第16話 最後の夏
キャビネットの中央に座る一回り小さなテディベアは、テディベアアーティストであるという読者の作品をプレゼントされたものだ。
リナはその子の金茶色の頭を撫でると、大きな机にひとりでつき、ペン入れを開始する。
室内全体を明るくするペンダント照明は消され、作業する机だけをスポットが照らしている。目を射るようなその強烈な光は、リナと原稿用紙だけを別世界へと運ぶ道のようだ。
一時間を過ぎたころ、椅子の上に置いたスマートフォンが着信を知らせた。画面を見ると「山科さん」の文字とともに、光迅社の担当編集者である山科の、証明写真のように生真面目な顔が浮かんでいる。
「もしもし、いまペン入れ中なので、あとでこちらからかけ直します」
『リナ、そのことなんだけど、やっぱり後半のネームを描き直す気はない? すぐ近くまで来てるから、もう一度相談しましょう』
「もうその後半まで、ペン入れしちゃってるんですよ。山科さんもOKくれたじゃないですか。今からじゃ時間もないですし」
『なに言ってるの。リナなら三日あれば違う作品だって描けるわ。とにかく、電話じゃなんだから、これからそっちに行きます。夕飯まだよね? 何か買っていくから一緒に食べましょう』
「……わかりました。山科さんがそこまで言うなら、次号の順位が絶対に上がるような方向で考え直しましょう。先に前半のベタやってます」
山科がなにか言う前に通話を終えると、リナはペン入れが終わったページから、主人公の髪にベタを塗る作業へと変えた。リナの漫画のヒロインは、みな髪が黒い。長さはベリーショートからロングまでさまざまだが、黒い髪にリナのこだわりがあるようだ。
山科は、黒髪の部分に色の濃いトーンを使うこともアドバイスしたが、リナは手塗りにこだわり、トーンに手を出すことはなかった。編集者のアドバイスに耳を傾けることもなく、且つ、雑誌内の順位争いには敏感なのだから、扱いにくい作家だろう。
リナは原稿に集中すると、食事を全く摂らなくなる。さすがに脱水状態になるのは怖いので、水分摂取には気をつけているようだが、それでも喉の粘膜同士が張り付きそうなほど乾かないと、それに気づかないことも珍しくはないのだ。
漫画に命を懸けているリナは、だからいつもガリガリに痩せていて、山科はネームチェックや原稿を預かるとき以外にも、こうして食事を摂らせるためだけに訪問することが多い。
自分をプロ漫画家デビューへと導き、雑誌内でも五本の指に入る人気漫画にしてくれた山科をリナも慕ってはいるが、このところやけに萌々花の漫画のことが気になるようだ。
そんな山科の思いをリナもわかっていて、次号で順位を抜き返して自信を取り戻したいのだろうと思っていた。
リナがいま連載している『乙女座の恋人』に登場する男性キャラは、みな高学歴、高身長、高収入というハイスペックで、読者ページには「こんな年下の彼氏がいたら自慢できる」などと好評だ。
リナも新キャラを出す気でいたが、おそらく山科はそのことで話があるのだろう。
リナは一度ペンを置き、今回の自分の原稿を読み返す。手は抜いていない。絵もストーリーも、ここまで磨いてきた。あとは、新展開というインパクトだけなのだと、先日編集部で会った藤倉の余裕ある様子を思い出し、唇を噛みしめた。
休憩の時に使う、ロイヤルコペンハーゲンやウエッジウッドの美しいティーカップではなく、アラビアのマグカップにたっぷりのカプチーノを淹れて、萌々花は彩と向き合った。
大きなカップを両手で包むように持ち、ひと口飲んで、「おいしい」とほっしたように微笑む彩に、萌々花も少し安心する。
昨夜、彩と別れた竜樹からのメールでおおまかな経緯は知ることが出来たが、仕事に入る前に、彩の口から直接きいておきたいと思っていた。
萌々花は、たった一日で少しやつれたように見える彩がかわいそうで、思わずその頭を撫でた。彩は萌々花の体温を味わうように目を閉じ、再びまぶたを上げてから話しはじめた。
「私が美大に行ってた時に、友だちと入ったお店で彼が働いていたんです。知りあった頃はいい人だと思いました。とても人気者で、歌もダンスも上手くて。中身はあんなにダメなのに、外見ばかりよく見えて……。女の子にはすごくモテていたので、私は健司を独占したようで得意になっていたのかもしれません。何度も浮気されて、そのたびに別れようと思っても泣きつかれて、だらだら付き合いを続けるうちに、妊娠したことがわかりました」
うつむき加減で視線を窓の外へぼんやりと向けたまま、彩はつぶやくように話した。
恋愛経験の乏しい萌々花は、いくつも年下の彩が過去に妊娠した事実を聞き、その時の彩を思いやりながら、子どもはどうしたのだろうと暗い気持ちになる。
どう励ましてあげればいいのかわからずに、隣に座って彩の肩や腕をそっとさすって話を促した。
彩が健司と出会ったのは、美大での最後の夏だった。
友だちは海外に行ったり、車で地方の美術館や寺社めぐりをしたりと、長い休みを利用して、普段は出来ないことを楽しんでいたが、彩は部屋にこもって漫画を描いていた。
建築や日本画の勉強もしたが、やはり彩が一番描きたいものは漫画であり、読むのも描くのも大好きだった。
染色を専攻している麻沙美とは、よく映画や美術展などにも一緒に行っていたが、その麻沙美から、知り合いのデザイナーが内装を手掛けた店に行こうと誘われ、夏休みも終わりに近づいた八月の下旬、彩は麻沙美に連れられて、六本木に新しくオープンしたその店に出掛けた。
ポップな色調でまとめられたサイケデリックな店内は、ほぼ満員だった。大声で話さなければ、相手の声も聞こえないほどのボリュームで音楽がかかり、フロアで身体をくねらせている女の子たちは、みな酔っているらしく、けたたましい笑い声を悲鳴のように発している。
正直、彩はこういった場所が苦手だった。知らない人間同士が顔を寄せ合い、なにが面白いのかさっぱり理解できない話題で笑い転げ、煙草とアルコールと、たまに違法なものを勧めてくる者もいる。「ばば臭い」と言われることもあるほど、彩は若者が集まる華やかな場所が苦手だったのだ。
麻沙美はフロアで一番目立っているキャストに近づきたいらしく、「踊りに行こう」と彩の手を引っ張ったが、彩はすでに疲労を感じ、早く帰って『レモネード』を読みたいと、すでに心はそこになかった。
その直後、「ショータイム」を告げる音楽が鳴り、フロアの明かりがおちた。数秒後にステージが照らされると、そこには健司が立っていた。
その日、木曜日は健司のショーが行われる日だったのだ。健司はそこで歌い、踊り、客席を沸かせた。特に彩が楽しんだのは、アニメソングのメドレーだった。子どもの頃に見ていた懐かしいアニメから、その時の最新アニメまで、彩は楽しくて手拍子をしながら、声を出して一緒に歌った。健司は本当に人を魅了することに長けていたと、それは今でも思う。
ショーが終わり、客席を回ってチップを集めていた健司は、彩たちの席に近づいてくると、いきなり彩の横に身体を滑り込ませて来た。戸惑う彩が「学生だから、少しだけど」と言って千円札をカゴに入れようとすると、健司はその手を取って彩の瞳を見つめ、「俺と付き合おうよ」と言ったのだ。
彩はわけがわからず、ぽかんとしていた。確かに健司はかっこいい。世間一般的に言えば、超のつくイケメンなのかもしれない。だが、それは彩には冗談にしか聞こえなかった。いや、隣にいた麻沙美も彩と同様にぽかんとした顔で健司を見つめていた。
「一目惚れしたの、初めてなんだ」と笑う健司に、彩は曖昧に微笑むことしかできなかった。
健司と付き合うことにした最初のデートの日、「タレントを目指している」と打ち明けられた。彩も「あなたならなれるよ」と本心で応えた。
健司と一緒にいると、彩には初めてのことばかりで目が回るようだった。ジェットコースターに乗っているようだと、何度も思った。
毎日が楽しくてドキドキの連続で、健司を通して見る風景は魔法のようにきらめいていて、次第に彩にとって、健司が世界のすべてのようになっていった。
健司の部屋で彩が暮らしはじめてから半年ほど経った頃、ふと、彩は健司に違和感を持った。健司の引き出しから、女性のものと思われるアクセサリーがいくつも出てきたのだ。たまたま店でもらったか、フロアに落ちていたのを拾ってそのままにしてしまったか、その時はそんなことだろうと思った。
その少し前、健司は彩に「正式に」プロポーズをし、婚約指輪も注文してあると言っていたのだ。
それまで彩は、健司を疑ったことなどなかった。イケメンで人気者の健司には、当然女性ファンが多かったが、「俺が愛してるのは彩だけ」といつも変わらないやさしさをくれる健司を、彩は信じ切っていた。
だが、タレントを目指している健司がデビュー前から婚約しているなんて、契約的に許されるのだろうかと、初めてそこに思い至った。
その日、健司の帰宅後にそのことを話そうとしたが、うまくはぐらかされてしまった。それどころか、「今月は洋服代がかさんだから、金を貸してほしい」と言われたのだ。健司が彩に金銭をせびったのは、その時が初めてだった。
それ以降、健司はなにかと理由をつけては朝帰りするようになり、金の使い方は荒く、彩からたびたび金を借りては、彩の知らない持ち物が増えていった。




