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第14話 お前はどうしたい

 光迅社。四階女性漫画誌フロアの倉庫で、藤倉はうず高く積まれた段ボール箱の中身をひとつひとつ確認しながら、この年末に不用品をすべて廃棄してしまおうと思っていた。

 綺麗好きな藤倉は、女性編集者が半数以上を占めるこの部署にあって、なぜ倉庫がこんなにも汚いのかと顔をしかめる。

 いや、そんなことを口にしようものなら、また「女性蔑視」だとか「差別」だとか、藤倉の想いとは無関係なことで反撃されてしまうのだろうが、とにかく男でも女でも、自宅ではなく、会社という場所を整理整頓出来ない大人ばかりなことにうんざりしていた。


 今朝、藤倉は十年以上前の資料を廃棄してほしいと課長に頼まれた。

 なぜ俺が……? と思ったが、遠山萌々花もべにいもも、藤倉が担当している作家は仕事が早い。いま、一番手が空いている編集者は藤倉だろう。そして何よりも、社内で一番の綺麗好きと思われているらしいことは知っていた。

 「綺麗好き」なのではなく、「汚い状態が嫌」なのだが、その違いを説明する気にはなれなかった。

 仕方なく雑巾とはたきを手にし、豆絞りの手拭いで鼻と口を覆って倉庫に入ったはいいが、何段にも積まれた段ボール箱の上には埃が降り積もり、部屋の隅には薄汚いグレーの綿菓子のように大きくなった埃が、段ボールのカスや毛髪などを巻き込んで、藤倉の動きに合わせてふわふわと揺れていた。

 それを見て、藤倉は絶望的な敗北感を味わった。こんなプリミティヴな道具で戦えるはずがない、と。


 手拭いで顔の下半分を覆ったままなのに、それでも藤倉が怒りの表情を浮かべているのは明らかだった。

 全身から炎のような怒りのオーラを発散させ、ズン、ズン、と足音を重く響かせながら掃除用具室の扉を開けた藤倉は、業務用のバキュームクリーナー、ウエスの束、ハンディクリーナー、用途に合わせた数種類の洗剤、そしてバケツに汲んだ水をワゴンに載せ、悲壮感を背中に漂わせながら倉庫に戻る。


 倉庫というよりも、不用品置き場にしか見えない一室の入り口に立ち、藤倉は腕組みをしながら目を閉じて深呼吸する。気持ちを集中させ、この部屋の片づけと掃除を一気に終えてしまうのだ。

 まぶたを上げ、ギラリと不敵に光る瞳を室内に向ける。そこには闘争心が満ちていた。


 まず、無計画に積まれた段ボールを部屋の片側に寄せ、空いた床に掃除機をかけてから雑巾がけをする。モップでは細かい部分までは拭き取れないし、あとに筋が残るのも視覚的に汚らしい。

 きれいになった側の床に再び段ボールを移し、そこにも掃除機と雑巾をかける。それから箱の外側に書かれた誌名、担当者名など、関連すると思われる箱をグループ分けして中身を確認していく。

 ひとつひとつ開梱し、中身をあらためるのは面倒な作業だったが、半分ほど確認したところで、この部屋にあるものはほぼすべてが不用品、ゴミばかりだということに気づいた。

 中身を分別しながらそれぞれのごみ袋に詰め、段ボール箱はたたんで数枚ずつ荷造り紐で括る。それがある程度たまったら、台車に載せて地下のごみ置き場に運ぶ。

 途中、ふと「俺は一体、なにと戦っているんだ……」という想いが頭をもたげることがあったが、藤倉は無理矢理その考えを追いやった。


 九割方の段ボールが片付いたころ、『レモネード』と上面に書かれた箱を見つけた。開けてみると、そこには読者から送られたらしい手紙が大量に入っていた。

 初めに手に取った一通は、萌々花あてのファンレターだった。まだ作家別に分けてもいないようだと思い、萌々花宛てのもの以外は、それぞれの担当者に渡そうと箱ごとよけておいた。


 すべての中身を確認し終えると、保存しておくべき箱はたったの六個しかなかった。捨てた数はその十倍以上だったろう。すっきりと広くなった床にもう一度掃除機をかけ、藤倉はファンレターの入った箱を持って資料室をあとにする。


 自分のデスクに戻ると、午後三時になっていた。

 朝からずっと資料室の片づけ・清掃と、肉体労働ばかりだったが、これでやっと編集にかかれると、フロア入り口のティーマシンのところへいそいそと向かった。今日はニルギリだ。

 渋みが少なく、口当たりの柔らかなこの茶葉は、肉体を酷使したあとには心地よかった。淡い水色(すいしょく)をのぞき込むと、眼精疲労にも効果があるような気さえして、ふふ、と思わず笑みをもらす。


 パソコンを起動させ、『ベリィ・タルト』二月号の読者ページの原稿を読み始めた。『ルベ燃え』の新展開に対し、好意的な感想が多く掲載されているようで、藤倉はまたひとり微笑む。

 萌々花にネームのOKを出してから、次に訪問するのは五日後。原稿が仕上がる予定の日だ。

 担当者が河村から藤倉に代わり、背景などへのダメ出しをしてから三回目の原稿だ。勝手が違い、不安や迷いはまだあるかもしれない。困ったことはないだろうかと、このチェックが終わったら萌々花に電話をしてみようと思っていた。




 藤倉が資料室の掃除を終えてから一時間後、ちょうど休憩に入るときに、萌々花のスマートフォンが鳴った。


「げっ! 藤倉さんだ!」


 画面に藤倉の名前を見て、萌々花は思わず声に出す。


「ふふぅ~ん……」


 わざわざブリクサからだと私たちにも聞かせるなんて、と彩は萌々花が可愛らしく思えた。

 先生も、やっと恋する乙女になったのだ。もしかすると、自分がアシスタントに入ってから初めてではないかと気づき、これは応援しなければ、と俄然やる気になる。そうして明るいことを考えていれば、昨日の健司のことも早く忘れられそうな気がした。


 彩にからかわれているようでなんとなく気恥ずかしかったが、萌々花は通話にスライドさせて「おはようございます」と電話に頭を下げる。すぐそばにいる彩は、ブリクサにしてはやさしいことを言っているようだと、安心して原稿に向き直った。


「あ、いま廊下に出ますので、ちょっとお待ちください」


 電話の向こうの藤倉に断ると、萌々花はカーディガンを羽織って仕事部屋の外に出た。暖房のついていない廊下は思ったよりもずっと寒く、足の裏から這い上がる冷気に身震いする。

 仕事についての申し送りを一通り済ませると、萌々花は思い切って彩のことを藤倉にも話すことにした。


「実は、彩ちゃんの様子がちょっと気になってるんです」

『……野村がどうしたんだ』

「もしかしたら仕事とは関係ないかも知れないので、藤倉さんにお話しするのは筋違いかもしれないんですけど……」


 彩も、仕事場を離れればいろいろあるだろう。恋愛や家族や友人や……。さまざまな悩みがあって当然かもしれないが、それでも何か力になれるなら、先走って心配することが無駄になるなら、その方が結果的にはいいのだ。


『いいから言ってみろ』

「彩ちゃん、四日前ここに居るときに誰かから電話がかかってきたんですけど、その直後からなんだかおかしいんですよ。いえ、仕事にはまったく影響は出ていません。そりゃもう一生懸命やってくれてます。今まではトーンを貼っていたような個所にも背景をちゃんと描き込んでるし、ベタだって一ミリの塗り残しもありません。藤倉さんに指摘してもらって、みんな目が覚めたように頑張ってます。……ですが、彩ちゃん、その電話以来、何か隠し事をしているようで……」

『誰にだって言いたくないことはある。あるいは言う必要のないことだってあるだろう』

「それは……、もちろんそうなんですが、だったら様子がおかしくなる訳がわかりません。言いたくないことなら、それでいいと思います。でも、そういう場合なら、チームに心配されるような顔は見せない子なんです。いつもだったら、私にオフの日に何をしたとか、どこへ出かけたとか、美味しいイタリアンのお店を見つけたから今度一緒に行きましょうとか、漫画家とアシ以上の話をしてきたんです。その彩ちゃんが、なぜ私になにも話してくれないのかなって……。きっと、言ったら迷惑がかかると思ってるんじゃないでしょうか」


 藤倉に言いながら、萌々花は少し楽になっている自分に気づく。一緒にチームのことを心配してくれる人がいる、相談できる人がいることに、なんて心強いのだろうと感動していた。


『……お前はどうしたい』


 彩に訊いてみろとも、気にするなとも、藤倉は言わなかった。それは、いままで藤倉が発した中で、一番やさしい声だったかもしれない。

 萌々花の脳裏に、チャペルの階段で見上げた藤倉の凛々しい顔が浮かんだ。「かっこいいじゃねえか」と内心で身悶えした、ブリクサにそっくりな藤倉の姿だった。

 胸が苦しい。心臓が痛い。萌々花は泣き出しそうな気持ちになりながら、はっきりと伝えた。


「彩ちゃんの力になりたい。私にできることなら、助けてあげたいです」

『わかった。明日の昼前には着くように俺も行く。まだ〆切には余裕があるからな、心配事は先に片づけてから原稿を仕上げればいい』


 藤倉も、チームの一員として心配してくれている。彩ちゃんのことも大切に想ってくれてるんだ、と萌々花の胸は熱くなった。


「あっ、そうだ藤倉さん! ファンレター読みました! あんなにたくさん、重かったでしょう。ありがとうございました」


 『レモネード』時代からのファンだと書かれているものがいくつもあったと、萌々花は興奮気味に話す。やはり読者からの生の反応は『ベリィ・タルト』内の順位という数字よりも励みになるのだろう。

 藤倉は、あのゴミ置き場のような倉庫に何年も放置されていたファンレターが気の毒になり、そして、それを渡したときの萌々花の喜ぶ顔を思い浮かべ、このあと萌々花宛てのものを選り分けておこうと思った。


 通話を終え、息をつきながらエレベーター向かいの窓に目をやると、ガラスにぼんやりと霊的なものが映っているのが見えた。藤倉は「ひゃっ!」と短く悲鳴をあげて振り返る。すると、編集長が戸惑うような表情で立っていた。


「えっ! いまの電話の相手って遠山先生だったんですか? いや、その口調は……」


 くすくすと笑う編集長を前に、藤倉はきまりが悪そうに目を逸らす。

 萌々花の話を思い出し、藤倉も彩のことを気にし始めていた。彩は、萌々花にとってすでに家族のような存在なのだ。

そうだ、お前は昔から友だち想いだったよな、と藤倉は古い記憶を懐かしむように目を閉じた。




 残りの原稿は二十枚。藤倉に全ページ直せと言われた、あの悪夢の夜のことを思い出せば、あとの作業にはまだ余裕がある。


「あっ、もうじき七時だ。今日はもう終わりだね。二人ともお疲れ~! お茶飲んでく?」


 萌々花はペンを置き、椅子にかけたままで大きく伸びをした。


「ありがとうございます。わたしはこれから用事がありますので、今日は失礼します」

「じゃ、俺は彩ちゃんを駅まで送っていきます」

「そっか。じゃあまた明日よろしくね。明日はね、お昼ごろに藤倉さんも来るって言ってたよ」


 その言葉に二人は顔を見合わせ、〆切前でもないのに、なんで? と不思議そうに萌々花を見つめるが、ブリクサに会えるのはなんだかんだで嬉しいらしい。アニメファンらしい無邪気な笑顔で、いそいそと帰り支度をすませると、並んで玄関を出てゆく。


「先生、おやすみなさーい。また明日!」

「お疲れっす~」

「お疲れ~! ふたりとも気をつけて帰ってね! 風が強いから飛ばされないようにね!」


 ポーチから庭に降り、古代生物のレリーフが施された庭石を踏んで、萌々花は名残惜しそうに二人を見送る。竜樹と彩の背中が角を曲がって見えなくなるまでそこにいると、小走りで家の中に戻った。


「あ~、さむさむさむさむ!」


 薄着で北風に吹かれたため、短時間でも身体が冷え切ってしまった。洗面所に行って熱めの湯で手を洗うと、コーヒーを淹れようとキッチンで豆を挽く。


――彩ちゃん、なんでもないといいな。藤倉さんが来てくれるのは嬉しいけど、彩ちゃんに何を話すんだろ……。


 あのブリクサが、仲間を心配して心を寄せるシーンを想像し、萌々花はまたも自分とラウラを重ね合わせる。

 リーダー格のふたりと対峙し、若い女戦士は悩みを打ち明けてくれるだろうか。そして、それはブリクサたちが解決できることなのだろうか。


 アニメのキャラクターも、現実の自分たちも、そして萌々花自身の漫画の登場人物も、それぞれがそれぞれの世界で生き、戦い、喜怒哀楽を感じている。現実はなんて不自由なのだ、とときどき思うことがあるが、不自由な世界で、飛べない自分に失望しながら、それでも生きることをやめない。人間とはなんだろう……。

 いつか、そんな漫画を描いてみたいと思いながら、カップにコーヒーフィルタを載せた。



 駅までの道を歩きながら、竜樹と彩はしばらく『ルベ燃え』の話をしていた。

 エリカの父親を自称する竜樹は、エリカが苦境に立たされる流れが辛いようだったが、次第に今は反撃のチャンスを狙うターンなのだと理解し、虎視眈々とその機会をうかがってるようだ。

 彩は背景を丁寧に描くことの楽しさに目覚めたといい、自分が創造した街にいるエリカが一番美しいのだ、と自信を持って言う。

 ふと会話が途切れたのを機に、竜樹が思いつめた表情で切り出した。


「彩ちゃんさ、きのう新宿にいたでしょ。サザンテラスのとこ」

「えっ……、う、うん。竜樹くんも行ったの?」

「俺は、月に一回の画材仕入れ日だったのよ。や、俺のことはいいんだけど、俺が見たとき、彩ちゃん、なんかつらそうだったから気になっててさ」


 自分ひとりの時か、それとも健司と一緒のところを見られたのか。彩は竜樹に訊いてみたかったが、少しでも話して、竜樹を巻き込むことになったらいけないと、首を振った。


「え~、そんなことないよぅ。大丈夫! 明日もめっちゃがんばるよ! ブリクサも来るっていうし」

「彩ちゃん……」


 こんな彩の笑顔は初めてだった。こんなに弱々しくて無理に笑って。そうさせているのは自分だが、竜樹は彩が痛々しくて、ただその顔を見つめることしかできなかった。


 駅の明かりが見えてきた。「急行が来るから」と言って、彩はそこにむかって走り出そうとした。すると、それを待ち構えていたように券売機の影から男がゆらりと現れた。


「彩、いま帰りか。寒いのにこんな遅くまでこき使われて、かわいそうに。俺も冷え切っちまったよ」


 そう言うと男は背中を丸め、両手に息を吐きかけてから、わざとらしくこすり合わせた。


「健司……!」


 彩の顔に、みるみる怒りと悲しみが広がる。手袋をはめた手で口元を覆い、目を大きく見開き、決して会ってはいけない相手に遭遇したような驚きと嫌悪に満ちた顔で、黙って男を見つめる。

 竜樹がその場に居合わせたことで、彩はさらに傷ついたようだった。

 こんなところを見られたくはなかったのだろう。竜樹は困惑し、「彩ちゃん……」と呟くだけでただ立ち尽くしていた。

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