第19話 イケメンカップルの痴話げんか
その日から彩はゲスト用の寝室を借り、そこにしばらく滞在することになった。藤倉の言ったとおり、彩のスマートフォンには健司から頻繁に着信があったが、バイブに切り替えて、その一切を無視した。
事情を知らない千鶴子は、もうひとり娘が出来たようだと喜び、彩の寝室に花を飾ったり、とっておきのシーツに換えたりと、浮き浮きして仕方ない様子だ。夕食は竜樹も交えて四人で摂る。そんな賑やかな家族のような日が、四日つづいた。彩は普段の就業時間以外にも原稿に取り組めると、嬉しそうだ。
「夜遅くに背景を描き込んでいると、いつもと違うスイッチが入るのか、想像力がすごく膨らむんです~。これからは定時で帰るより、残業をもっとしたいです」
事実、時間を気にせず絵を描くことができる環境下で、彩の腕はまた少し上がったようだと萌々花は思う。
彩が萌々花の家で寝泊まりするようになって五日目。前日が原稿の締め切り日だったため、藤倉はまた萌々花たちの仕事場に顔を出した。「様子はどうだ」と彩に訊くと、健司からの着信は日ごとに多くなっているとの報告を受け、「そろそろだな」と厳しい表情を見せた。
土曜日は仕事が休みのため、萌々花と彩は連れ立って映画鑑賞と買い物に出かけることにした。
「帰りにリュバンドールでケーキを買ってきます」と千鶴子に言い、ふたりが玄関をでてすぐ、健司から何十回目かの着信があった。
それまでは彩が出ないとわかると、そのまま切っていた健司だったが、今回はメッセージを残していた。
『彩……頼むよ、出てくれないか。マジでヤバいんだよ。今日か、遅くても明日には会ってくれないと俺、マジでどうなるかわからない。これ聞いたら電話して。頼む』
健司らしくない弱々しい声だったが、「あの」健司ならこれくらいの芝居はするだろう。
萌々花と一緒に健司からのメッセージを聴いた彩は、すぐに竜樹にメールをした。萌々花は藤倉に連絡し、先日の計画の実行日は今日なのだと、それぞれが緊張と興奮に身体を熱くする。土曜日で良かったかもしれない。竜樹は「万難を排して行く」と力強い返事をし、藤倉も光迅社に出社する必要はない。
急遽、萌々花の家に召集され、四人で計画の最終確認がなされることになった。すぐに帰ってきた萌々花たちに「あらあら」と言う千鶴子だったが、竜樹と藤倉も合流するときいて、自分でリュバンドールにケーキを買いに出掛けて行った。
ほどなくして竜樹と藤倉が到着する。緊張感に頬が引き締まり、ふたりとも精悍な顔をしている。しかし萌々花は、コートを脱いだ竜樹の服装が気になった。
「竜樹くん、その恰好……」
「これすか? 昔バンドやってたことがあって、その頃に着てたんすけどね、逆に目立っちゃいますかね?」
竜樹が着ていたのは、身体にぴったり張り付くようなジャンプスーツで、黒くてツヤツヤした生地のものだった。
「何気にデビルみたい~」
彩は自分の頬を両手で包み、きゅう~ん、と鼻を鳴らしている。
「それは、『片翼の悪魔』のはなしか?」
藤倉が眉をピクリと動かしながら問う。漫画業界に身を置く藤倉が、紀國真哉の『片翼の悪魔』を知らないはずはない。そして、「ブリクサに似ている」と言われたことは過去にもあったはずだ。
「そうっすよ、隊長! 今日はエンジェル討伐隊として出動するつもりでいくっす」
「ふ……、仲間のために命懸けか。お前も一人前になったな」
藤倉の言葉をきいて、竜樹と彩は息を呑む。頭がくらくらする直前まで息を止め、ふたり同時に「きゃあーっ」と悲鳴のような歓声を発した。
「なになに? ふたりともどうしたの」
何が起きたのかわからない萌々花は、ふたりの間に割って入るが、竜樹たちは陶酔したような表情を浮かべている。
「い、いまのは、ブリクサ隊長の台詞っす……」
「そう言われた戦士は、その日に十体のエンジェルを倒したんです」
まだアニメを四話までしか見ていない萌々花は、そのシーンを知らなかった。
――くそぅ、アシスタントに後れを取ってるじゃねえか。
「序盤で死ぬモブみたいに、張り切りすぎるなよ」
ふっ、と藤倉が笑う。その笑顔は強いリーダーのそれだった。
そのあと、チーム全員が見守る中で、彩は健司に電話をかけた。待ち構えていたのか、一度のコールで出た健司は、彩に助けを求める立場ながら、責めるような口調だった。
『彩、お前、何十回かけたと思ってんだよ! ったく、勘弁してくれよ』
スピーカーから聞こえる健司の声は、憤りながらも今にも泣きそうだ。
彩は萌々花たちに順番に視線を送り、軽く頭を下げながら気まずそうな顔をした。
「マジでクズっすね」
竜樹がひそひそと萌々花に言う。萌々花は唇の前に指を立て、「シッ」と小さく息を洩らす。誰かの声が健司に聞こえてしまったら、今日の作戦が失敗するかもしれないのだ。
「ごめんね。心配してたんだけど、彼の監視が厳しくて。うん、今日なら会えるよ。定期預金を崩したから、お金も少しだけど渡せる。でも、私もこれ以上は出せないから、あとはなんとかできるの?」
打ち合わせ通り、彩は健司を心配していたように話した。油断させ、おびき出して決定的な最後通告をするのだ。それが、チームで立てた作戦だった。
「じゃあ、七時に調布で。今日は遅れないでね、怪しまれるから。あれから彼がうるさいの」
通話を終えた彩は、顔を真っ赤にして俯いていた。あんな男をいっときでも好きだった過去が、たまらなく恥ずかしいのだろう。
「彩ちゃん、よくやったね。あとはみんなに任せて大丈夫。もう安心だよ」
萌々花が彩の肩を抱き、やさしく撫でさする。だが彩は、それに甘えることはなかった。
「先生、竜樹くん、隊長、今回のことは、相手の方が悪いとはいえ、私の初動ミスでした。巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません。そして、貴重なお時間を割いていただいて感謝しています」
姿勢を正してきっぱりと言う彩の顔には、迷いも恐れもなかった。それぞれが全員の顔を見て頷き合い、今夜の対決に備えた。
調布駅中央改札口。
午後七時より少し前に、竜樹は改札向かいの壁寄りで待機していた。彩と萌々花は離れた場所から竜樹を見守り、藤倉は竜樹から五メートルほどの距離で様子を窺っている。
七時ちょうどに、健司はホームの方からではなく、外の通路から駅構内に入ってきた。改札周辺を見回して彩の姿を探すが、見当たらないので顔を歪めている。彩に連絡するつもりなのか、イライラした様子でスマートフォンを取り出した。そこへ竜樹が近づいていき、声をかける。
「彩ちゃんは来ないっすよ。代わりに俺と話しましょうか」
「なんだよ彼氏くん。どうも話がうますぎると思ったらそういうことか。金を持ってきてないんだったら、俺にはお前と話すことなんかねえぞ」
「あんたさ、彩ちゃんとは三年前に別れたんすよね。で、なんで今頃しつこく連絡してくんの? はっきり言って迷惑なんだよ。わかってるだろうけどさ」
「彼氏くん、彩とはいつから付き合ってんの? たぶん、俺の方が彩のことをよーく知ってるよ、隅々までね」
唇を歪め、卑しい顔で竜樹を見下すように笑う健司に、竜樹は内心で「やれやれ」と思う。
「あの彩ちゃんが、なんであんたみたいなクズを好きだったのか、ほんと、わかんないなぁ。彩ちゃんとあんたはもう、住む世界が違うよ」
彩を侮辱するようなことを言われ、竜樹は少し腹を立てたが、作戦通りにできなければ失敗する可能性もある。冷静に冷静に、と自分に言い聞かせ、竜樹は用意していた台詞を並べる。
健司のようなタイプは、諭されたり説教されたりすることを嫌うだろう。だから敢えてそれを言い、イライラさせて健司の怒りを誘うのだ。
「あのさ、他人の金を当てにしたりせず、真面目に働いて地に足の着いた生活をしなよ。あんた、そんなにカッコいいんだからさ(頭は悪いんだろうけど)、それを生かした仕事だってあるっしょ。それから、過去に付き合ってた女の子に迷惑かけたりせずに、思い出は綺麗に取っておきなよ。年取った時に後悔するよ。ちゃんと働いて、自分の力で金を稼いで、それでこそ、でしょ。男なんだから、女の子を守ってやれるようにならなくちゃ。借金だって、コツコツ返していけばなんとかなるって。俺でよければ相談に乗るよ。法テラスに相談したら、解決するかもよ。それから、ここは重要だからよく聴いてね。次に彩ちゃんに連絡したり待ち伏せしたりしたら、警察に被害届出すからね」
竜樹の言葉を、健司はずっと顔を背けて聞いていた。だが最後の部分はあえてその顔をのぞき込んで、正面から目を見据えながら竜樹は告げる。「被害届出すからね」。
「警察」という単語を耳にし、健司ははっと竜樹の方を向く。そしてみるみる頬を紅潮させ、充血した目で竜樹を睨みつけた。
「お前、勝手にでばってきてなに言っちゃってんの? 警察だ? これは俺と彩の問題なんだよ。俺はこの前、彩に言ったんだぜ。『やり直そう』ってな。彩の答えはまだ聞いてねえけど、お前なんかの出る幕じゃねえよ。帰って牛乳でも飲んでろ」
作戦では、竜樹に説教じみたことを言われた健司が、激高して竜樹に襲いかかるはずだった。こういう変化球を投げて来られるとは想定していなかったので、竜樹は自己判断で動いていいものか迷った。外側から見えない、スパイっぽい通信機器があれば、隊長の指示を仰ぐことが出来たのに、とジリッとした焦りを感じる。
「まだわかんないのかなぁ? 彩ちゃんが一生懸命仕事して、給料もらって、それは自分のために活かすもんだろ。あんたには、そんな価値なんて皆無じゃん。彩ちゃんにとって、あんたはもうオワコンなんだよ。独りで帰って寂しく缶チューハイでも飲んでなよ」
台詞がインパクトに欠けると思った竜樹は、言い終わったあとに、へらっとバカにするように笑いながら健司の顔の前に自分の顔を突き出した。
――そそ、こうすれば健司くんが殴りやすいっしょ。
「てめえ! ふざけんなよ」
思った通り、健司は竜樹のコートの胸倉をつかんでぐいぐいと前後に揺らした。周囲にいた多くの人が大声のした方を見る。
健司の顔を至近距離からまじまじと見た竜樹は、その瞳に映った憤りや焦りや悲しみを感じ、少し哀れだと思う。こいつの人生は、どこで間違ったんだろう。こいつだって、きっとまだやり直せるよね、先生……。
「おい、ビビってんのか、なんとか言えよ」
竜樹の胸倉を掴んだまま、健司はすごむ。何も答えない竜樹にイライラが募り、かといって臨戦態勢をとらない竜樹に、先に手を出すのも分が悪いと計算しているようだ。数十秒間にらみ合いが続いたが、竜樹はあることを思いついた。
格闘技の対戦カード発表の記者会見で、選手同士がにらみ合い、互いの胸筋で相手を押し合っていたとき、どちらかが急に唇を尖らせて相手の唇に軽く触れたことがあった。
それは相手を挑発する行為らしい。同じことをしたら、健司は怒って殴りかかってくるだろう。
――ギャラリーの中に、腐女子の人がいませんように。つか、すでに誰かが動画撮ってるかもね。数分後にはツイッターに出ちゃうのかな。「イケメンカップルの痴話げんか」って。ヤダなぁ。
「なんとか言えよ、コラ!」
健司の脅すような声が、「助けて」と泣いているように聞こえる。竜樹はほんの少し身体を前に出し、健司の口に唇をそっと触れさせた。
「なんだお前!」
健司は心底驚いたというように竜樹を突き飛ばし、自分の口に手の甲を当てている。あきらかに動揺しているようだ。




