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第22話 お前の人生だ

 いくつかのラフを手描きして、スキャンしたものを光迅社の藤倉宛にメールで送信した。

 藤倉からは五分ほどで返信があり、「直接見て確認する。いつがいい」と訊ねられたので、萌々花はメールでのやりとりなのに、スマートフォンの送話口を手で押さえ、ふたりのアシスタントに明日でいいかと訊いた。


 藤倉にネームの第一稿を見せるのは一週間後の予定だったが、それよりずっと早くに会えることになったと、彩はにっこり笑って頷き、竜樹は両手をあげて喜んでいる。

 竜樹と彩はもうこんなに藤倉に懐いているのに、あたしはなんでこんなに緊張してるんだ、と萌々花は自分が滑稽に思えて可笑しくなる。


『では明日、正午頃にお待ちしております。よろしくお願いいたします』


 メールを送信し終えると、隣に千鶴子が立っていた。


「新しい担当さん、藤倉さん……だっけ。下のお名前はなんていうの?」


 不思議そうな顔をしながら訊ねる千鶴子に、なぜそんなことが気になるのかと思いつつも、萌々花はドキッとしつつ答える。


「えっ? か、一臣……だったかな……?」


 はじめて藤倉のファーストネームを口にして、萌々花は顔が赤くなるのを自覚した。


――しかも、どもっちゃったじゃないか! やだ、どうして?


 初めての入稿の日、倒れそうになったところを藤倉にやさしく抱き留められてから、頭を撫でられてから、そしてブリクサの動画を見てから、どうにも藤倉のことが気になって仕方ないのだ。


「かずおみ……。気のせいかしら。どこかで会ったことがあるような気がするのよねぇ……」


 天井を見上げ、記憶を辿っているような千鶴子に、彩は言う。


「千鶴子さん、きっと『片翼の悪魔』ですよぅ! 先生と一緒にご覧になってません?」


 彩は、自身のスマートフォンに保存してあるブリクサのイラストを、いくつか千鶴子に見せる。千鶴子は、あら~と言いながらそれをのぞき込んだが、なんとなくすっきりしないようで、ずっと首を傾げている。


「そうね、そっくりね。これは藤倉さんがモデルなの?」


 千鶴子ののんびりした声で、核心をついたような発言がなされ、チーム萌々花は一瞬固まったが、すぐに三人同時に「ないない~」と言って笑った。

 だが、それぞれの頭の中には小さな疑惑が生じていた。あんなにもブリクサの台詞がキマるなんて、もしかしたらもしかするかもしれない、と。


「私の気のせいよね。百々花ったら河村さんが辞めることになって、すごく落ち込んでたみたいだったから心配してたの。楽しくやれてるならよかったわ。ねぇ、そろそろお茶にしない? お紅茶とコーヒー、どっちがいいかしら?」

「私、コーヒーお願いします!」

「俺は紅茶で!」

「ママ、ありがとう。あたしも紅茶」


 千鶴子はひらひらと手を振りながらキッチンへ向かっていく。娘がどんな漫画を描いているのかさえよく知らない母親だが、娘の変化には敏感なのだ。

 萌々花は、支えてくれる人が常に周りにいることに感謝し、そんな人たちのお陰で、十年も漫画家を続けてこられたのだと思った。




 その夜、彩と竜樹が帰ったあと、萌々花はラフのスキャン画像に色を塗っていた。五パターン出したうちのいくつか、あるいはまた全部がボツだと言われるかもしれないが、ざっとでも色をつけておいた方が、藤倉が意見を出しやすいだろうと考えてのことだ。


 再来月発売予定の『ルベライトのように燃えて』第三巻に収録される、十一話から十五話。これにあたる原稿の背景を全部直したいと、彩が申し出た。

 もちろん、一、二巻とのバランスは悪くなるだろう。二巻、三巻と続けて読んだ場合、読者は違和感を覚えるに違いない。だが、三巻の途中から変わるよりはその方が断然いい。


 以前、藤倉が言ったように、このまま『ルベ燃え』の人気が上位をキープし、一、二巻が増刷されることになったら、その時には彩に全部の背景を直してもらい、萌々花も人物の表情やポーズなどを修正できれば、そんなに嬉しいことはないだろう。



 萌々花は仕事部屋の本棚の前に立ち、今までに発行された自分のコミックスの背表紙を眺めた。

 『レモネード』と『ベリィ・タルト』では、微妙に配色やデザインが違っている。『ルベ燃え』の一巻と二巻を抜き出し、ぱらぱらとページをめくった。そして、あることに気づく。藤倉が担当になった初日、その時に指摘された「72番」、薔薇のトーンが、回を重ねるごとに多くなっているのだ。

 セックスシーンでのエリカの喘ぎ顔についても同様だった。

 そんなことは言い訳にもならないが、一回一回〆切をこなしていたので、自分ではまったく気づけなかった。刷り上がったコミックを手に取って読んだときも、気恥ずかしさが先に立ち、適当に読み流していたのだ。

 なんという無責任さだったのかと、自分が嫌になる。

 竜樹、彩、そして藤倉のお陰で、自分の作品への愛情と責任感が深まったいま、見比べると一目瞭然だ。

 萌々花は慄然としてコミックを手から落としてしまった。これは一体、どういうことなのか……。


 萌々花はショックを受けたが、一、二巻を本棚に戻すと、三巻の表紙に集中しようとパソコンに向かう。彩色しているうちに、そのショックを忘れたいと思った。いまは、『ルベ燃え』の第一話からを見直す時期ではないからだ。


 藤倉に送信した、ウエディングドレス姿のエリカのラフ。萌々花は取材させてもらったサロンでの、疑似結婚式の写真を参考にしてそれを描いた。

 あの写真をまた見るのは複雑な気持ちだったが、藤倉はどうだったろう。送られてきたラフを見て、あの日のことを思い出しただろうか。


――あぁ、あたしったら、なんで藤倉さんのことばっか……。


 集中できないなら、どうしても今夜中にやってしまおうとせずに、熱い風呂に入ってぐっすり眠ろう。そして、朝になったらまた挑むのだ。




 いつものように、藤倉は正午きっかりにチャイムを鳴らした。

 出迎えた彩は、健司のことで申し訳ないと思っていたのだろう、仕事部屋へ向かいながら、しきりに詫びている。


「野村、そんなことはもういい。それよりお前は大丈夫なのか」


 ひそひそと話しているわけではないので、藤倉と彩の会話は仕事部屋からもよく聞こえた。

 竜樹も顔を上げて萌々花の顔を見る。「あの藤倉さんが、気遣う言葉をかけてます!」と口をパクパクさせているが、驚いたのは萌々花も同じだった。


 藤倉に対する印象は、最悪だった初日の余韻が、まだ長く尾を曳いている。竜樹と彩は、もうとっくにそんなことは忘れているのかもしれないが、何故か萌々花は、素直に話すこともできないし、正面からまともに顔を見ることもできない。

 第一印象は最悪でも、藤倉がチームの一員として申し分なく有能で、信頼できる人物なのは充分わかったはずなのに、それでもなにかが引っかかり、自分をさらけ出すことが出来ないのだ。まあ、担当の編集者に個人的な部分をさらけ出さなければならない、という決まりはないのだが。


「隊長、おはようございます! 一昨日の件、バズったの知ってますよね?」


 竜樹は誰かのツイートのスクリーンショットを画面に表示させ、『片翼の悪魔実写』などのハッシュタグを示した。


「いや……、知らないが。こんなのが出回っていたとはな。くそぅ、だからか」


 昨日も今日も、電車での移動中など、近くにいる者たちからことごとくジロジロ見られたのだそうだ。

 スマートフォンの画面と藤倉を見比べて、驚いた顔をする学生や、チラチラみながら小声で話す者たち。顔に何かついているのかと、下車してから慌ててトイレで確認したそうで、藤倉の慌てた様子など想像もできない三人は、大袈裟に驚いた。


「俺も、一応は社会の一員として生きているからな」


 なんだこれは。藤倉本人は普通に喋っているつもりなのだろうが、いちいち台詞っぽい。まったくおかしな人だ、と思いながら萌々花が三人のやりとりを見ていると、藤倉が真面目な顔をして話しはじめた。


「あえて野村のいるところで言うが、あの伊坂健司はすでに警察にマークされていたそうだ。違法ドラッグの売人として、それから複数の女性からの恐喝やストーキングについての相談があったらしい。だから改札前に警官が来た時、伊坂の名前を聞いてピンときたんだろう。下の交番で少し話をしたあと、ヤツだけPCで連行されていった。俺と清水は交番で調書を取られただけだ。まあ、このあたりは清水から聞いているだろうが」

「あ、いやぁ……」


 竜樹は曖昧に答えてうつむいてしまった。竜樹は、健司が別件でマークされていたとか、他の女性にも彩にしたように付きまとっていたとは、萌々花たちに伝えていなかった。

 ただ、竜樹への暴行容疑で事情聴取され、彩には付きまとわないようにと警官から諭されていたと、そう言っていたのだ。それは、彩をこれ以上傷つけたくなかったからだ。


「竜樹くん……、そんな気を遣ってくれなくていいのに」


 彩が弱々しく笑って言う。そんなどうしようもない男に、三年も前に別れた男に、三十万円の金銭を渡すほどいまだに心配していたという事実を、みんなには知られたくなかった。

 だがそんな恥をも受け入れてくれる、暖かく頼もしいチームだと彩は改めて思い、みんなに感謝の気持ちを伝えた。


「みなさん、今回のことでは本当にご迷惑をおかけしました。そして、本当にありがとうございました」


 そんな彩の肩を萌々花がやさしく叩き、竜樹は奇声をあげて仕事開始を宣言する。藤倉は……持っていた袋の中から苺のパックを取り出し、無言で彩に差し出す。


「えっ……? いちご? ですか」


 戸惑う彩に、藤倉はぶっきらぼうに言う。


「洗って食え。寒い日が続いたから甘くなっているそうだ」


 萌々花と彩、そして竜樹は、見知らぬ生物に遭遇したように固まってしまう。

 藤倉は、表現がとことん不器用なだけで、とても繊細でやさしい人間なのではないかと、いや、そうだということは分かっていたはずだが、とにかく三人はどうリアクションしたらよいかわからず、「はふ」とか「へえ」とかおかしな返事をする。


 真っ赤で甘そうな苺は、彩が冷蔵庫にしまった。



 昨日メールで送ったのはシャーペンでのラフ画だったので、彩色したものをパソコンの画面で表示して見せると、藤倉は驚いていた。瞳にギラリと光が走り、「ほぅ……」と感心したような声を洩らす。


 彩と竜樹も交え、どのポーズが表紙としてのインパクトが強いか、純白のドレスが映える背景色はどれかなどと話していると、やはり竜樹が声をあげた。


「隊長! ドレス姿のエリカのバストアップに、後ろから男の手がこう、エリカの首に巻き付いているのはどうでしょうか? ドレスを出しちゃうと、コミックス派の人にはエリカが結婚することがバレちゃいますけど、それは波乱の幕開けにすぎなくて、この手は誰のものか? とかなぜ首を絞めるような真似を? とか、そんな匂わせ的な感じはどうかと……」

「そうだな、お前はどう思う。お前の作品だ、自分が描きたいようにしろ」


 藤倉の言葉が、つい先日見た『片翼の悪魔』五話の、ブリクサのシーンと重なった。


『お前の人生だ。お前が選べ』


 萌々花は、用意してあった五種類のラフに彩色したものを見比べ、そのうちの一枚を、竜樹のアイディアの通りに描きかえてみた。

 咲き誇るように幸せそうだったエリカの表情は翳り、男の手からは憎悪のような感情すら漂っている。

 目を凝らして見つめ、そして想像する。エリカはこの男に何らかの理由でとらわれ、心の自由を奪われる。今までの奔放で自信に満ち、生きることを愉しんでいたエリカが、初めて味わった挫折や苦悩に自分を見失いそうになっている。

 今後の展開はどうなるのだろう。エリカは性的に搾取され、蹂躙されてしまうのだろうか……。

 赤くふっくらとした唇からは、苦しげな吐息が漏れている。この手の男は瞬なのか? 十一話ではあんなにエリカを愛していた瞬が、こんなにもエリカを苦しめる男だったのか? 


「あー、ちょっと想像したらハマりすぎた。やばいやばい。うん、これにしよう。みんなも、いい?」

「先生、私だったらこれ、ジャケ買いしちゃいます」

「俺も三冊買います。ヲタクは三冊が常識っす」

「よし、決まりだな」


 竜樹のアイディアによって決定した表紙に合わせて、また下書きからやり直すことになった。十六話のネームはまだ数ページ分しかできていなかったが、それを確認すると、藤倉の仕事は一応の終わりとなった。


 「隊長のお持たせですが」と、彩がみんなで苺をいただきましょうと言い、千鶴子がそれに合わせて美味しい紅茶を淹れた。

 家族のティータイムのような楽しい時間を過ごしていると、藤倉はこのあと別の作家のところへ行くと言う。「え~っ」とあからさまに寂しがる竜樹と彩に照れたような顔を見せると、藤倉は紅茶を飲みほして玄関を出た。


 そしてすぐに戻ってきた藤倉に、忘れものでもしたのかと萌々花が問うと、鞄からB5サイズの紙を出して萌々花に手渡していった。萌々花はそのプリントに目を落とすと、「うわ……またこの時期かよ」と渋い顔をして、自身の腹をさする。そして閉じた玄関ドアをぼんやりと見つめ、なぜかわからない、置いてけぼりにされたような心細さを覚えた。


「そっか。藤倉さんだって、別の作家の担当もしてるんだよな」


 まだ腹に手を当てたまま、萌々花は呟いた。河村は三人の作家を担当していたので、いつも忙しそうだった。

 光迅社は慢性的な人手不足で、河村は一体いつ休みを取ってるのか、と訊きたくなるような状態だったと思い出す。

 藤倉が担当しているのは、この中の誰なんだろう、と萌々花はデスク横の本棚から今月号の『ベリィ・タルト』を取り出し、目次を一通り眺めた。

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