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第13話 追いかけてきた過去

 時刻を確認するのに、スマートフォンを見るのはカッコ悪いと何かで読んだ。

 だからというわけではないが、コートの袖を少しまくって腕時計を見ると、約束の時間を二十分も過ぎている。いや、二十分「しか」過ぎていないと言うべきだろうか。約束の時間に現れたことなど一度もない相手なのだ。


 クリスマス前の新宿駅南口で待ち合わせをする人たちは、みな楽しそうで幸せそうで、自分だけが取り残されているような気がして、なんだかみじめだった。

 華やかな笑顔で目の前を行く女の子たちは、私が何をしに新宿に来たのかなんて知らない。みんなのように楽しい用事で来たんじゃない、と彩は目を伏せてうつむき、ブーツの先をぼんやりと見つめた。途端に京王線の方から吹き込んだ冷たい風に髪をあおられ、慌てて手のひらで押さえる。


――もうっ、ほんとに嫌……。


『今どこ?』 


 メールを送っても返信はない。ずっとそうだった。いつも待たされ、甘い言葉で夢を見せられ、そして裏切られたのは、もう三年も前のことだ。


『あと五分したら帰るから』


 怒りながらメールを打って送信すると、エスカレータ―脇の小さな花屋が目に入る。店先に飾られていたクリスマスリースや、キラキラしたリボンでまとめられたブーケなどを見ていると、いくぶん気持ちが和らいだ。

 スノーマンのガーデンピックがあまりにも可愛くて、思わず手を伸ばす。すると、同時に彩の後ろから伸びてきた腕に、ごく自然に抱きすくめられた。まるでいつもそうしているようなその動作は、周囲の人に二人を恋人同士だと思わせるだろう。彩はその腕の中で振り返り、相手を見上げて睨みつけた。


「人違いだったらどうすんのよ!」

「あーや、そんな怖い顔しないの。せっかく久しぶりに会えたんじゃん、何年ぶりだよ。そして俺は、足首だけだって彩を間違えたりしない」

「バカじゃないの。私は二度と会いたくなんかなかった」

「とか言って、来るって決めたのは彩だろ? いま仕事なにしてんだっけ?」


 ここで立ち話をしていたら、周りの人に聞こえてしまう。そう思った彩は、男の言葉には答えずに歩き出し、楽しそうな顔ばかりの人混みを縫って、スターバックスを目指す。平日のどんな時間帯でもたいてい満席だが、外で順番待ちをしている客はいない。店内をのぞきこんで空席を見つけると、そこを指差して男に先に座らせた。普段は限定メニューを注文するのが好きな彩だったが、ベリーとレアチーズのフラペチーノはわくわくするような真っ赤で、とても今、この情況で飲む気になどなれない。ホットのカフェミストをひとつ買って席に向かうと、男はそのまま座っていた。


「ちょっと、さっさと行って来てよ」

「いや、だから金ねえんだって」


 テーブル席にふたりで座っているのに、ひとつしか買わずにいることなどできない。納得がいくはずはなかったが、彩は自分と同じものを注文すると、席に戻って男の前に乱暴に置いた。


「彩ちゃん、やさしい」


 男の軽々しい言い方に苛立ちをおぼえながらも、彩は無言でコーヒーを飲んだ。そしてバッグに手を入れると、用意してきた封筒に触れる。

 早く用を済ませて帰りたいと思うのに、理由や事情も訊かずに黙って渡すわけにもいかない。

 過去に裏切ったくせに、何事もなかったような態度でいられる神経が理解できない。ここで厳しくしておかなければ、このさき何度も同じことを頼まれるかもしれない。

 彩は、気持ちを落ち着かせようとカップを両手で包むように持ち、手のひらから身体の内側へと暖かさがしみてくるのを待つ。すると男は、焦れたように身を乗り出し、テーブルの向かいから早口で言う。


「な、持ってきてくれた?」

「その前に、今どこで何してんの? 仕事はちゃんと続けてるの? それを聞かせてよ」

「ったく、彩は相変わらずだな。えー、と。金がなくなったら日払いのバイトやってって感じだったんだけどさ、それじゃぜんぜん余裕なくて、ちょっと金利が高いとこで借りたら、みるみる膨れ上がっちまって……で、イマココ」

「相変わらずは健司のほう。ふざけてばっかりで。で、いくらあんの? 借金」

「四百万……はあると思う」

「四百万って……! 私が二十万持ってきたところでどうにもならないじゃない」

「そ。だから今までの女に少しずつ借りるつもりだけど、今んとこ、来てくれたのは彩だけなんだわ」 


 「今までの女」と、他の女性の影を平気でチラつかせる健司は、封筒を受け取ろうと手を伸ばす。

 こういう男にお金を貸したら、きっと返って来ない。それは彩もわかっているし、実際、過去に貸した少しずつのお金が戻ってきたことはない。

 だが、一度は愛して、この人と結婚したいとまで思った男が、こんなことで落ちぶれていくのを黙って見過ごすわけにもいかなかった。

 彩が今日ここへ来たのは、そんな自分の想いを清算する、つまりは相手ではなく、きっと自分のためなのだ。


 彩が健司に封筒を渡す。下を向いて中身を確認した健司は、驚いたような笑顔で顔を上げた。


「三十万入ってる。返さなくていいから、もう絶対に連絡しないで。私には私の生活があるの。もう健司とは関係ないし、忙しいし充実してるから。さよなら」


 立ちあがりかけた彩の手首を、コートの上から健司がつかんだ。彩ははっとしてその手を見つめる。


――憶えてる、この感じ。健司は指が長いんだった。


「待ってよ、さっき、仕事なにしてんのって訊いたじゃん。教えてよ。それから俺さ、金のことは別にして、お前とやり直したいってずっと思ってたんだよ。それも伝えたかった。やっぱり俺には彩しかいない。今度こそちゃんと借金返して、働いて、お前のこと大事にするから。ね、彩、もう一度俺と……」


 どの口がそんなことを言うのだろうと、彩は健司を睨みつけた。

 掴んだままの手首から指をずらし、健司は彩の手のひらに指先を潜り込ませようとする。彩が反射的にそれを避けると、コーヒーカップに手が当たり、テーブルの上を褐色の液体が芳香を漂わせながら這う。それがぱたぱたと床に落ち、彩はうつむいて唇を噛んだ。


「……ばかにしないで」


 絞り出すようにそれだけ言うと、彩はバッグをつかんで出口に向かう。


「彩! 諦めねえからな!」


 健司をおいて店を出る。新宿のスタバであんな大声を出すなんて、なんて恥ずかしいヤツ、と思いながら速足で遊歩道を抜けて駅に向かう。冷たい風に頬を撫でられると、そこを涙が伝っていたことに気づいた。


――やだ、なんで泣いてんの。ああいうヤツだっていうことは、とっくにわかってたのに。


 振り向いてみても、健司が追ってくる様子はなかった。彩はほっとして立ち止まり、両手で涙を拭う。




「……彩ちゃん……?」


 サザンタワーに向かおうと、遊歩道反対側のブーランジェリーの前を歩いていた竜樹には、スターバックスから出てきた女性のコートに見覚えがあった。

 それは彩が最近いつも着ているコートで、大きめのフードと、裾にあしらわれた刺繍が可愛らしいものだ。やさしげなオフホワイトが、彩によく似合っていた。


 画材を大量に買い込んだため、声をかけようにも、自分の目の前さえ良く見えないのであきらめたが、竜樹はなぜだか妙に胸騒ぎをおぼえ、明日それとなく聞いてみようと、暗くなり始めたデッキで思っていた。


 


 翌日、いつもと同じように自分のデスクについて作業をすすめる彩だったが、その背中から漂う気迫は、いつもとは完全に違っていた。

 萌々花が線画を完成させたばかりの原稿にベタを塗り、背景を描き込み、エリカの服に合わせてトーンを貼っていく。

 「お前の仕事だろう」と藤倉に言われてから、それまでの掲載ページを細部まで徹底的にチェックし、トーンの必要性や、萌々花が生み出したキャラクターを生かす使い方などを彩なりに学んだ。

 そして、自分の手でペンを使って描き込む面白さに気づき、背景にトーンを使うことはほぼなくなっていた。それは、ブリクサ藤倉に褒められたい気持ちの表れでもあるのだろうと、萌々花は感じていたが、どうも今日の彩は、普段とはなんと言うかこう、「出てくるモノ」が違うような気がするのだ。一体、彩に何があったのだろう。


「彩ちゃん、今日はなんか……、すごい集中力じゃない?」 


 萌々花は手を休めてそっと訊ねた。


「そうですか? いやー、最近なんだか仕事がすっごく楽しいんですよ~」


 ニコニコしながら答える彩だったが、昨日のことがあるからか、竜樹にはその笑顔が無理に作られているようで痛々しく見えた。


 四日前、千鶴子からすき焼きをご馳走になった日。あの電話のあとから、彩の様子がどこかおかしいとは感じていた。

 だが、それだけで何かあったのかと訊くのもおせっかいかと思い、気になりながらも何も言えずにいた。日に日に思いつめたように深刻な顔をするようになった彩に、そろそろ声をかけるべき、手を差し伸べるべきではないかと、まず萌々花に相談しようと思っていたのだ。今日の彩は、明らかにおかしい。


「そういえば彩ちゃん、自分の漫画って描いたりしてるの?」


 萌々花が訊ねると、彩は原稿用紙に目を落としたまま、手を止めずに答える。


「いえ、前は描いてたんですけど、絶望的に人物が苦手で」

「えー? ここに入る時に一通り見せてもらったけど、そんなことなかったよ」


 萌々花がなおも食い下がると、彩はやっと萌々花に向き直り、やや自嘲的な笑みを浮かべて言った。


「先生に言われても嬉しくないですよ! そりゃ、美大は一応出てますよ。だから全くダメってわけじゃないと思いますけど、でも、プロの漫画家として通用するってことは絶対ないです。い、いいんですよ! 私は先生のアシになりたくて応募したんですから!」

「そっかそっか。うん、ありがとう、彩ちゃん。ええ子やねぇ」


 萌々花は、まるで孫を愛でながら目を細める祖母のように彩を見ている。萌々花の線画待ちの竜樹は、クロッキー帳に何かのデッサンをしているようだ。


「竜樹くん、待たせてごめんねー! もうちょっとで一枚渡せるから! ていうか、今日は竜樹くんも静かじゃない? なに、なんかあったの? チーム萌々花」

「うっす。ちょっとデッサン力を上げたくて練習してたっス。だいじょうぶ、ヒマじゃないすよ! 先生はそんなこと気にしないで集中してください。……あ、そうだちょうどよかった、先生」


 竜樹は椅子から立ち上がり、数歩歩いて萌々花のデスクに近づく。彩に気取られないよう、カモフラージュのために今のデッサンを手に持っていた。萌々花の横に来ると、「ここなんすけど……」とクロッキー帳を指し示し、彩の様子が変だと、そっと耳打ちする。

 萌々花もなんとなく感じていたらしく、竜樹と目を合わせると小さく頷き、「あとでメールするよ」と小声で応えた。


 竜樹が自分のデスクに戻っていく間も、彩は定規を使って細かい集中線を描いている。

 藤倉が来る前は、あれもトーンで表現していたのだ。ほんの三か月前のものと比べたら、まったくの別人が描いたような漫画になるかもしれない、と萌々花は思った。


 今夜は、この冬一番の冷え込みになるらしい。萌々花は、チームのふたりを少しでも早く帰らせてあげたいと思いつつ、藤倉はどうしているだろうと考えていた。

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