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第2話 運命的な出会い

 ここのモンブランは絶品だ。

 アーモンドを練り込んだタルト生地にカスタードクリームが詰められ、その上には和栗とイタリア栗のそれぞれのムースが層をなしている。ジェノワーズにしみ込んだ栗のリキュールとクレームシャンティ。そしてマロンクリームがたっぷり絞り出された上にはつやつやの渋皮煮。

 思い浮かべるだけで頬が緩んでくる。河村の好きなこのケーキを堪能するために、スペシャルなコーヒー豆も買ってある。


 入り口からショーケースを見ると、モンブランは二つしか残っていなかった。

 彩と竜樹にはレアチーズにしよう、と急いで店内に入ろうとした時、ふっ、と金木犀の香りが鼻をかすめた。その瞬間、萌々花の胸にキュン、と痛みのようなものが走る。なぜなのかはわからない。いつからか萌々花は、毎年秋のはじめにひっそりと咲き、その姿よりも香りで人を振り向かせる金木犀に特別な想いを抱くようになっていた。

 「あぁ、また今年もこの時季なんだ」と一瞬、ほんの一瞬だけ目を閉じたとき、ちょうど反対方向から来た男とぶつかった。


 「あ、すみません」と言う萌々花を一瞥し、その男は迷わずショーケースの前に立つ。そして「モンブランとレアチーズを二つずつ」と短く注文した。

 えっ? ちょっと待った! それはあたしのぉーっ!


「ちょっと! それはあたしのモンブランなんだけど!」


 焦った萌々花が抗議すると、男は萌々花の正面に向き直る。サラサラと手触りのよさそうな前髪の下に、伏せたまつ毛の長さが際立っている。ゆっくりと顔を上げて萌々花を見上げる。身長差は十センチ程度か。むっ、顔は悪くない、と萌々花が思った瞬間、男はぶっきらぼうに言った。


「前を見ていない貴様が悪い」


 店員はそんなふたりの客にはらはらしながら四つのケーキを箱に詰め、「こちらのお客様が先にご注文されましたので……」と萌々花にお世辞笑いをしながら男に手渡した。スマートフォンをかざして会計を済ませた男は、ぽかんとする萌々花の横をすり抜けて出て行く。

 萌々花の前から、金木犀はひっそりと気配を絶った。




 社名の入った段ボール箱に、身の回りのものを詰め込んでいく。抽斗の中には、担当している遠山萌々花の資料がたくさん入っていた。

 『レモネード』で新人賞を受賞し、デビューが決まったときに当時の編集者に宛てられた手紙や、キャラクターのイメージを萌々花が鉛筆で手描きしたもの、ストーリーを練ったときのメモなど、河村はデビューからの担当ではないが、約五年半もの時間を一緒に過ごしてきたのだ、それなりに思い出の品があるのは当然だった。


「私の後には、誰がなるんだろう」


 そう呟きながら、河村は捨てるものと自宅に持ち帰るもの、後任の編集者へ引き継ぎするものを、それぞれ別の箱に収めていった。


「河村さん、もう荷物の整理は終わりそうですか」


 編集長が机の傍まで来て話しかける。急な退職の申し出を快く受け入れてくれた、ありがたい上司だ。


「はい、こうしてみると、けっこう私物が多くてびっくりしています。それより編集長、このたびは、実家の都合で急に辞めることになって、本当にご迷惑をおかけしました。今までお世話になったこと、ここで学ばせていただいたことは、今後に生かしてまいります」


 河村の実家は、長野で温泉旅館を経営している。将来は河村の兄がその旅館を継ぐことになっていたが、兄のつれあいに病気が見つかり、専門の医師がいる九州へと転居することになったのだ。

 河村はもともと兄夫婦が後を継ぐと思っていたため、旅館の女将になる勉強など何もしてこなかった。現女将の母はまだ健在だが、兄夫婦が出ていくこの機会に、河村は女将修行を始めることにした。


 河村はいまの仕事が好きだった。漫画雑誌の編集者として、担当した漫画家の作品をより良いものに仕上げ、雑誌の部数が上がるように忙しく働く。そんな日々はとても充実していた。

 だが、この退職は避けられない。異動の時期ではない今、萌々花を担当するのは誰だろうと、とても気になっていた。

 フロアを見回して、誰がどの漫画家の担当だったか、改めて思い返す。女性編集者が七割方を占めるこのフロアは、明るさや華やかさはあまりなく、みな忙しくて睡眠時間が足りないため、目元には盛大に隈を作っている。

 漫画雑誌と言っても、そこは女性向けだ。ファッションやメイクを扱うページもあるにはあるが、ファッション誌のフロアとの違いは大きかった。そちらのフロアでは、編集者もオシャレで美人なイメージが強く、自社ビル内にあるスタジオではグラビアの撮影も行われているため、スタイリストやカメラマンが出入りし、華やいだ空気がつねに漂っている。


 それに比べて――と河村がフロアを見渡すと、やはり漫画誌に関わるものはみな、少なからずオタクのような印象がつきまとう。実際にそうではないとしても、メイクやファッションなどのオシャレには気を使うこともなく、フロア内ではジャージで過ごすような社員が多いのも事実だった。


 だが、長年親しんだこのフロアの仲間は、やはり好きだと河村は思う。誰が自分の後継を務めてくれるのか、その相手に挨拶はしておきたいと思い、編集長に訊ねた。


「あの、編集長、私が辞めたあとの遠山先生の担当は、誰になるのか決まっていますか?」

「あぁ、それがね、この中にはいないんですよ。河村さんが退職することを聞きつけて、他社からわざわざ名乗りを上げた人がいましてね、今は編集者ではないんですが、実力のある人です。安心してください」


 編集長は、人の好さそうな笑顔を見せて言った。


「わざわざ他社からって、他の出版社の方なんですか?」


 河村が驚いて訊ねると、編集長は楽しそうに続ける。


「ええ、なんでも大昔から遠山先生の大ファンらしいですよ」

「そうですか……。だったら、安心ですね」


 河村は複雑な表情で編集長から視線を外し、窓の外に広がる空を眺めた。




「先生、遅かったですね」


 心配してたんですよ、と言いながら彩が玄関まで出てきた。


「ちょっと彩ちゃん聞いてよ―、リュバンドールでチビの男がさあ」


 萌々花は河村の好きなモンブランを入り口でぶつかった男に横取りされたこと、文句を言ってやろうとしたら「貴様が悪い」と言われたこと、モンブランの代わりにオペラを買ったことなど、ぶつぶつ言いながらその男の顔を思い出していた。


「見ず知らずの女性に『貴様が悪い』って、お前なに様だよって話だよねぇ。目つきは悪いし顔色まで悪くてさ、すっごいヤな感じのクソチビ男だったけど……、顔はよかったんだよなぁ。次回作の攻めにしてやろうかな」


 言いながらデスクに着き、原稿用紙にシャーペンで記憶の中の男の顔を描き始める。


「目つきはこう、もうちょっと良くした方がいいかな。髪型は……こんな感じ? おお、いいじゃんいいじゃん。そんでこう、『貴様が悪い』」


 男の似顔絵に吹き出しをつけ、その中に「貴様が悪い」と書きながら低い声で真似をする。

 萌々花が描く「クソチビ男」を見て、彩は「やーん、カッコいいですぅ。攻めっぽい。でも、なんだか見たことのあるような……」と言いながらクネクネしてみせた。そこへ原稿に向かっていた竜樹が顔を上げ、萌々花に声をかける。


「先生、ここ、顔のアップが続いてるんで、エリカの全身描いてもいいすか?」


 萌々花は首を伸ばして竜樹の手元を覗き込み、「いいよー」と答える。


「もうじき今の連載も終わるし、真面目にキャラ作りしよう」


 萌々花はデスクに向かい、目の前の棚から厚い本を取りだして開く。ヨーロッパの映画俳優ばかりの写真集は、キャラクター作りの重要な資料だ。


「ねぇ、彩ちゃん、欧米の俳優も日本の俳優も、昔の人の方が個性あったと思わない? 今は――なんでかなぁ、メイク? 整形? 修正? とにかく没個性でつまんない表情の写真が多い気がするんだよね。人間的な厚みがないっていうかさ」

「そうですねぇ。昔の日本映画なんて、小学生はみんな坊主頭とおかっぱ頭でも、誰が誰だか見分けがつきましたけど、今の人ってみんな似てますよね」


 萌々花が開いていた写真集を覗き込み、ドラキュラ役として活躍した四人の俳優のページを見ては、「あぁ、ナタキンのパパってかっこいい……」と彩は切なそうな吐息を洩らす。


「河村さん、遅くないすか?」


 ふいに竜樹が顔を上げ、壁の時計と自身の手首に付いているそれを見比べて言った。竜樹の声に萌々花がディスプレイ右下の時刻表示を見ると、すでに約束の時間を三十分も過ぎている。


「そうだね、こんなに遅れることなんかないのに。何かあったのかな……。電話かけてみようか」


 萌々花がスマートフォンに手を伸ばした途端、画面が明るくなって河村の笑顔が現れた。


「お、噂をすれば。河村さんだ。はいはーい」

『先生、連絡が遅れてすみません! 急に休んだ人の代わりに仕事を入れられてしまって。今日いただくはずの原稿は、新しい担当者に渡してください。もうそちらに向かってて、そろそろ着くはずです。ご挨拶には改めて伺いますので。ほんと、申し訳ありません』

「うん、こっちのことは気にしないで。田舎に帰る前に、またゆっくりご飯でも」


 よほど立て込んでいるのだろう、河村は用件だけ告げると急いで通話を終えてしまった。


「はぁ、残念。河村さん来られないって。モンブラン買えなかったからちょうどいいと思おう! でね、新しい担当さんが来るらしいんだけど、名前も聞かないうち電話が切れちゃってさ」


 やれやれ、と息を吐きながら萌々花がスマートフォンを置いた時、来訪者がチャイムを鳴らした。


「あっ、その新しい担当さんですかね? 私、出ま―す」


 椅子に腰を下ろした萌々花の肩をそっと押さえながら彩が言う。


「うん、おねがい」


 と彩の背中に声をかけ、萌々花は竜樹が描いたばかりのヒロイン、エリカが瞬の上で大きくのけぞるカットを覗き込む。

 竜樹は自分の机の周辺を徹底的に整理整頓しないと気が済まない質で、定規やペンの置き場所が少しでも変わっていると落ち着かないのだそうだ。だから竜樹の作業をチェックするときはとても緊張する。

 うっかり道具に触れてしまって、位置がずれては大変だ。しかし、どのカットを見ても、竜樹の描く女性の身体は、本当にセクシーで美しい。


「さっすがだねぇ、竜樹くん。このウエストからヒップのラインなんか女の私が見てもムラムラっとするよ」

「先生、ムラムラっなんて今どきオヤジだって言わないすよ」


 そう言いながらも、萌々花に褒められて竜樹は嬉しそうだ。椅子に座ったままで上半身を前後に揺らしながらにこにこしている。

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