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第1話 遠山萌々花

 ドアを開けると、午後の日差しは想像していたものとは随分ちがっていた。

 頬を撫でていく風はひんやりとやわらかで、空は高く青い。その青を透かしながら漂う雲は、猛暑日に見たまっ白で厚みのあるあの雲とは、明らかに別物だった。


「わぁーっ、久しぶりに外に出たら季節が変わってるよ! どんだけ引きこもってたんだって話だよね」


 遠山萌々花(とおやまももか)は、空の色を二人のアシスタントに見せようと大声を出した。


「いや先生、おれたち毎日通ってきてるんで。この部屋にだって窓はありますし、それに先々週どっか行きませんでしたっけ?」


 「女体を描かせたら業界一番」と自負している竜樹(たつき)が、仕事場から顔を出して言う。


「竜樹くん、するどいね。あの時は季節を感じる余裕なんかなかったからさ、〆切前で」


 十日ほど前、萌々花は電気料金を支払うためにコンビニに出掛けたことを思い出した。赤い線の振込用紙を握りしめ、スマホと財布だけ小さな手提げに入れて部屋を出たような気がする。

 あの時は二日ほどまともに眠っていなかったので、記憶がほとんどない。

 もう一人のアシスタントの彩が代わりに行きますと言ってくれたのだが、その彩から今までに何度もカード決済にしろと言われている電気・ガス・水道料金の支払いだ。期日を過ぎていると知られたら、なにを言われるかわかったものではない。萌々花はそれを丁重にことわり、コンビニのフラッペがどうしても食べたいから、と言ってフラフラしながら自分で出かけたのだった。


「ほんじゃ、ちょっと行ってくるよ。休憩してていいからね」


 廊下に出てドアを閉じようとしたところに、今度は彩が顔を出す。


「先生、やっぱり私が行きますよ。先生ひとりで行かせたらなんだか心配で休憩どころじゃないもん」

「イかせたら……なんて彩ちゃん、えっちだなぁ」

「ほら! またそんなヘラヘラして。先生に何かあったら河村さんになんて言えばいいんですか」


 そうだ、河村とは今日でお別れなのだ。彩の言葉に、あらためて寂しさがこみあげる。


「だからだよ。五年もこんなあたしの担当してくれた河村さんと最後のお茶の時間だからね、自分で選びたいんだ」


 河村は、萌々花がまだ花形女性漫画誌に連載していた頃からの担当で、読者人気が下がった萌々花が、ワンランク下のレディコミ誌に降格した時も、ついてきてくれた。そして、「また先生が『レモネード』に戻れるよう、一緒に頑張りましょう」とずっと励ましつづけた、いわば恩人のような編集者なのだ。

 その河村が、急に実家の温泉旅館を継ぐことになり、今月いっぱいで退社するという。萌々花はまるで片腕をもがれたような心細さと寂しさを感じていたが、そんな河村に今までの感謝を込めた最後のお茶を振る舞おうと、近くの高級洋菓子店『リュバンドール』に出掛けるところなのだ。


「ほんとに気をつけてくださいね。行ってらっしゃい」


 心配そうな彩にニカッと笑顔を見せ、萌々花は歩き出す。

 萌々花が母親の千鶴子と二人で暮らすこの家は、世田谷区のはずれの住宅街にある。私鉄の駅からは遠く、バス便も少ないという不便さはあるが、なにより景観が良く静かなところが気に入っている。昔からずっとこの町に住んでいる人が多いので、そういった意味での安心感もあった。


 目指すリュバンドールまでは、徒歩で十分ほどだ。しばらく見ないうちに、外界の様子はだいぶ変わっていた。朝顔の垣根はすっかりなくなり、あれほど啼いていた蝉の声も消えている。


「なんだかなあ……」


 無常観にとらわれ、萌々花は急に心細くなった。河村の笑顔を思い浮かべ、あの笑顔に何度たすけられただろうと想う。



 萌々花が漫画家になったのは、いまから十年前のことだ。光迅社(こうじんしゃ)で発行されている女性向け漫画月刊誌『レモネード』の新人賞コンクールに応募し、入賞したのがきっかけだった。

 年に一度開催されるこのコンクールは、光迅社の漫画誌でこれから活躍する新人を発掘するのが目的であり、受賞者には、入賞作品とは別の新作短編の掲載が約束され、その反響次第では、連載を持たせてもらえることになっていた。



 萌々花は、子どもの頃から漫画を描くのが大好きだった。自分が握る鉛筆の先から、可愛い女の子や街の風景や、友だちや動物など、あらゆるものが生まれてくる。

 熱を出して学校を休んだときには、仲の良い友だちの顔を描き、みんなで給食を食べている光景を描き、放課後に公園で遊ぶ様子を描いた。

 母親が作る美味しそうな料理や、映画の中のプリンセスが着るようなドレス、お城や宇宙船、猛獣が潜む森や切り立った崖を持つ山々など、思いつくものはなんでも描いていった。



 小学五年生になると、クラスだけでなく学年中で萌々花の漫画絵は上手いと噂になり、他のクラスの子たちも、休み時間になるとノートを持参して、萌々花の机の周りに集まるようになっていった。

 みんな、自分の好きな漫画のキャラクターやアイドルを、萌々花の絵で再現してもらうのが目的だった。

 そのうち誰かが、イラストだけではなく、ちゃんとコマ割りをして、ストーリーのある漫画を描いてみたらどうかと言いだし、みんなは「さんせーい!」と大合唱する。漫画の体裁を整えたものなど描いたことはなかったので、萌々花は千鶴子に『マンガの描き方入門』という本を買ってもらい、それを見ながらひとりで描き始めた。



 自分で納得できるレベルに到達するまでは、チラシの裏や学校で配布されたプリントの裏などに描き、いよいよ道具を揃えてみようと思えるまでになったとき、またもや千鶴子に頼んでケント紙や必要な各種のペンなどを買ってもらった。そして、放課後は毎日のように漫画を描くことに没頭し、ある日、ようやく出来上がった初めての短編漫画をコンビニでコピーし、仲の良い友だちに配ったのだ。


 それが、萌々花の漫画家デビューだったと言えるかもしれない。みんなに喜んでもらえることは、とても嬉しかった。

 その後も、萌々花は漫画を描き続け、小学校卒業の時には、自分たちのクラスの思い出を漫画に描き、それは卒業文集の巻頭を飾った。


 中学校、高校、大学と、それぞれに出会いがあり、漫画以外のことに夢中になる日々もあったが、萌々花はいつも漫画のところへ帰ってきたのだった。



 『レモネード』の編集長からリストラを言い渡されたとき、来るべき時が来た、と思った。その数ヶ月前から、読者アンケートで萌々花の連載は人気が下がり始めていたのだ。


 三ヶ月間下がりつづけたら、その時はあと二回で連載が打ち切りになる可能性がある――。


 それは『レモネード』編集長の方針だった。三ヶ月下がり続けても、次月で人気が上昇すればまだ連載続行ということになるが、そうでなければその次で最終回だ。

 最終回になるかならないかはギリギリまでわからない。だから『レモネード』の巻末に掲載される作品は、どれも読者が納得できるような結末を迎えない。無理矢理終わらせたと思えるような、尻切れ感のある半端な作品になってしまうのだ。

 そんな最終回を描いてしまった漫画家は、なかなか次の連載ができない。ゼッタイに人気が出る、と編集長が判断するようなネームを提出しなければ、読み切りしか描かせてもらえなくなるのだ。それでは漫画家として物足りないじゃないか……。



 そんな萌々花に、河村が出した提案は「レディコミ誌でトップになる」だった。

 男女の性愛を描いた作品がメインのレディコミ誌は、エロ漫画誌というイメージが強いかもしれないが、そんな中でも萌々花の絵とストーリーは、他の作品群とは一線を画すはずだ、と河村は力説した。


「私は先生の作品が、先生の漫画が本当に大好きなんです。レディコミ誌だからって侮れませんよ。先生の知名度なら、遠山萌々花の作品目当てに『ベリィ・タルト』を買ってくれる読者もいるはずです! 素敵なストーリーで読者の心を動かすこともできます。そして、また『レモネード』に戻って編集長に新作を叩きつけてやりましょうよ」


 河村のキラキラした瞳を見つめるうち、萌々花はリストラされたショックを悔しさに変えることが出来た。

 いい漫画を描いて花形に返り咲こう――、そう思えるようになったのだ。



 初めての男女のセックスシーンは、恥ずかしくて、難しくてなかなか描けなかった。

 デッサンから改めて勉強しなおす必要があった。『O嬢の物語』のDVDを買い、アダルトビデオを見たり、エロ本を見たり、昔のビニ本やどこから入手したのか、河村が持ち込んだ裏本を、こみ上げる吐き気と戦いながら見て、ポーズやあえぎ顔の勉強をした。


 男性向けのものばかり参考にしたのでは、レディースコミックの読者は喜んでくれない。セックスシーンは多くても、男性向けのエロとは違うアプローチをしなくてはならないのだ。

 女性向けのエロ表現。女性が感じるセックス。女性が望むセックスとはどんなものか、を考えた。できるだけモザイクは描きたくない。どんなポーズなら性器が、結合部分が自然に隠れるのかを何度も描いて練習した。


 そしてストーリーも、読者がどうすれば性愛にのめり込むのかを念頭においた。

 求められるシチュエーション、主人公の女性と男性の外見、どんな時に欲情するのか、どんな場所でセックスをするのか……。


 萌々花には想像すら及ばなかったシーンを愉しんで描けるようになったころ、読者の反響がぐんとあがった。

 そして移籍から一年経った頃、「女体を描かせたら業界一」と名刺に刷っている清水竜樹がアシスタントに加わったことで、ヒロインのヌードシーンのリアリティや迫力が増し、萌々花は『ベリィ・タルト』で中堅の人気作家になった。


 いまではレディコミを描くのは楽しく幸せなことだと思えるまでになったが、やはりセックスシーンにページの半分を割かなければならないレディコミではなく、ストーリー重視の『レモネード』に戻りたいという想いは手放せない。

 河村と目指した復帰戦に挑むのも時間の問題と思っていたが、河村にはどうしても実家に戻らなければならない理由ができてしまったのだ。

 残念で仕方ないが、河村の人生を萌々花がどうこうできるはずはない。河村を失って、果たして『レモネード』への復帰が敵うのか、河村にずっと好きでいてもらえる漫画家として、自分はやっていかれるのか、不安しかないと暗い気持ちになりかけたとき、ようやくリュバンドールが見えてきた。なんだかずいぶん遠回りをしたらしい。時計を見ると二十分も経っていた。

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