第3話 新編集者はクソチビ男
すると玄関から彩の明るい笑い声が聞こえる。続けて、千鶴子の慌てた声。
「あれっ、なにママ、もう帰ってきたの?」
友だちとオペラ鑑賞をしてくると出かけた千鶴子が、靴を脱ぐのももどかしそうに二階へ上がっていく。
「そんなわけないじゃない。チケットを忘れちゃったのよ。やあねぇ、間に合うかしら」
お嬢さま育ちでのんびりした千鶴子は、焦っている時でもその動作はゆっくりしている。秋らしいこっくりとした色合いのワンピースにジャケットを合わせた姿は、萌々花に授業参観日の千鶴子を思い出させた。
「ママ、チケット見つかった?」
階段の下から二階に声をかけると、千鶴子はピンク色のチケットをひらひらさせながら降りてくる。
先週出かけた『トリスタンとイゾルデ』は、悲恋もののオペラだからか、そのチケットは深海のような青だった。今回のチケットがピンク色だということは、明るい話なのだろう。その方がいい、と萌々花はこっそりと思う。悲しい芝居を観たりすると、帰宅後も千鶴子はその余韻に浸り、ふとしたきっかけで涙ぐんだりするのだ。
萌々花は、多感な少女のようなメンタリティを持ち合わせる母を尊敬しているし、可愛らしいとも思うのだが、テーブルをはさんでコーヒーを飲みながら、急にはらはらと涙をこぼされると困ってしまう。そんな千鶴子には、明るく楽しい話の方が合っていると思う。
「早くバッグにしまった方がいいよ。なくさないようにね」
「わかってるわよ。百々花って小姑みたい」
千鶴子が萌々花の名前を呼ぶときは、本名の字である「百々花」で聞こえるから不思議だ。何が違うのだろう。名前を付けた本人が呼ぶ「ももか」には、特別な想いが込められているのだろうか。
おっとりした動作ながらも、本人は急いでいたらしい千鶴子が去ると、萌々花と彩と竜樹の三人は軽い疲労を感じた。同時に「ふぅーっ」と息をつき、顔を見合わせて笑う。チームのこんな些細な出来事の中に、今までは河村もいたのだ。
その河村とは、もう二度と原稿を挟んで意見をぶつけ合うこともない。今日からは新たな担当者とともに、『レモネード』復帰をかけた戦いが続くのだと思うと、萌々花は改めてこのふたりのアシスタントを宝物のように想った。
いや、ちょっと待てよ。そもそも新しい担当者は、萌々花と河村が『レモネード』に復帰することを目標にしていると知っているのだろうか。河村は、申し送りをしてくれたのだろうか。『ベリィ・タルト』一筋のような編集者だとしたら、また話は違ってくる。
萌々花の胸に、小さな不安が芽生えてきた。考え込んでしまいそうなところへ、彩のキャッキャした声が聞こえる。
「千鶴子さん、今日も綺麗でお可愛らしいですね」
彩が頬に手を当て、溜め息をつきながら言う。彩によれば、千鶴子は理想的な歳のとり方をしているらしい。
「そう? あたしには浮世離れしすぎてるように見えて危なっかしいんだよね」
「でも、頭脳明晰で若々しくて、綺麗ですもん。自慢のお母さまじゃなかったですか?」
彩の言葉に、萌々花はうーん……と考えてみた。
確かに参観日など、学校で会う千鶴子はクラスメイトの母親たちと雰囲気がちがっていて、それは子ども心に嬉しかったのだが、担任との三者面談の席では、なにかがズレているという印象だった。具体的にどこが、とは言えないものの、一般的な母親たちとは何か根本的にズレているような気がして、早く終わらないかと萌々花はいつもハラハラしていた。
大人になったいま思うと、それはきっと「いい意味で」のズレだったのだろうが、当時の萌々花は漠然とした不安を抱えていたものだ。
突然そんなことを思い出し、萌々花は、千鶴子とふたりの今の生活をあらためて大事にしようと思う。
ところで、新しい担当者はまだ来ない。河村によると、もうこちらに向かっているらしいのだが、一体どこで寄り道をしているのだろう。「新しい編集さん、遅いっすね」と、エリカの足の指が反り返るアップの爪を描き込みながら竜樹も言う。
「つか、河村さん、その人の名前も言ってなかったんでしょ?」
原稿から顔を上げ、竜樹もやや不安な表情を見せた。
「編集部に電話して、その人の携帯番号を訊いたらどうでしょう。迷子になってたら大変」
彩がポン、と手を叩きながら萌々花に向き直ったとき、ふたたび玄関のチャイムが鳴らされた。
「今度こそ、その人ですよね。はーい!」
ジーンズをはいているのに、スカートをひるがえすような仕草をして、彩が廊下へ走り出る。彩も、待ちくたびれてイライラし始めているのだ。来客を待っている状態では、本格的に仕事に取り組むことが出来ない。いつ中断されるかわからない状況で集中力を持続させるのは、誰にとっても苦痛に近い。
「せんせーい! 新聞屋さんでした~! 集金ですってよ。まったく、新聞もまだカード払いにしてないんですね? ていうか、いまどき新聞なんかとる必要ないじゃないですか。ネットでニュースなんていくらでも見られるんですから」
玄関で「せんせーい」と大声を出し、そのあとの台詞は廊下をだんだん近づきながら聞こえてきた。
怒っている。彩は明らかに怒っていた。長くはない廊下をドスドスと踏み鳴らしながら近づいてくるのだ。自分が雇っているアシスタントに、なぜこんなことで怒られなければならないのかと、多少の不条理を感じながら、萌々花はバッグから財布を取り出して玄関へと向かった。
もちろん彩とすれ違う時は、片手を顔の前で立てて拝む仕草をし、「ごめん!」と小声で謝る。雇っているのは萌々花だが、彩の言うことはいつも正論なのだ。
「あぁー、なんだよ、新聞屋かよ。彩ちゃん、ごめんね。口座振替の申し込み用紙もらったから」
メモ用紙の切れっ端のような、ショボい領収書をひらひらさせて仕事部屋に戻りながら、萌々花は本当に新聞購読をやめようかと考えていた。
「あ、じゃあ彩ちゃん、編集部に電話かけてみてくれる?」
初っ端からこんなに遅刻されてはたまらない。しかも連絡もないとなると、漫画家と担当編集者としての信頼関係を築けるのかさえ怪しくなってくる。今どき携帯を持ってないヤツなどいるわけがない。ましてや漫画家の仕事場に出入りする編集者なのだ。小まめに、密に連絡を取れなくてどうする。
仕事部屋の中は、心なしか殺気立っている。人の好い萌々花は、ふたりのアシスタントが仕事をしやすいよう、なんとかこの場を和ませたいと焦っていた。コーヒーでも淹れてあげようか――。
そう思った時、三たびのチャイムが室内の空気を震わせる。
彩がよっこらしょ、と聞こえてきそうな仕草で椅子から腰を上げる。
竜樹が彩をチラリと見遣り、萌々花にアイコンタクトをとって自分が行きましょうか、と反応を待つ。
だが萌々花は、そんなふたりをねぎらうように素早く部屋のドアに手をかける。
「あっ、いい、いい。また違ったら彩ちゃん発狂しそうだから、あたしが出るよ」
そう言って、萌々花はふたりに椅子に戻るよう手で合図する。
「やだ先生、私はやさしいんですよ」
唇を尖らせて笑う彩に、萌々花は軽い笑顔を返しながら玄関に進んだ。
今度こそ。今度こそ担当様でありますように。どうかお願いします、と念じながら玄関へと向かう萌々花の背中に、竜樹と彩の視線が突き刺さるようだ。物理的に痛いとさえ感じる中、短い廊下が何倍にも長く感じる。
殿中でござる、殿中でござる、と口の中でブツブツ唱えながらすり足で素早く進むと、玄関マットを踏み、沓脱にあるサンダルをつっかけ、ロックを外してドアノブを握る。
さあ、やっとご対面だ!
萌々花は晴れやかな気持ちで外に大きくドアを開いた。
視界には、さっきと同様に真っ青な空が広がっていた。違うのは、萌々花の鼻孔を金木犀の香りがふわりとかすめたことだ。
あぁ、この香りはさっきの金木犀だ。そしてこれを感じた時に見たものは――。
そうだ、リュバンドールで会った、あのクソチビ野郎だ。
萌々花の脳裏に、「貴様が悪い」とあの声が響いた。くそっ、なんでまた思い出すんだ。
視界には、相変わらず青い空が広がっている。
ふざけんな、ピンポンダッシュかよ……。チッ、と小さく舌打ちをした時、低い位置からあの声が聞こえた。
「おい、貴様ふざけてるのか」
下から腕が伸びてきたと思ったら、リュバンドールの黒い箱が目の前に突き出された。
えっ? なに? どうなってんの?
「河村から連絡があっただろう。今日から担当になった、光迅社の藤倉だ」
えっ? えぇぇ―――っ!
さっきの男じゃねえか!