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第23話 ドキッ☆漫画家だらけの健康診断

 案内された部屋には、上下に分かれた幅の狭いロッカーが六個置かれている。貸し出された検査着と自分のバッグを持ってその部屋に入った萌々花は、小さな扉を開けてうんざりした。


――そうだった……。ここのロッカーは小さいんだよ。夏ならいいけど、冬にこの狭さじゃ厚いコートとか入らないじゃん。あぁ、あたしってバカ。ブーツなんか履いてこなきゃよかった。


 扉の内側に小さな鏡さえついていない簡易ロッカーだ。コートを脱ぎ、薄手のニットとスカートを脱いで、できるだけ小さく畳んで中の棚に置く。その上にバッグを置き、ストッキングとブラジャーをポーチに入れて載せる。

 それから棚板手前のスペースに、備え付けのスリッパと入れ替えにブーツをしまうのだが、高さのないロッカーなので履き口が天井に当たってしまうのだ。

 しかも、ストッキングを脱いだ裸足で、たくさんの人が履いた使い古しのスリッパを履かなければならない。

 前回、それで気持ち悪い思いをしたので、つぎはマイスリッパを持ってこようと心に決めていたというのにこの体たらくだ、と萌々花は溜め息をつく。

 仕方がないので、バッグからウエットティシュを取り出してスリッパの内側を拭いた。いくらかさっぱりしたところで、渡されたベージュの検査着に袖を通す。上下が分かれ、ボタンではなく前身ごろを重ねて紐で結ぶ形は、ちょうど甚平のようだった。


 着替えを済ませてカルテの入ったファイルを受付に提出すると、じきに看護師に呼ばれた。まず尿検査のためにトイレにいき、そのあとに身体測定や心電図などを受ける順序になっているらしい。



 大きく息を吸って、すべて吐き切ってから体重計に乗った。

 身体の中の空気を出し切ったところで、それが重さに反映されるわけがないとわかっていても、やはりできるだけ少なくしたい。

 デジタルで表示された数字は、萌々花の日々の積み重ねを表したものだといえる。過去最高値は脱したが、それでも長年の目標からは程遠い、今日も六十キロ越えだ。


「はい、いいですよ~。次は身長ですね」


 看護師がカルテに数字を記録する。それを横目に見ながら身長計に移動し、少しでも小さく記録されたいとの思いで背筋を伸ばさずにいたが、プロの目はごまかせなかった。


「柱に背中をぴったりつけてください。真っ直ぐに。軽くあごを引いて――百七〇、二センチ。去年と同じですね。次に採血をしますので、こちらの椅子でお待ちください」


 看護師はボール紙に「採血」と書かれた札がかかっているエリアを指し示す。萌々花は計測結果にがっかりしながら応える。


「はい、ありがとうございました」


 今年も百七十センチを切れなかった。萌々花は看護師が去ると肩を落とし、そのまますすすっと摺り足でパイプ椅子に近づき、腰をおろした。




 あの日、別の作家のところへ行くと言っていた藤倉から「健康診断のお知らせ」と書かれたプリントを去り際に渡されたとき、また今年も来た、と思った。


 光迅社では毎年十二月から三月までの四か月間、毎月三日ずつ、計十二日間の「健診日」を設けており、それぞれのスケジュールに合わせていつ検査を受けてもいいというシステムになっている。

 社員は全員が受診するよう義務付けられているが、作家はあくまで「推奨」だ。

 費用はすべて光迅社が負担してくれることもあり、「せっかくだからこの機会に」、と受診する作家は多いようだ。

 特に週刊連載を持っている漫画家は、体調が芳しくないのに無理をして仕事に打ち込んでしまうことが多く、こうした福利厚生がしっかりしていると、病気の早期発見につながるので意義は深いといえる。


 毎日原稿で忙しいのに、自分で予約を取ってまで健康診断を受けようとは思わない。

 萌々花は、現在のリアルな身長、体重、腹囲などを数字で見たくないとの思いで、毎年十二月に配られるプリントに恐怖を感じているが、イヤなことを先送りにしていると、あっという間に三月が終わってしまい、健診を受けそびれてしまう。

 だから今年も年内に済ませておこうと、光迅社指定の提携病院である、ここ『神楽坂メディカルクリニック』にやってきたのだ。



 この健診が終わったら、クリスマスケーキもチキンもちゃんと食べて、今年も健やかに晴れやかに一年を終えるのだ、ともう気分を入れ替えている萌々花の目の端に、男性らしき人物が入った。自分と同様に、身長、体重を計測中のようだ。


 初日の今日から三日間、『神楽坂メディカルクリニック』のこのフロアは光迅社の関係者が多く来院しているはずだ。

 もちろん一般の受診者も相当数いるだろう。男女とも同じ色、同じデザインの検査着を着用しているが、私服という個性をはぎ取られた人たちは、なんとなく居心地が悪そうで、心なしかコソコソしているように見えた。


 特に女性は胸部X線撮影のためにブラジャーを外しているので、待合室や採血、心電図撮影など、男性と別室にするのが無理でも、せめてカーテンかパーテーションで仕切ってほしいと思う。

 来年は着けたままでX線を受けられる、金属を使っていないブラジャーをしてこようとは、去年も思ったことだ。


 さらに、計った結果を声に出しながらカルテに記入するのも勘弁していただきたい。特に身長、体重、メタボの目安である腹囲という個人機密は、誰にも知られたくない人だっているのではないか。

 かくいう萌々花も、身長の高さで「巨大女」とからかわれた苦い過去があり、いまだにコンプレックスの名残は胸に小さな傷として残っている。


 顔見知りの編集さんとは会いたくないな、と思いながら何気なく横目で計測機の方を見ると、そこには真面目な顔をして身長計に乗っている藤倉の姿があった。


 ふ、藤倉さん!?

 思わず声を上げそうになった。萌々花は見ては悪いと思い、顔を反対側に逸らす。向こうは萌々花に気づいていないようで、顔を正面よりもやや上に向け、背筋を伸ばしている。


「一六一センチですね。次に採血……は、ちょっと混み合っているようなので、先に心電図をとりましょう。こちらへどうぞ」

「はい」


 いつもの藤倉らしく、無表情のまま看護師の指示に従っている。身体計測の後は採血という順序になっているなら、藤倉もこのあたりで待機するはずだ。

 並んだパイプ椅子はいくつも空席になっているが、もしも隣に来られたらどうしよう、と萌々花は気が気ではない。

 だが勝手にドキドキした萌々花の横を、看護師に先導されて藤倉が通りすぎる。空いた椅子をいくつか挟んだ距離を、いつものスーツ姿ではない藤倉がゆく。萌々花と同じ色、同じデザインの検査着を着た藤倉は少し幼く見えた。



 採血が混んでいるので、先に心電図をとるのだろうか。ほっと胸を撫で下ろした萌々花は、なぜだかわからない寂しさのようなものを感じながら、今度は俯いて藤倉の様子を盗み見た。


 看護師の後ろを歩く藤倉は、襟なしの検査着からすっきりとした首筋を晒している。カルテの入ったファイルを左手に持ち、右手を拳ににぎって小さくガッツポーズをしたようだった。

 何か嬉しい変化が藤倉の身に起きたのだろうか。

 藤倉が光迅社の社員になって、きっと今年が初めての健康診断だろう。去年は今までの職場で受けたか、あるいは何年かは受けていなかったのか。

 いずれにしろ、こっそりガッツポーズをするような変化があったのなら、それは萌々花にとっても喜ばしいことだ。藤倉もすっかりチーム萌々花の一員なのだから。


「あの~、すみません。もしかして、遠山先生ですか?」


 藤倉の姿が見えなくなって、椅子に座り直したとき、横から突然声をかけられた。驚いてそちらに顔を向けると、そのぽっちゃりとした人の好さそうな女がわぁっと微笑んだ。


「びっくりさせちゃいましたね。私、べにいもです~。『ベリィ・タルト』で『つゆと蜜』という四コマを描いてるんですが、読んでくださってますか? 私、遠山先生の大ファンなんです」


 人の好さそうな笑顔を崩さず、しかしべにいもはファンを自称する人間特有の押しの強さで、萌々花の隣のパイプ椅子に腰をおろした。


「え、ええ、毎月拝見しています。ありがとうございます。よくわかりましたね」


 嘘ではない。『ベリィ・タルト』に掲載されている漫画は、連載も読み切りも四コマも、毎月すべて読んでいる。

 べにいもの作品は、夫婦や恋人同士、あるいは社内不倫中の男女などさまざまな人物が登場し、全員がある場所を利用しているという群像劇のかたちをとった漫画だ。

 四コマらしいデフォルメされた姿の登場人物たちが、ほのぼのとした日常を送りながらも、愛欲にまみれたドロドロの修羅場を見せる。その内面の描写が生々しすぎて入り込めないと、萌々花には思わせた。


「遠山先生がスイーツ大賞の審査員をされたことがありましたよね。その時に誌面でお写真を拝見したんです~。お綺麗な方だなぁと思いまして、忘れられなくなりました。漫画家は見た目がアレな人も多いですからね~」


 「見た目がアレ」とは自分のことを言っているのか、と萌々花は不思議そうにべにいもの全身をこそっと見るが、それでもべにいもは楽しそうに笑っている。徐々に大きくなるその声に、萌々花はいつ「静かに!」と注意されないかとそわそわしながら、べにいもの話を聞いていた。


「今月号は本当に素晴らしかったです。私も一生に一度はウエディングドレスを着てみたいです~。ドレスの取材には藤倉さんと行かれたんですよね?」


 別の作家の口から藤倉の名前が出て、萌々花の胸がズキンと痛んだ。

 藤倉は編集者という会社員だ。仕事として萌々花だけを担当しているわけではないと、一週間前に思い知ったばかりではないか。

 当たり前のことなのに、萌々花はなぜかこたえたくないと思った。このべにいもという女性が、藤倉の担当する作家なのだろうか。一週間前「別の作家のところへ行く」と言った藤倉。それが彼女なのだろうか。ドレスを試着した取材のことを、藤倉が喋ったのだろうか。萌々花はぐるぐると考え、べにいもの問いに「え~っと……、あの……」と口ごもる。


「遠山さん、こちらへどうぞ」


 オロオロしているのを悟られたくないと焦り、手のひらがじっとりと汗ばんできたとき、看護師に名前を呼ばれた。


「あ、はい!」 


 内心では助かったと思いつつ、「すみません、ではまた」と会釈すると、べにいもはにっこり笑って手を振った。


「は~い、また」


 大ファンだというのは本当かもしれない。邪気のないその笑顔に応え、

 萌々花もにっこりと笑って見せたが、さっき感じた胸の痛みがドキドキする鼓動に変わって、やはり心臓は痛いままだ。この状態で心電図を記録されたら、「要精密検査」になってしまうかもしれない。


――落ち着け、萌々花。藤倉さんが彼女を担当してるなら、共通の話題があったばずなのに、うまく話すこともできないなんて……。そういえば、べにいもさんて四コマの作家さんで初めて十位にランクインしたんじゃなかったっけ。

 それならやっぱり、彼女の担当はきっと藤倉さんだ。あたしだって、十位くらいからいきなり四位に上げてもらったんだもん。今さらだけど、藤倉さんて何者なの……?

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