第31話 宮野可憐
穏やかに晴れた早朝の空には、刷毛を走らせたような筋状の雲が見えた。くっきりと青い空に、透けるような淡い白のコントラストが目に染みるようだ。痛みを感じるほど冷たい空気に、耳輪が一瞬で硬くなったような錯覚さえある。
「ぎゃー、耳がちょちょぎれるぅ」
ニットの袖を引っ張って指先まで伸ばすと、そのまま耳を両手で覆った。玄関ドアからポストまでは、萌々花が大股で歩いて五歩か六歩。
そんなに寒いならコートを着てマフラーを巻いて出ればいいと毎年思うのだが、それっぽっちの距離のためにわざわざ装備を整える気にもなれなかった。
「一瞬で、取って戻る」
口の中でぶつぶつ言いながら、飛び石を渡るようにポストまで急ぐ。ゆるく吹きつける風は、そんな萌々花のやわな防寒装備を嘲笑うように襟もとから侵入した。
「うぎゃーっ、空気が冷たい!」
耳から手を放し、ニットの袖で覆った手のひらを首に巻き付けると、今度は両耳が一瞬で熱くなる。
それほどに外の空気は冴え冴えと冷たかった。
ポストを開ける指先が、心なしかかじかんでいるようだ。実際にかじかんで動きが鈍くなっているのか、それとも自身の過剰ともいえる演出めいた動作がそう感じさせるのか、とにかく萌々花の指先の動きは鈍く、ポストの扉についたツマミを三度も持ちそこなった。
「うぅ~、寒いと焦るぜ。今年はどのくらい来てるかな~っと」
萌々花は毎年、この瞬間を楽しみにしていた。ポストを開け、輪ゴムで括られた数十枚の年賀状を取り出す元旦。
つい数時間前までは「昨年」だったというのに、どこか新鮮で清々しく、空気が違うように感じるのはなぜだろう。
新しい年の早朝にふさわしい、美しい空の色をもう一度見上げ、萌々花ははがきの束を掴んで玄関へと走った。
リビングテーブルに年賀状を置き、キッチンでお茶の用意をしている千鶴子に声をかける。
自分宛てのものと千鶴子宛てのものをより分けて二つの山にすると、萌々花は自分宛てのものにざっと目を通した。
彩からは毎年かわいい干支のイラスト入りのものが届くが、作画は彩自身ではなく、市販のイラスト素材だ。
彩が描く『ルベ燃え』の背景は、繊細で緻密で美しく、まるで実写映画を観ているような奥行きすら感じさせるまでに成長したが、人物でも動物のキャラクターでも、とにかく本人は生き物は苦手だと思っている。
だから描くことを避けるし、当然いつまでたっても上達しない。
あの素晴らしい背景に、生き物を描き込みたいと思わないなんて、萌々花には不思議でならない。
あんなに漫画が好きな彩なのに。もっと気を楽にして絵を描けるようになればいいと、萌々花は願っていた。
竜樹からは、今年も華やかな振り袖姿のエリカが届いた。
自分が生み出したキャラクターを、こんなにも大切に想ってくれるスタッフに恵まれ、萌々花は自然と笑みを洩らしていた。
小学校からの友だちや、中学、高校、大学時代それぞれの友人、すでに家庭を持ち、子育て中の何人か、光迅社、作家仲間、行きつけの美容院と、今年も代り映えのないラインナップだと思ったが、その中に見覚えのない筆跡のものが一通混じっていた。
光迅社の社員が使用する年賀はがきだが、表面の差出人の欄には「編集部」まで印刷されたあとに「藤倉一臣」と手書きされている。あわててもう一度裏面にすると、新春を寿ぐ祝詞の下に、『一位を取れ』と力強い筆致で記されていた。
そのメッセージを見た萌々花は、改めて『ベリィ・タルト』作家陣と戦わなければならないのだと、複雑な思いでソファの背に身体をあずけた。
クリスマス会の翌日、『ベリィ・タルト』二〇二一年二月号が発売された。
SNSでの反応はまずまずで、年末までに届いたアンケートからも、『ルベ燃え』が五位以内に入るのは間違いないだろうとのことだった。
毎月末にアンケートの集計結果が出るが、年末年始は光迅社も休業のため、一月は四日に判ることになっている。それでも原稿の〆切日は変わらないので、作業は早め早めにしておかなければならない。
萌々花チームの仕事始めは明日で、いつものように藤倉からネームのOKが出次第、下描き、ペン入れと進めていく予定だ。
前半部分はすでに全員が確認済みで、下描きも四ページ分は出来ている。彩がすぐに背景を描けるよう、今日の内にペン入れをしてしまおうと、萌々花は立ち上がる。
漫画家に正月気分を楽しむ暇はないのだ。
「あら百々花、もうお仕事なの? そろそろ朝ごはんを作ろうと思ったんだけど」
コーヒーカップを流しに置いて、仕事部屋に向かおうとする萌々花を、千鶴子の声が追いかけてきた。萌々花は、少し考えたあとに答える。
「うーん、ごはん食べたら眠くなっちゃいそうでさ……。でも、やっぱり食べようかな。力つけないとね!」
「ふふ、百々花の好きなあれ、今年も作ったわよ」
千鶴子が重箱の蓋を開けて萌々花に見せた。
「わぁ、パパの栗きんとん! それに、今年はフレンチ風にしたんだね。美味しそう」
「パパの栗きんとん」とは、秋のうちに丹波の栗を使ってコンフィを作っておき、それを密閉瓶で保存しておいたものをブランデーで香りづけし、洋風のきんとんに仕上げたものだ。
丁寧に皮をむいた大粒の栗を、繰り返し砂糖を足しながら何日もかけて火を通す。じっくりと煮含められた砂糖は蜜のようにこっくりとした甘さと艶をだし、柔らかく芳醇な栗のコンフィができあがる。
たくさんの美味しいものがぎゅっと詰まった重箱を前に、「この栗きんとんにはまだ手を出すなよ」と父は毎年言っていた。好きな食べ物を最後に楽しむタイプだった父は、萌々花に念を押しながらも千鶴子の料理を独り占めする嬉しさを噛みしめているようだった。
「これを朝から頂くのは勿体なさすぎる気がする。ちょっと仕事したご褒美にするよ。今はお茶漬けにして、お昼にゆっくり味わいたいな」
「そう、わかった。じゃお昼にふたりでいただきましょ。百々花は本当にお仕事が好きね。最近は藤倉さんがいるから、余計張り切っちゃうのかしら」
千鶴子はおそらく、藤倉の仕事に取り組む姿勢のことを指して言ったのだろう。
言葉や態度は厳しいが、それは作品に対する愛情と責任ゆえのことであると。
だが何を勘違いしたのか、萌々花は頬を赤くして黙ってしまう。
「明日は彩ちゃんと竜樹くんも食べに来るでしょ? 別のお重にもうひとつ作ってあるからね」
言いながら、千鶴子はお茶漬けの準備をしにキッチンに入っていった。
クリスマス会の際、藤倉から思いがけないプレゼントをもらった。ファンレターのためのレターオープナーだ。
それは取材で訪れたブライダルサロンで萌々花が見とれていたものだった。藤倉はそのことを憶えていて、後日一人で買いに行ってくれたのだろうか。
チームの三人が帰ったあと、萌々花は改めて自分が描く絵と向き合った。
デビュー作が掲載された『レモネード』本誌は、何度も手に取ってページを捲っているため、四隅が少し傷み始めている。
いくら大切に扱っているつもりでも、この十年の間に何十回も開いた雑誌は、そこに堆積した萌々花のあらゆる感情が染みつき、実際よりも重く感じられるほどだ。
その雑誌の中央に位置した自身のデビュー作のヒロインを見つめる。それから今月号のエリカを見た。
デビューした頃に比べれば、もちろん画力は上がっている。ストーリーもそれなりに強弱のついたものであると自負している。
藤倉の指摘のお陰もあり、作品は客観的に見ても断然面白くなった。だからいきなり順位が上がったのだ。あのまま常に上位にランクインしている作家になれば、濱永リナはもちろんのこと、宮野可憐と肩を並べる作家になれるということだ。
『一位独走ですよ!』
みんなにはそう宣言した。だが萌々花は、「あの」大御所・宮野可憐を抜いて一位になれるなど、まだ到底思えない。そして、それはまだプロ歴十年の自分がしていいことなのか、とも思う。
せっかく夢の漫画家にになれたのに、描くことが楽しくなくなったら、それはもう遠山萌々花の作品である意味がない、とも。
宮野可憐は、たしか今年でデビュー三十七周年。「二年だけ」という約束で、『ベリィ・タルト』に『君よ、咲き誇れ』を連載中の「少女漫画界の巨匠」といわれる実力者だ。
女の子ならだれでも一度は読むであろう『レプレ』本誌でデビューし、近年は光迅社専属で連載や読み切りを描いていた。
漫画好きでなくとも、宮野可憐の名前と、その絵柄はほとんどの人が知っているのではないかというほど、業界を長く支えてきた人物だ。
当然萌々花も、小学生の頃から宮野可憐の作品には触れており、正直、同じ雑誌に自身の作品が掲載されていること自体が不思議な気さえする。
不動の一位・宮野可憐。
彼女をその座から引きずり降ろし、クリスマスの約束は果たせるのか、自分の作品にどれだけの魅力があるのか、萌々花はやっとエリカを大舞台に立たせることが出来たばかりだ。
そして何がおもしろいかを決めるのは、常に読者だ。漫画家を何年やっているかなど関係ない。
萌々花は雑念を払うように首を振り、再び椅子についた。




