第32話 シン・ライバルは現役女子大生
千鶴子が用意してくれたお茶漬けと出し巻きの朝食を摂ったあと、萌々花は仕事部屋に入って、前半部分の清書に取り掛かる。そろそろおせちがたべたいよ、とお腹が鳴るころ、デスクの脇に置いたスマホが短く震えた。
『明けましておめでとう。仕事は今日からですか? 今月の原稿が済んでからでもちろん良いので、また食事でもしましょう』
富田からのメールだった。萌々花はすぐに返信することができず、しばらくスマホを持ったまま考えた。
富田とのデートは、確かにたのしかった。レストランも料理も申し分なく、普段は味わうことのない「女」を満喫したと言ってもいい。
だが、またの誘いに乗ったとしたら、それは関係を発展させるという意味になるのではないか。自分は、果たして本当に富田とそういう仲になりたいのか……。
年を重ねるにつれ、恋愛に対して臆病になった萌々花は、なかなか答えを出せずにいた。
『明けましておめでとうございます。たった今、原稿に向かったところです。はい、またぜひお目にかかりたいです』
具体的な日にちについては記さず、ひとまず当たり障りのない返信をした。富田の初出勤は四日なのだろうか、また数秒のうちにメールが届く。
『元日から偉いなぁ。原稿がんばって! 次回のルベ燃えも楽しみにしています』
あの日富田は、年始の休みを使って萌々花の作品を全部読みたいと言っていた。萌々花は、甘酸っぱい思い出のある富田に、自分の漫画を読んでもらえることを恥ずかしく思いながらも、素直に嬉しいと思い、原稿用紙にペンを載せていった。
『ベリィ・タルト』二〇二一年二月号のアンケート結果を受け、編集部は荒れに荒れた、らしい。
藤倉によると、当月の新連載が堂々の二位を飾り、来月号でのセンターカラーも即日決まったとのことだ。
一位はもちろん、宮野可憐『君よ、咲き誇れ』。そして二位を獲得した作者は、三か月前にデビューしたばかりの現役女子大生だというから、話題性としては抜群なのだろう。
この宇佐うさ子という漫画家の『ガールズバンド!』は、やっと人気が上がってきたガールズバンドのメンバーが、過去の男性関係を暴露されたり、女性アイドルグルーブのようなファンサービスを求められ、マネージャーと対立したりする話だ。
光迅社内では、連載会議の際にもTLかレディコミかで揉めたようだが、『ベリィ・タルト』編集長が「ぜひうちで連載したい」とその権利を獲得していた。
ヒットするという編集長の読みは見事に当たり、宇佐うさ子はプロ一年目にして人気作家の地位に就いたのだ。
この新連載のおかげで、前回四位だった萌々花は五位に下がり、濱永リナの『乙女座の恋人』が四位へと巻き返した。
かろうじてベスト5からは外れなかったものの、十六話はそれなりの展開や、絵柄の美しさで読者を飽きさせないようにしなければ、と、萌々花は焦りを感じ始めていた。
いくつか用意していたネームを読み返し、自分が一番気に入っているものを藤倉に見せた。それが終わると、藤倉は「他の案も見せろ」と言い、四案すべてを一時間以上かけてじっくりと確認した。
アンケートの結果を受け、チーム萌々花も緊急会議が必要になったのだ。
本当は五日の仕事始めに全員で相談し、作業に入る予定だった。だが藤倉は一日でも早い方がいいと、彩と竜樹も招集するよう萌々花に指示すると、自身も退社後に萌々花宅を訪れ、後半のストーリーの吟味に入った。
「不倫ネタで脅迫してきた横溝から、もっと責められた方がいいでしょうかね。通俗的にはならないようSMチックな展開を入れつつ、過去に多くの男たちと寝てきたエリカが、初めてイヤな相手に凌辱される。瞬ではない男の手が肌に触れるおぞましい感触に身悶えし、全身を粟立たせて嫌悪を表し、相手を睨みつけながらも受け入れてしまう……とか」
彩からあまりにも具体的な内容を示す言葉が飛び出し、チーム一同は口を開けて固まった。
特に萌々花は実体験が伴わない分、想像できる領域は彩よりもはるかに狭い。それを自分が描き切ることが出来るのかと、内心不安になる。
「彩ちゃん、前にも言ってたもんね。『エリカに屈辱を味わわせた方が、あとの報復が生きてくる』みたいなこと」
「竜樹くんのだいじな娘を虐めることになってしまうけど……」
竜樹が鉛筆の尻に軽く歯を立てながら何か考えている。そして目の前の原稿用紙に、屈辱に唇をわななかせ、目じりから涙をにじませるエリカの顔をゆっくりと描いた。
「うん、その顔はいい。読者はエリカのファンが多い。自由奔放なセックスを愉しんできたエリカが、結婚をゴールとして捉えてはつまらないかもしれない。エリカのファンだということは、読者は自分とエリカを重ねているということでもある。仕事は続けるとはいえ、瞬の妻として、ただリッチでおしゃれで幸せな結婚生活を送るのでは、物足りないだろう。エリカは読者にとって憧れの対象だが、容易に嫉妬や憎悪の対象にもなりうる。だから幸せを脅かす男の存在は必要だ。読者はエリカの状況に対し『ざまあみろ』という気持ちと『かわいそう』という気持ちを同時に持つ。それは読者の心を掴むはずだ。脅されて堕ちるのではなく、さらに靱く、エリカらしく振る舞う。どうだ? エリカならどうする」
藤倉の口から「セックス」という言葉が出たことで、萌々花は心臓が飛び上がりそうなほど驚いた。
いや、驚いたというのとは違う。藤倉の声で聴く「セックス」と言う単語がとても生々しく、萌々花自身の性体験を暴かれそうな気になったのだ。しかも、「どうだ?」と藤倉は萌々花の瞳をのぞき込むように答えを求めている。
萌々花は手のひらにイヤな汗がにじみ出すのを感じ、しどろもどろになりながら答えた。
「え、あ……、あのですね。コミック最新刊の表紙では、エリカの首を絞めようとする手が、背後から回って来てます。脅迫してきた横溝の手なのか、エリカの浮気を疑う瞬の手なのか、それともまた別の男なのか。『ルベ燃え』は、エリカが結婚したことでハッピーエンドなのではなく、ここから少しサスペンス要素を含んだ新章突入、みたいな展開にすることも視野に入れたいです」
あと数回で連載終了と思っていたものが、今後もまだ続くことになったのだ。萌々花は思いついたばかりの案を、どきどきしながらも思い切ってみんなに伝えてみた。
エリカのブランドイメージというものがある。
ここまでの内容や築き上げてきたストーリーもあるが、萌々花は予定調和では終わりたくないという想いが、自分の中で強くなるのを感じていた。
「ルベライトは、みんな知ってる通り赤い宝石です。和名は『べにでんきいし』。愛情を豊かにするとか希望とか、いくつかの意味があるけど、色が薄いとそれはピンクトルマリンとなり、価値も急に低くなる。とても希少な赤い石なんだよね、そんなに高価なわけじゃないけど。過去の不倫をネタに横溝から脅されて、エリカの価値が下がったと思いきや、そんなことずるずる続ける気なんかない。そこであたしが思いついたのは、横溝を突っぱねるために出掛けた待ち合わせ場所で、横溝が死んでて……っていう、いや、これも短絡的か。ていうか『ベリィ・タルト』には相応しくないですか……ね?」
萌々花が突発的に出した「サスペンス展開」に、藤倉は腕を組んだまま目を閉じて鼻息だけで反応した。
「それで? そのあとはどうするつもりだ」
藤倉の瞳には厳しい色が現れていた。思いつきの行き当たりばったりみたいな案、やっぱり却下だよね……と萌々花は下を向いてしまいたくなったが、この漫画は自分の作品なんだ、という想いが急に沸き上がり、胸を張って力強く藤倉に訴える。
「たったいま思いついたばかりなので、その後の展開はまだノープランです。でも、藤倉さんがサスペンス路線にOKをだしてくれるなら、死ぬ気で考えます。『ベリィ・タルト』にはそういった要素の作品はありませんが、あたしが最初のひとりになって、よりバラエティ豊かな漫画誌になれば、それはとても嬉しいです」
言い終わった萌々花の呼吸は、なぜか荒くなっている。
藤倉に対し、思い切ったことを提案した自分を褒めてあげたいような気持ちでもあったが、それよりも恐ろしさの方が優っていた。
「サスペンスか……。これはチームが一丸となってストーリーを練る必要があるぞ。お前ら、ついてこられるのか」
突然あらたな展開に変更して進めてゆくのは、とても大変なことだ。
新しい領域を探るという作業は、時間も気力も労力もかなり削られる。だが竜樹と彩にとっては、萌々花の提案を隊長が認めてくれた! という嬉しさの方が優っていた。
「じゃあ隊長! 決まりですね!」
「ドキドキするけど、がんばります!」
竜樹と彩は、椅子に座ったまま顔を見合わせてハイタッチをしている。
萌々花はというと、あまりにも藤倉がすんなりと許可してくれたことに拍子抜けしたようにぼんやりしていた。
「おい、大丈夫か。お前が言い出したことだぞ」
顔の前で開いた手を振られ、萌々花ははっと正気に戻る。両手で頬を軽く張り、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「藤倉さん、ありがとうございます!」
やっとそれだけ言うと、萌々花はふたたびぼーっとした顔に戻る。
「先生、俺、なんだかめっちゃやる気出ました!」
「私もです! ワクワクしちゃう!」
ふたりの可愛いアシスタントは、握った拳を身体の前で小さく振り、楽しみで仕方がないという顔をしている。
そうだ、竜樹と彩がこんなにもやる気を見せてくれているのだ。自分がもっとしっかり二人を引っ張っていかなければ、と萌々花も拳を握って気合を入れる。
「彩ちゃん、竜樹くん、改めてよろしくね。エリカの新しい魅力をどんどん出していこう」
三人で頷き合い、そして藤倉へと視線を移す。
藤倉も気持ちをあらたに、新展開を迎える『ルベ燃え』に期待しているようだった。




