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第21話 誰よりもエリカの幸せを願ってる

「はい! もしも~し!」


 画面に現れた笑顔を見て、萌々花も満面の笑顔になった。急いでその電話をとり、相手の声を待つ。


『先生、ご無沙汰してすみません。河村です』

「ご無沙汰なんて、いいよそんな他人行儀な! 急にご実家に帰ることになって、大変だったでしょう。どうですか? 旅館のお仕事はもう慣れました?」

『ええ、実家と言っても、ここに住んでいた頃は家業を手伝ったりはしませんでしたからね。女将修行を一からって、けっこう厳しいです。母からは毎日怒られっぱなしで、せっかく帰ってきたのに、東京に戻ってやろうかと思うこともありますよ~。あ、すみません、私のことなんかより、今日は先生の話がしたくてお電話したんです』


 河村の明るい声を聴くのは久しぶりで、萌々花は泣きたいような懐かしさを覚えたが、実際にはまだ二ヶ月しか経っていないのだ。

 河村が光迅社を辞めると聞いたときは、あまりの寂しさと心細さで、この先も漫画家を続けていかれるのか心配になった。だが河村がいてくれなくても、自分の力で『レモネード』に戻ろうと、それがずっと支えてくれた河村への恩返しだと考え、頑張っていこうと決めた。


 初めて会った藤倉は偉そうで感じが悪く、こんな担当とうまくやっていけるのか不安で、すぐにも河村に会いたいと、恋しくてたまらなかったが、気づいたら彩と竜樹、そして藤倉を入れた四人のチームが出来上がっていたと、萌々花は気づく。


『今月号の「ルベ燃え」、読みました。新展開と新キャラの登場で、これからどうなっていくのか本当に楽しみです。私が担当していた頃にはなかったストーリーが加わるんですものね。急にただのファンに戻ったような気持ちで、自分でも笑っちゃうんですけど、そのぶん純粋に楽しめるから、なんだか得したみたいです』


 河村は、興奮気味にまくし立てた。萌々花にはその顔が目に浮かぶようで、河村が喜んでくれて本当に嬉しいと思った。


「わぁ、ありがとう! 河村さんにそう言ってもらえると自信がつきます。いや、なんか、新しく担当になった人が、初日からものすごく感じ悪くて、イヤ~なヤツだと思ったんですけど、なんとかやってます。安心してください。順位もね、今月初めて四位になったんですよ! 移籍後初の一桁台で、逆にもう、次号からが心配で心配で」


 それは本心だった。もう今までのようにはいかない。萌々花も追われる側になったのだ。チームのリーダーとして、気を引き締めていかなければ、とプレッシャーに押しつぶされそうになる時もあった。


『先生、ちょっと作風を変えられたんですね。トーンが少なくなって、人物と背景がよく馴染んでます。彩ちゃんも腕を上げましたね!』

「そうなんですよ! 彩ちゃんのおかげです。あ、ていうかあたしはもう河村さんにとって先生じゃ……」

『漫画家と編集者という関係じゃなくなっても、私にとって先生は先生です。ずっと応援していますよ』


 河村にそう言われ、萌々花は彼女との五年間を思い出して思わず涙ぐんだ。何度励まされたか、どれほど助けられたかわからない。

 河村が担当だったから、萌々花はずっと漫画家を続けることができたのだと思う。


 時折り涙を拭いながら、洟をすすりながら、萌々花はふたりで育てた『ルベ燃え』の話をする。エリカが結婚したこと、そしてエリカを待ち受けている闇のこと……。

 言い終えてから、河村も読んでいるのだからエリカの結婚は知っているのだ、と気づいて笑った。


 河村も読者として楽しみにしているので、今後の展開については話さなかった。それは漫画家の守秘義務でもあるし、相手がいくら前担当者の河村だとはいえ、藤倉を裏切るような気がするからだ。

 萌々花は、あらためて読んでくれる人の存在はありがたいと思い、ファンレターがたくさん届いたことも話した。


『そうですか。本当によかったです』


 ファンレターのことを話すと、心なしか、河村の声のトーンが落ちたようだったが、何か悪いことを言ってしまったかと聞き返すのもおかしいと思い、萌々花は他の話題に替えた。

 そして河村は、そろそろ休憩時間が終わると言って、名残惜しそうに電話を切った。

 長い間ずっとそばにいて支えてくれた大切な人の声を聴いて、萌々花はますます漫画家として頑張っていこうと、人気も得たいと思うようになっていた。



 通話を終えたスマートフォンをデスクに置こうとしたとき、SNSの通知が画面に浮かび上がった。

 萌々花は漫画家名義のアカウントを持っていない。一般人として偽名で登録したアカウントはあるにはあるが、プロフィールにも大したことは載せていなかった。

 あくまで資料収集等の目的で、空いた時間にタイムラインを眺める程度なのだが、さすがにその画像を見たときには、「嘘ぉ!」と言いながら立ち上がってしまった。



 あらためてスマートフォンをデスクに置き、パソコンの大きなディスプレイで確認する。

 そこには、健司に腕ひしぎ十字固めをきめる竜樹の姿や、向かい合って立ったまま、まるでキスしているように見える竜樹と健司、コートが脱げてデビルの戦闘服のようなジャンプスーツ姿の竜樹、倒れている健司を冷徹に見下ろす藤倉などなど、昨日の調布駅での作戦のシーンが大量に投稿され、すごい勢いで拡散されているのだった。


 トレンドワードには『片翼の悪魔』『実写化?』『紀國真哉』『ブリクサ』『マティアス』『リアルデビル』など、漫画『片翼の悪魔』に関連するキーワードがいくつも並び、藤倉と竜樹は、顔までははっきりと映っていないものの、実写化するにあたっての先行パフォーマンスと思われても仕方ないほどの「デビルっぷり」だった。



「いやぁ、バズっちゃいましたねぇ……」


 自分のデスクに頬杖をつき、満足げな顔をした竜樹は溜め息をつきながら芝居じみた台詞を吐いた。

 十五話の入稿を終えた直後で、急いでかからなくてはならない作業がないからか、三人は昼休みの中学生のように、漫画の話に花を咲かせている。


「竜樹くん、ごめんね。私の……、ううん、あんな奴のせいで、外を歩きにくくなっちゃうかな。平気だった?」

「ぃやー、最近のスマホって怖いっすね! いや、怖いのは撮ってアップする奴らなんすけど、鬼女(きじょ)の手にかかったら、瞳に映ったもので居場所も特定できちゃうわけだし。元の画像は荒いけど、ネットに出まわったらもう諦めるしかないっすよ。べつに、俺と藤倉さんは悪いことはしてないんだし、そのあたりもすぐに誰かが突き止めるっしょ。あー、もういっそYouTuberになるかな」


 背もたれに寄りかかり、座面を左右に揺らしながら竜樹が言うと、萌々花が焦ったように抗議する。


「なに言ってんの! 竜樹くんがいなくなったら、エリカはどうなるのさ!」


 萌々花がぱかっと頭を叩くそぶりをすると、竜樹は自分のバッグからクロッキー帳を取り出し、それをぱらぱらとめくって萌々花たちに中を見せた。


「俺はエリカの幸せを誰より願ってるんすよ。きっと、先生よりも」


 そこにいたのは、『ルベ燃え』本編には一度も出てきたことのないエリカだった。

 おそらく十歳くらいの、ひまわり畑の前で麦わら帽子をかぶって笑う少女エリカ。セーラー服を着て、図書館らしい場所で本を広げるエリカ。友だちとショッピングをしたり、キッチンに立ってお菓子を焼いたり、会社の休憩時間に給湯室でストレッチをしたりと、エリカの成長と日常が切り取られていた。


「父親っていうのは、こういうことなのね……」


 竜樹はどんなことがあっても、決してエリカの人生を放り出して、自分の損得勘定で動くようなことはない。萌々花はあらためてそれを感じ、エリカの「父親」である竜樹を唸らせるようなストーリーを考えようと思った。



 萌々花の担当が藤倉に代わる前、『ベリィ・タルト』内での『ルベ燃え』の順位は、常に十位くらいだった。

 これは巻末に綴じ込まれたハガキによるものと、ウエブサイトの読者ページのアンケートを集計したものだが、順位が五位以内にランクインした今、「人気作家」としての自覚をもっと持たなければいけないと思い知った。


 そういえば河村とは、ストーリーについての入念な打ち合わせをしたことはなかった。いつも当月の原稿をギリギリの精神状態であげ、先の展開に想いを馳せるような余裕はない。

 いつ終わってもおかしくない連載では、キャラクターへの想いはいまよりずっと軽く、彼女たちの人生に責任を持とうとも思ってはいなかった。


 それなのに、アシスタントの竜樹は「先生よりもエリカの幸せを願っている」と言う。萌々花は頭をガツンと叩かれたような気がした。

 そうだ、他の誰よりも、自分が一番にヒロインを幸せにしようと思わなくてどうする。これからの数回は、エリカには厳しい試練が待っているだろう。

 チーム萌々花は、悔しさや歯がゆさに泣きながらでもそれを描きあげ、その後のエリカを最高の笑顔にしていこうと、強い思いで臨むのだ。



 藤倉は、十三話の原稿を「すべて直せ」と言った。それは、自分の作品に取り組む萌々花の姿勢を、自分で見つめ直せという意味だったのかもしれない、と思う。

 『レモネード』時代から、河村からは一切のダメ出しもなかったものが、まるごとボツだったのだ。

 それは何故か? 河村は、萌々花の漫画を盲目的に愛していたのだろうか? 狂信的なファンのように。

 だがそれでは編集者は務まらない。藤倉のように、作品を良くするためなら憎まれても構わないくらいの気持ちでいなければ、良い漫画家を育てることはできないだろう。

 「河村さんは、実家に戻ってよかったんだ」それが河村の幸せかもしれないと、萌々花は複雑な想いでペンを握る。


「ねぇ、竜樹くんはさ、エリカみたいな子がタイプなの?」


 自分が描いたエリカの全身図を、顔から離したり近づけたりして、嬉しそうに眺めながら微笑んでいる竜樹の肩を、トントンと指先で叩き、彩はなぜか小声でそう訊ねる。


「うーん、知っての通り、俺はエリカを父親目線で見てるから、タイプとは違うかな」

「そっか。竜樹くんはやさしくて頑張り屋さんだから、年上のお姉さんとかいいかもね!」


 何か言いかけた竜樹の肩を手のひらでそっと押さえ、彩は自分の椅子に座り直す。そんな彩を見て、首を傾げながら絵の練習に戻った竜樹は、たちまちそれに没頭する。すると彩は、真剣な眼差しでペンを動かす竜樹の横顔に、チラチラと視線を送るのだった。


 ふたりのアシスタントのそんな様子が可愛くて、萌々花は自分のデスクにつきながら満足げに見つめていた。これでいつもの仕事に戻れそうだと、椅子の上で大きく伸びをする。



 藤倉が十六話のネームを確認しに来るまでには、まだ数日ある。それまでは比較的のんびりと作業を進められるかと思われたが、彩は十一話から十五話までの、コミックス三巻に収録される回の背景を、全部見直したいと言い出した。

 十三話からは担当が河村から藤倉に替わったため、特にあらためる部分はないかもしれないが、十一話、十二話で「72番」のトーンを使ったコマを手描きに変えたいとか、風景だけのコマまで手を入れたいようだ。今日からその修正に入ると言って張り切っている。


 描き下ろしの表紙は、エリカのウエディングドレス姿にしようと思っているが、萌々花はまた、藤倉と結婚式の真似事をした、あの写真を見なければならないのかと、途端に恥ずかしくなり、熱くなった頬を両手で包んだ。


 連載時の作中には、ウエディングドレスを着たエリカの正面からのカットは、そう多くはない。

 支度を済ませて新婦控室にいるエリカを瞬が初めて見たときの、衝撃的ともいえる美しさ。

 幸福の絶頂にいるエリカの全身図には、大きく一ページを使ったが、豪華なドレスのシーンが長いと画面がくどくなるので、あとはビスチェタイプのドレスの、肩から上のカットが多かった。

 雑誌掲載時にはカラーだった扉絵も、コミックスではモノクロで印刷されてしまう。だからその分、表紙でファンに喜んでもらいたかった。

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