことも私に言ってください」
笑顔で浅くお辞儀をしながら、彩は素早く藤倉のいでたちを盗み見る。全体に小柄で、作りが小さい。顔も小さく首も細いが、センス良く着こなしたスーツはそれなりに似合っている。
だが、性格の悪さが顔に出ているのか、印象は暗く、心なしか顔色も悪い。そう、上等そうなスーツは似合っているのに、いかんせん身長が足りなすぎる。顔はけっこう……というより、彩の審美眼によるとかなりいい部類に入る。藤倉をこっそり見ながら、「この人ってもしかして、さっき先生が言ってた『クソチビ野郎』?」と思い、チラっと萌々花に視線を送ると、かすかに肯いたように見えた。
萌々花の反応を受け、「同じ日の同じ時刻に、同じ洋菓子店で同じケーキを求めた人が新しい担当さんだなんて、すごい運命なんじゃないかしら!」と、彩はなんだかワクワクする気持ちを抑えきれず、自然と口許が緩んでしまうのを自覚しながら、思わず白く柔らかな手を藤倉に向けて伸ばしていた。
「な、んだ、その手は?」
「え? 握手ですよぅ。これからよろしくお願いしますの気持ちをこめて」
「悪いが、俺はそういうのは苦手だ」
機嫌を損ねたように横を向く藤倉だったが、その顔は竜樹のデスクの方に向けられたので、まぶたと頬にうっすら赤みが差しているのを見られた上に、一瞬、竜樹と目が合ってしまい、藤倉は気まずさにうろたえながら言う。
「いいからさっさと原稿を見せろ」
彩はうふふ、と笑いながら自分のデスクに戻ると、萌々花に数枚の原稿を渡しながら言う。
「あと一時間程度で終わると思います」
「俺もそのくらいっス~」
竜樹はこの状況を愉しむように、うーん、と伸びをしながら萌々花に笑顔を向けた。
「そうか。待つ場所はあるか? 案内しろ」
自分不在で事が進められているような気がした萌々花は、不快感を隠し切れない表情で、藤倉をリビングのソファへといざなった。
「じゃ、ここでお待ちください。コーヒーでも淹れますか?」
「いや、いらない」
どこまでも愛想のない藤倉の態度に小さく溜め息をつき、萌々花はやるせない思いでキッチンに入る。
手土産のケーキの箱をしまうために冷蔵庫を開けると、さきほど萌々花が買ってきた、ガトー・オペラの入った箱が静謐な佇まいで棚の下段に置かれていた。そこに藤倉から押し付けられた同じ箱を並べる。
「金色のリボン」という意味のリュバンドールの箱は、ベルベットのような質感の黒い厚紙に、金色の箔押しで結んだリボンが描かれている。美しい箱が二つ並んだ様子は、中身が充実していることの少ないこの家の冷蔵庫を、今日がなにか特別な日であるかのように華やいだ印象にしていた。