第12話 両手いっぱいの手紙
仕事部屋に戻り、三人は今後の展開を話し合うことにした。
『ルベ燃え』は萌々花の作品だが、竜樹も彩も、いつもアイディアを出して協力し、責任と愛情をもってアシスタントを務めている。萌々花には心強い仲間だった。
明日、藤倉を交えた四人で相談した方がいいような気もしたが、萌々花はこの三人のチームで生み出したものに、担当として藤倉のOKがほしいと思ったのだ。
会議は白熱した。休憩前に話題に出た「エリカが堕ちるさま」をどう描くか。そして自分にとっては不倫でないと言い切っていたエリカが、脅迫者の言いなりになるのはどういう理由でか。重要なポイントはこの二点だった。
まず、どんな理由でエリカが脅迫者に従う気になったのか。それを萌々花はこう考えた。
「エリカが横溝と付き合ってたのは、もちろん瞬と出会う前だから、瞬にばらすと言われても、そこは問題ないと思うのね。瞬だって、エリカがどういう遊び方をしてきた女なのかはよく知ってるはずだからさ。自分と出会う前の過去のことにどうこう言うような男じゃないよね。それなのに、コイツの言うことを聞かなきゃならない情況っていうのはさ、きっとこうだよ。『横溝の妻にばらす』って言われた。過去のこととはいえ、そして誘ったのは横溝の方だとはいえ、妻を悲しませるのは嫌でしょ。同じ女として……っていうか、エリカも自分が結婚して妻になったからこそ、理解できるのかもしれないよね。……どう思う?」
竜樹と彩は真剣な眼差しで聴いていたが、ふと気付いたというように竜樹が言う。
「えっと、まずその横溝にエリカが連絡してみるのはどうでしょう? 悪い奴は横溝の元・部下を名乗ってるわけですし、もしかしたらコイツと横溝はグルかもしれません」
「あー、そう来たか。……だよねぇ、うーん。あまり犯罪的なことは描きたくないんだけど、それ面白いかもね!」
鉛筆を握った萌々花は、原稿用紙の端にそれをメモし、ネームの一カット目を描き始めた。
「そういう展開になると、必然的に連載は長くなりそうですよね。これから先の何か月か、エリカは苦しめられるわけですから。そのあと、エリカの美貌と性格のカッコよさを最大限いかして、スカッとする復讐をしてやりましょう!」
彩は右手を拳に握り、力強く突き上げた。竜樹も「おぉ~」と沸き、萌々花もそれでいいと思った。
気づいたら三時間も経っている。ふたりはもう上がりの時間だ。なんだか名残惜しいが、萌々花が「おつかれさま」を言おうとしたとき、習い事の帰りに買い物をしてきた千鶴子が帰宅し、竜樹と彩を夕食に誘った。今夜はすき焼きで、いい牛肉をたくさん買ってきたのだと嬉しそうだ。
充実した会議を終えたからか、さきほどの不安げな様子から、いつもの彩に戻っていたが、竜樹はなんだかすっきりしないらしく、千鶴子の手伝いをしようとエプロンを着けている彩に近づいて声をかけた。
「彩ちゃん、なんかあったら、いつでも力になるんで」
急に真面目な顔をした竜樹がなにを言っているのかよくわからず、彩は戸惑いながらも答える。
「うん……? うん。ありがとう。私も竜樹くんの力になりたいと思ってるよ」
いつになく可愛いらしい顔で微笑む彩に不安を覚える竜樹だが、何かあったらチームが必ず助けると、それ以上言葉にすることなく、心の中で思うだけにした。
ふたりの様子をキッチンの入り口から見ていた萌々花は、このチームの良さを改めて思う。まだまだこれからなのだ。せっかく連載をつづけてほしいと、編集長直々にお願いされたのだから、このチームでやっていきたい。
萌々花は一緒に頑張ってくれる仲間と出会えたことに感謝しながら、吊戸棚からすき焼き用の鍋を出した。
翌日。十七時きっかりに藤倉はやってきた。
竜樹と彩がうっかり「ブリクサさん」と呼んでしまうのには慣れたようだ。「うっかり」ではなく、既成事実として定着させたいのかもしれないと、萌々花は密かに思っている。
その藤倉に、二時間ほど前にやっと出来上がったネームを渡し、萌々花は緊張しながらOKを待っていた。
「いいだろう。今日から下書きに入れるな」
ネームから顔を上げた藤倉は、いつもよりも少し機嫌が良さそうに見えた。心なしか笑顔のようにも見える。
「ありがとうございます! はい、下書きは三日で終わらせます」
――おぉー、藤倉さんが笑ってる? いやいや、単なる見間違え? 光の加減か? ブリクサが笑うところなんて想像できないよ。
「つか、ブリクサさんでも笑うことってあるんスね」
――なっ! 竜樹くんたらなに言っちゃってんの! せっかく一発OKが出たってのに、ヘソ曲げられたらどうすんだよ!
萌々花は心の中でで竜樹の首を力いっぱい絞めた。目を回して舌をだらりと伸ばし、首をぐらぐら揺らしている、よくギャグ漫画で見るようなイメージだ。
「……」
藤倉は黙って竜樹を見つめる。だがその目に不快感は表れておらず、むしろ竜樹に対して親しみを覚えたような色をしていた。
「いいペースだ。そのまま進めろ」
竜樹の言葉には応えず、萌々花に指示を出す藤倉だが、本当にいつもより表情が柔らかいようだ。黙ったまま鞄から光迅社の社名入りの紙袋を取り出すと、萌々花に差し出す。
またこの人は無言で……一体なんなんだよ、資料か? と思いながら受け取った萌々花が目で問う。それは意外にずっしりと重かった。
「ファンレターだ。原稿の合間に読んでおけ」
いつものように紅茶の入ったカップを、取っ手ではなく上からつかむようにして飲みながら、驚いた顔で自分を見つめる萌々花の視線を避けて、藤倉は静かに言った。
「えっ? ほんとですか? だって、こんなにありますよ」
受け取った袋には、百通はあると思われる手紙が入っていた。萌々花はそれを大事そうに抱え、藤倉に頭を下げる。
今日は竜樹と彩を早く帰らせ、一人で下書きをはじめようと思う。藤倉も、自分が担当している作家の人気が上がって嬉しいのだろうか。昨日チームで行った会議の結果を報告する竜樹と彩にも、気のせいかやさしい眼差しを向けているようだった。
今後の流れは大まかな部分だけ決めておき、読者の反応を見ながら、何通りか用意しておくことになった。萌々花にとっても、藤倉のその意見に異存はなかった。
エリカは漫画の中で生きているのだ。読者の生の声によって、どんな風にも変化させられる自信はある。これからエリカが歩む道は、決して楽な道のりではないかもしれないが、最後はヒロインの笑顔で締めくくりたい。「幸せ」の形はみなそれぞれ違うのだろうが、最終話でエリカの幸せを見届けたいと、全員が思っていた。
藤倉を見送り、十九時に竜樹と彩を見送る。「みんなで読もうよ」と藤倉から渡された手紙入りの袋を指したが、まず先生から、とふたりは明日以降に読むと言って帰っていった。
薄茶色のケント紙で作られた、マチの厚い光迅社の袋には、様々な大きさの封筒が入っていた。
小学生が使うような可愛らしいデザインのものから、長4で透かし模様の美しい和紙製の封筒まで、さまざまな読者がレターセットを選び、萌々花に宛てて想いを込めて書いてくれたものだ。そう思うだけで萌々花は胸がいっぱいになり、もう一度袋ごとそれを抱きしめる。
それから目を閉じて袋に手を入れ、適度にかき混ぜてから一通を取り出した。
パステルカラーの洋封筒だ。「光迅社 ベリィ・タルト編集部 遠山萌々花先生」と、丸みを帯びた小さめの文字で宛名が書かれている。封筒の裏には、「東京都」と「U・H」とイニシャルだけが記されている。
こんなにたくさんのファンレターを一度にもらったのは初めてのことだ。『レモネード』に連載していた頃は、月に十通程度の手紙をもらっていたが、そういえば『ベリィ・タルト』に異動になってからは、一度も届いたことはなかった。
初めのうちは、そのことでも随分と落ち込んだものだ。私にはやっぱり才能がない、漫画家には向いてない、人気がないのは漫画がつまらないからだ、といつもくよくよ悩んでいた。
河村は「ファンレターの数と、才能や作品の良さは別だ」と励ましてくれたが、萌々花はとても傷ついていた。
それが、突然こんなに大量の手紙をもらえるようになるなんて、一体いままでの『ルベ燃え』となにが違うのだろう? と萌々花は首を傾げる。藤倉に言われた通り、背景やカット割り等に気をつけただけで、ストーリーや絵は同じなのだ。雑誌のページを開いた印象が、それまでとはそんなに違うのだろうか。
パステルカラーの封筒をいったんテーブルに置き、藤倉が来る前の号と、担当が藤倉に替わってからの号を手に取り、『ルベ燃え』のページを開いて並べ、あっ、と息をのんだ。
違いは一目瞭然だ。藤倉が監修した回の『ルベ燃え』は、エリカがいきいきと輝いている。
街の様子も室内の調度も、圧倒的なリアリティで迫り、キャラクターの体温や体臭さえ身近に感じられそうだ。読者は感情移入しやすくなり、キャラクターへの愛着を深め、自身が登場人物のひとりになったような気持ちで読むことが出来る、そんな作品に仕上がっていた。
今の今まで、紙面を比較することすらしなかった自分のボンクラさが情けなくなり、腹立たしくもあった。何をやってきたのだろう、私は。あやうく竜樹くんと彩ちゃんをダメな漫画家と心中させるところだったと、萌々花は心底思い、改めてふたりのアシスタントと藤倉に感謝する。
ふたたびパステルカラーの封筒を手にすると、レターオープナーで端を切って中の便箋を取り出した。手紙には、『レモネード』の頃からのファンだと書かれている。「レディコミは苦手なのですが、先生の漫画を読みたくて買っています」と。
萌々花は嬉しくて涙が出そうになった。ずっと見てくれている人がいる。苦手な雑誌にお金を出して、毎月買ってくれる人がいる。こんな幸せなことがあるだろうか。こんなに恵まれた漫画家がいるだろうか――。
読み終わると、便箋を元の封筒に丁寧にしまい、つぎの一通を取り出した。
何通か読みながら、萌々花はまぶたが腫れるほど泣いている自分に気づく。重くなったまぶたは熱を帯びて痛みも感じたが、心の中は晴れやかだった。つぎで今日は最後にしようと、また目を閉じて袋に手を入れる。
取り出したのは、グリーティングカードを送るような定形外の大きな封筒で、宛名は右肩上がりで、筆圧が強くがっちりした印象の文字で書かれていた。
萌々花は、その手書き文字にノスタルジックな想いを感じた。見覚えがあったのだ。これは、誰の字だっただろうと思いながら封筒を裏返すと、そこには懐かしい名前があった。
途端に、数々の思い出深いシーンが、頭の中で高速再生された。
――わぁ、なつかしい。元気かな? ていうか、よく編集部の住所がわかったね。
口の中でぶつぶつ言いながら、萌々花は封筒を開いた。




