第11話 顔をあげて俺を見ろよ
屈辱に頬を紅潮させたエリカが、厚い絨毯の上に落としたスカートから足を抜いた。これで身体にまとっているものは、下着とストッキングとハイヒールだけになった。
大胆な花柄がプリントされた、ミニ丈のシルクのスリップは、去年の誕生日に友人からプレゼントされたものだ。
こんなことになるなら着けてこなければよかったと、エリカは後悔している。ずっと仕事上のライバルとして、刺激的な関係を続けてきた友の顔が頭に浮かび、悔しさと彼女への申し訳なさで、エリカは赤い唇を噛みしめた。
そういえば、彼と出会ったパーティーへも、彼女と一緒に出掛けたのだ。そこで彼・横溝は、エリカを一目見て気に入った。妻帯者だということは初めから聞かされていたが、「それはあなたの問題で、私にとってあなたは、ただの男だわ」と、自分には相手の家庭を壊す気など毛頭ない意志を伝え、横溝と付き合いはじめたのだ。
『どうした? 顔をあげて俺を見ろよ』
脅迫者のいやらしい声に、身体を震わせるエリカ。スリップの肩紐を右だけ落としたまま絨毯に膝をつく。
『もう、許して。こんなことは出来ない』
脅迫者が吐く煙草の煙がエリカの髪にまとわりつき、ホテルの高い天井で渦を巻く……。
「あ―――」
ぱたん、と音をさせてペンを置いた萌々花は、首をだらりと下げて重い息を吐いた。明らかに落ち込んでいる。
今まで性に開放的で、多くの男と対等なセックスを愉しんできたエリカが、新しいキャラクターである「エリカが妻帯者と性的関係を持っていたことを知る者」に脅され、高級ホテルの一室でストリップの真似事をさせられているのだ。
今月号で、エリカと瞬の結婚式のシーンを冒頭にもってきたのは正解だった。藤倉はその場でOKを出し、読者の反応も良かった。だが、この先も順調に人気が続くとは限らない。
藤倉は明日ネームをチェックしに来る。また、眉間にシワをよせたあの神経質そうな顔の前で、手に汗を握り、緊張して待つのかと思うと胃が痛くなりそうだ。明日。明日の午後までに藤倉が納得する話を完成させなければ……。
「明日っスよね? ブリクサが来るの」
萌々花の胸の内などお構いなしに、竜樹がウキウキした様子で言う。大好きな「ブリクサ」に似た藤倉が来るのがそんなに嬉しいのかよ、と思いながら萌々花は答える。
「うん、明日の夕方かな。それまでにネームを仕上げなきゃならんのだよ、竜樹くん。エリカの父親としての意見はどうよ? こういう男に脅されたら、エリカはどう対処するべきかね?」
「エリカらしく……っスよねぇ」
竜樹は顎に手を当てて考え込んでしまった。「父親として」はマズかったかもしれないと思いつつ、今度は彩に訊ねる。
「彩ちゃんはどう?」
一年以上つづく連載だ。主人公にはそれなりに思い入れがある。特に萌々花は、エリカのような生き方は自分には到底できないと理解しつつも、どこかで自由奔放な女性に憧れを抱いてもいた。
「そうですね……、脅迫してきた相手から言われるまま、セックスの奴隷的な女に堕ちていくのはエリカっぽくないと思います。あまりにもベタだし、むしろ男性向けの展開になっちゃうと思うんですよね。でも、いったんそういう流れにしてから、エリカが反撃するのもいいかな、とは思います。今まで、その美貌で男たちを翻弄してきたエリカが、屈辱にまみれた惨めな経験をするのは、読者はむしろ興味深く捉えてくれるかもしれません」
美しくリッチで華やかで、プライドが高く、でも尊大ではない。そんな主人公・エリカの人生の一時期を描いてきた萌々花だが、残り三回ほどで連載終了だったはずが、回数未定のまま続行となった。
それはもちろん、ありがたく嬉しいことだが、急に変更されてもストーリーが追い付かない。
新しいキャラクターを登場させ、それに付随した「事件」を起こしていくには、当初描いていたストーリーをいったん解体して、再構築する必要がある。
『レモネード』に連載していた頃は、ストーリー性を重視した漫画が好きで、その部分には自信を持っていた萌々花だが、性愛メインの『ベリィ・タルト』においては、常に「これでいいのか」という不安が付きまとっていた。
「いったん休憩しようか」
三人とも、頭から湯気がでそうなほどに考えが煮詰まってしまい、切り替えることが必要だと、萌々花はティータイムを提案する。
ネームと下書きが終わらなければ、竜樹と彩には原稿にかかわる作業はないのだ。
明日の午後までにネームを仕上げるとして、ふたりともオフでいいかな、と考えながらティーカップを取り出す。
――あっ、いやいや、そんなのダメだ。藤倉さんが来る日にふたりをオフになんかしたら、「ブリクサと二人きりですね」なんて言われるに決まってる!
ポットに三人分の茶葉を入れながら、萌々花はキッチンでひとり頬を赤らめた。
お湯を注いでタイマーをセットする。その間にお菓子の準備をしようと冷蔵庫を開けた。
いつもは黒地に金色のリボンが描かれているリュバンドールの箱だが、十二月はクリスマスカラーの赤と緑の地に金色のリボンだ。ゴージャスで温かみがあり、ヨーロッパの厳かなクリスマスのイメージが頭に広がる。
今朝、ふと思い立って散歩に出た時、美味しそうなビュッシュ・ド・ノエルが出ていたので、三人分買っておいたのだ。
「わぁー、やっぱりここのお菓子は美しいですね」
ケーキが載ったお皿を目の高さに上げ、あらゆる方向から眺めては、彩が溜め息を洩らす。
薪をかたどったこのケーキの起源は諸説あるようだが、萌々花は子どもの頃からなんとなく幸せな家庭を想像させる、クリスマス時季限定のこのケーキが大好きだった。それは、萌々花が成人する前に亡くなった父親への想いがあるのかもしれない。
リュバンドールのビュッシュドノエルは、薄めに焼いたビスキュイに、チョコレートクリームが塗られてロールケーキになっているのだが、そのクリームには、キャラメリゼした数種のナッツが細かく刻まれて入っている。その香ばしさといったら、口に含んだ瞬間の鼻に抜ける香りがたまらないし、他で見る同じケーキよりもずっと薄い生地なので、くるくると巻いた断面は本物の薪のように、年輪を模した焼き色の層が多く、その点でも美しさでは秀でているのだ。
さらに表面を覆うガナッシュクリームは、ビターチョコレートとミルクチョコレート、そしてコーヒーのクリームが三層になっていて、濃厚で複雑な風味が口の中で混じり合い、溶け合う瞬間の悪魔的な官能味には、生命の危険を感じるほどだ。
薪の表面には、きのこに見立てた小さなマロンコンフィと、ビターなオレンジピールを練り込んだギモーヴが飾らている。そこに静かに降る雪のような粉砂糖と、積もりかけを表わしたレモンのアイシング。まるで降誕祭時期の森の中にいるような、そんな厳かで聖なる気持ちにさせてくれる、ケーキ皿に載った聖夜の物語のようなお菓子だった。
「うん、これは本当に美しい」
萌々花もケーキ皿を持ち上げ、さまざまな角度からじっくりと見つめる。その間に竜樹がポットから紅茶を注ぐ。三人分の湯気があがるリビングルームは、それぞれの幸福を噛みしめる小さな安らぎの場となった。
「んー、どうしてここのケーキはこう、いつも期待以上なんでしょうねぇ」
彩が、落ちそうな頬を手のひらで押さえながらうっとりと目を閉じて言う。
「私、先生のアシスタントになってから三キロ太ったんですよぅ」
「千鶴子さんのごはんも、栄養たっぷりで美味いスからね」
竜樹はやはり、ケーキよりも肉のようだ。千鶴子がときどき振る舞う肉料理を思い浮かべているらしい。
「い、いいんだよ漫画家は! 閉じこもってガリガリ描いてるんだから、おやつくらい楽しまないと。でも、竜樹くんはぜんぜん太らないね。むしろ痩せていってるんじゃない?」
不思議そうに全身を眺めまわす萌々花と彩に、着ているシャツをまくりあげて割れた腹筋を見せた竜樹は、やや得意そうに言う。
「あー、俺は無駄に筋トレが好きな絵描きなんで、帰ってからめっちゃ鍛えてるんすよ」
香り高い紅茶と、芸術的なまでに美しい洋菓子の前でいきなり腹を出す男子に、萌々花と彩はまったく動じることはない。レディコミ作家の仕事場だからだろうか、ふたりは口々に「すごーい!」「やばーい!」などと盛り上がる。
「竜樹くん、ケーキ食べ終わったらさ、ちょっとそのカラダ、デッサンさせてもらってもいいかな」
「え、いっスよ……。てか、俺のカラダが『ルベ燃え』に登場しちゃいます?」
「そうかも、しれない。いや、たぶんそう」
萌々花が答えると、竜樹と彩はなぜか嬉しそうに手を取り合って笑っているが、それを描くのはアンタだよ、と竜樹を見ながら萌々花はひっそりと思った。
すると、彩のスマートフォンが可愛い音を立てて着信を告げる。ディスプレイを確認した彩は、「ちょっとすいません」と断ってから通話を始め、ややあって顔を曇らせる。彩が話す声は次第に小さくなり、送話口を手で覆っているため、萌々花には何も聞き取れなかったが、通話を終えたその顔には、明らかな動揺が見えた。
「……彩ちゃん? どうかした?」
萌々花は心配になり、そっと声をかける。だが、彩はなんでもない、と笑ってみせる。
テーブルをはさんだ向かいで、着ていたシャツを完全に脱がされた竜樹も、彩をじっと見つめている。
だが彩はそんな竜樹の視線に気づくことなく、無理に作ったような笑顔を浮かべながら、ふたたび薪型のケーキを口に入れた。




