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第10話 濱永リナ

 広々としたリビング兼仕事部屋には、キャラクターがプリントされた薄いカーテンを透かして、午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。


「では、原稿をお預かりします」


 ほんの数枚の原稿用紙を受け取っているのは、笑顔の藤倉だった。


「はーい、よろしくお願いします~。今月号でいきなり順位が上がったので、緊張しちゃいました~。藤倉さんのおかげですね」


 女は黒縁のメガネをかけ、ゆったりしたシルエットのジャンパースカートを着ている。ソックスは厚いフリース製で、これにもキャラクターのプリントがついていた。

 部屋の中にもいたるところにキャラクターグッズがあり、そのどれに対しても、女は「ちゃん」「くん」「さま」などを付けて呼び、大切にしているようだ。モノに対してやさしいのはいいことだ、と思いながら、藤倉は女のやる気を持続させようと言葉を返す。


「緊張されましたか。そのプレッシャーを抱えながらも、直していただくところはほとんどありませんでした。先生は仕事が早い。どうぞこのまま自信を持ってください」

「藤倉さんは作家を育てるのがお上手なんですね。『ルベ燃え』の遠山先生も藤倉さんが担当になられたんですよね」

「ええ、まあ」


 どこでその話を耳にしたのだと思いながら、藤倉は曖昧に頷いた。まあ、どこでもなにも編集部へ来れば、誰かがそんな話をしているだろう。

 女は世間話が好きらしく、『ベリィ・タルト』での好きな漫画の話や、明日の天気、芸能人の不倫ネタまで楽しそうに話し始める。


 彼女は『ベリィ・タルト』に四コマ漫画を連載中の作家・べにいもだ。

 四コマだが、内容はギャグ寄りではなく、普通の主婦やOLたちの日常的な性体験をゆるく描いたもので、創刊当時からずっと連載を続けている古株だった。

 四ページの四コマ漫画だからか、その作風からか、人気投票の順位ではいつも最低ランクから数える方が早い位置にいたが、二〇二一年一月新年特大号では、いきなり十二位にアップした。担当編集者が藤倉に替わった最初の掲載だった。


「遠山先生はどうですか? やっぱりお仕事は早いんですか? あの先生は絵がとても綺麗ですからねぇ、今月号のウエディングドレスなんて、溜め息が出ちゃうほどでした」


 両手の指を組んで、うっとりと吐息を洩らすべにいも。だが藤倉は萌々花の話をあまりしたくはなかった。いまべにいもが言ったウエディングドレスのことは特に。

 あのブライダルサロンのチャペルで撮影された写真の何枚かは、その場でプリントされ藤倉にも渡された。本物の新郎新婦のように着飾って微笑むツーショットは、見れば見るほど幸せそうだ。

 だが、萌々花の胸の内はどうだったろう? 互いに「学芸会」「七五三」とけなし合った直後の写真を見て、萌々花は喜んでいるのだろうか。藤倉の顔の部分をマジックで塗りつぶしたり、代わりに好きな俳優の写真を貼りつけたりしているのではないか? 

 そんな考えが頭に浮かび、藤倉はにこにこと話を続けるべにいもの言葉に、曖昧に相槌を打つことしかできなかった。

 切りのいいところで「ではそろそろ」と言いかけた時、べにいもが思い出したように言う。


「そうだ、藤倉さん、おいしいシュークリームを買ってあるんです。一緒にいかがですか?」


 熱い紅茶を飲みたいとは思ったが、これ以上ここにいて世間話に付き合わされるのはご免だった。


「せっかくですが、これから編集部に戻らなくてはなりませんので。お気持ちだけ頂きます」


 嘘ではない。これから電車に乗って本社に戻り、片づける仕事があるのだ。


「そうですか。じゃあまた次の機会にでも。お疲れさまでした」


 笑顔でドアまで見送るべにいもに挨拶をし、藤倉はエレベーターに乗る。マンションのエントランスを出ると、十二月初旬の風は冷たかった。そういえば、朝の天気予報で木枯らしが強く吹くと言っていた。マフラーをしてくればよかったと後悔しながら駅を目指す。


 街はすっかりクリスマスムードで、駅前のロータリーには大きなツリーが設置してあった。その下で母親に甘える子どもや、大きな犬を連れた人を横目に見ながら、藤倉は改札を抜けた。




 新宿で乗り換え、飯田橋で降りる。光迅社のビル前では、ドアの手前に溜まった落ち葉がくるくると風に舞っていた。

 エレベーターを四階で降りると、自分のデスクに着く前に、藤倉は入り口に設置されたコーヒーマシンの隣にあるティーサーバーにカップをセットし、好みの茶葉を選ぶ。今日はダージリンだ、と心の中で思い、その芳香を想像して頬を緩めた。


 このマシンは、コーヒーではなく紅茶好きの藤倉のために、課長がわざわざ導入したものだ。コーヒーマシンと同様、何種類もの茶葉のカセットがあり、それをセットするだけで、香り高い紅茶を一杯ずつ淹れることができる。藤倉は、曜日ごとに密かに茶葉の種類を決め、自分だけの楽しみとしていた。


 マシンの注ぎ口から、湯気を上げた琥珀色の液体がカップに満ちてくる様子を眺めるとき、藤倉はいつも担当している作家の漫画のことを考える。その時にひらめいたことを忘れないよう、熱々のカップを持ってデスクに向かい、細かくメモしておくのだ。



 萌々花のページを開くと、新展開に伴い登場するキャラクターの外見で気づいたこと、今まで築き上げたエリカの人物像を壊してもいいから、美しく恵まれた女が堕ちてゆくさまを描くこと、その対比をしっかり、などとイラストを交えて記す。

 藤倉の描くイラストは、描いた本人でなければ判別できない、他人には到底理解できないほどの代物だ。だから、萌々花の前でだけは、今後もぜったいにイラストは描かないと決めていた。


 フロアの入り口が開く気配があり、強い香水の匂いが漂ってきた。せっかくのダージリンを台無しにされ、軽い殺意を覚える藤倉だが、その気配が自分に向かっていることを察知すると、慌てて手帳を閉じる。


「藤倉さん、お疲れさまです」


 すぐ横に、知らない女が立っていた。ケバい。茶色く染めたセミロングの髪にゆるくウエーブをかけ、素顔を想像できないほどの濃いメイクをしている。そしてそれとは不釣り合いなほど、まとっている服は少女っぽいデザインの上質なものだ。


「……お疲れさまです」


 挨拶を返したが、顔を見ても誰だかわからない。ひとの顔は忘れない方なので、おそらく一面識もない女だろう。誰だか訊こうとしたときに、女が先に名乗る。


「初めまして、ですよね。ごめんなさい、いきなり。濱永リナ(はまながりな)と申します。『ベリィ・タルト』で『乙女座の恋人』という漫画を連載させていただいています」

「ああ、拝見しています。濱永先生、お会いできて光栄です」


 濱永リナといえば、毎月の人気投票では三位か四位の上位をキープしている人気作家だ。そんなリナの方から、なぜわざわざ自分に挨拶をしに来るのだろうと、藤倉は怪訝に感じたが、一見しただけで面倒臭そうな女だと思い、笑顔で応えた。


「こちらこそ。今日は、近くに用事があったので、原稿を届けに来たんです。でも、担当の山科さんがちょうど会議中で……」


 藤倉は首を伸ばして、右奥の会議室を見た。フロアとはガラスで仕切られただけのスペースで、内側にかけられたブラインドは腰の高さまで下ろされている。

 顔は見えないが、編集長がフロアの方を向き、それを囲むように四人の人間がテーブルについている。こちらに背中を向けているのは、確かに山科だ。あのアーガイルのニットは、週に三回は着てきている。新人の連載について協議しているらしかった。


 それはわかったのだが、なぜリナが俺に声をかけたのかと、藤倉の抱く不審はまだ消えない。


――濱永リナといえば、たしかプロ歴五年目。アシスタントを雇わずに、すべて自分の手で仕上げてしまうと有名な作家だ。トーンを使わず、デジタルに頼らず、その手の速さは業界でも群を抜いている。『ベリィ・タルト』連載陣の中でも、リナの漫画は人気で……。そうか、『ルベ燃え』が四位に入ったせいでリナは今月五位に陥落した。プライドの高い作家らしいから、近くに来たからというのは口実だ。わざわざ編集部まで俺を見に来たのか。


 藤倉が考えていると、会議室とは反対の方から、リナを呼ぶ声が編集部内に響いた。


「濱永先生! 大変お待たせいたしました。こちらでお待ちください」


 リナの待機場所として、事務社員が休憩室を片づけて用意したらしい。


「は~い! いま行きます。それじゃ藤倉さん、失礼します」


 去ってゆくリナに会釈し、見送る藤倉。リナの肩で揺れる茶色い髪をぼんやりと見ながら、今後は順位争いは避けられないだろうと思う。

 リナが持参した原稿を見たいとも思ったが、担当の山科より先に見るわけにはいかない。編集部内で山科とギスギスした関係になるのは面倒だとうんざりしつつも、先にリナの原稿を見るようなマネなどしなくても、実力で萌々花の漫画を上位にさせてやる、と思いデスクに着く。

 そして藤倉はふたたび手帳を取り出し、本人以外は解読不能なイラストを描き始めた。




「……いま、藤倉に会ったわ。ああいうタイプを落とすのは難しそうだけど。うん、だから別の作戦を考えてあるの。また電話する」


 通話を終え、スマートフォンをバッグにしまうと、リナは休憩室に入っていった。中で待っていた事務社員に礼を言うと、笑顔で話しかける。


「すみません。ちょっと直したいところがあるので、Gペンをお借りしてもいいですか?」

「ええ、もちろん。少々おまちください」


 社員が部屋を出ていくと、リナは封筒から自分の原稿を取り出す。それを低い長テーブルの上に広げ、男性キャラの身体のラインを指先でなぞった。

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