小学校6年5月②
一週間ほどで、6年1組の勢力関係は把握した。
笹山博樹は、ここでもリーダーだった。正義感が強くて公正であることを自分に義務付けているようだ。その勢力は、野球部員を中心に他のクラスまで及んでいた。悪いやつではなさそうだ。しかし、割り切ればどんな手でも使うタイプだ。市会議員の父親の影響を強く受けているようだ。
他にはサッカー部の連中が多い。階級が定まっている野球部と違って、どんぐりの背比べ。上下のない仲良しクラブ、わいわい騒がしいだけの子供の集まりだ。特別気にすることもないだろう。
中学受験組の数人は、どこの群れに所属していない。成績がいいので馬鹿にはされないが、話題の中心にはなり得ない。一年後に受験を控えてそれどころではないのだろう。本人たちも関心がない。
残ったやつらは、スクールカースト最底辺の連中だ。勉強も運動も苦手。話もうまくない。自分勝手なので交友関係自体が築けない。プライドは高いくせに努力はしない。近くにいて欲しくないタイプだ。
女子はもう少し単純だった。佐伯優里菜をリーダーとする派閥がクラスを仕切っている。仕切っているというより、圧倒している。彼女を怒らせると報復がある。つまり、いじめの標的にされるのだ。佐伯はかなりの気分屋でしつこくはないが、一週間単位で対象が変わる。男子のリーダー笹山がいるので、目に余るようなことはしていないようだ。佐伯は笹山に気があるらしい。彼に嫌われるようなことはしないのだろう。鈴木安奈と安西りさ子が取り巻きで、酒井美穂と三井由紀をこき使っている。
佐伯のグループ以外は羊の群れだ。いくつかの仲良しグループはあるものの佐伯の恐怖の前には、その程度の友情はないも同然だ。いじめの標的になるとグループは解散し、佐伯の号令の下、仲間外れに加担する。標的が移ると何事もなかったのかのように元に戻る。
簡単に裏切る相手とよく付き合っていけるなと思うが、女子の世界も大変なのだろう。
佐々木桃子はクラスでは目立たない子だった。少し幼い外見と違ってしっかりしているので、佐伯に目をつけられるような下手はしていないようだ。家で見せた、あの、まっすぐな笑顔は学校では見せない。信頼できる仲の良い子はクラスにはいないようだ。
オレは、少しづつ立場を築いていった。最初の小テストで満点を取って見せた。前にいた学校ではバカ(頭が悪い)と犬(人間以下)は同義だった。いまどきは不良ですらバカはなめられる。一度はいい点を取ってバカではないところを見せなければならない。
そして、体育の授業だった。その日は、ドッジボールをやることになった。相手チームに笹山率いる野球部組、こっちはサッカー部中心の寄せ集め。組織された野球部組は、華麗なパス回しでオレたちを翻弄し、着実に数を減らしていった。残りが半分ほどになったとき、笹山がオレに向かってボールをよこした。狙ってきたわけではない。お手並み拝見というところだろう。
少しだけ、力を込めたボールを返してやった。
「やり返した!?」
「笹山君に勝負を挑んだ?」
クラス中がざわついた。隣のコートで試合をしていた女子も手を止めた。
余裕のつもりだろう。笹山はにやりと笑うと、もう一度、オレに向かって投げてきた。今度は、狙ってきた。本気だろう。
オレは、難なく両手でつかむと素早く投げ返した。笹山は胸で受け止めた。
球威で押されていることを感じたのだろう、笹山は公平を装って、標的を移そうとした。オレの左後ろにいた河原貴大が狙われた。しかし、視線を読んでいたオレがカットして投げ返す。
こうなると笹山は逃げられない。オレとの勝負に決着をつけるしかない。渾身のボールを投げ返してきた。力んだせいで右下にそれる。一歩踏み込み、腰を落として正面で受け止めた。投げ返す。だが、勝負を決めにいったわけじゃない。彼を敵に回すわけにはいかない。負かしてはならないのだ。だが、手を抜いているとは気づかせられない。慎重にコントロールしたボールを80%の力で投げ込む。笹山は胸でがっちり受け止めた。この程度でエラーをするほどぬるい練習をしていたわけではないようだ。安心した。
そんな応酬を20回ほど続けたころ
「笹山君も高梨君も二人だけでやってちゃダメでしょ。他の人にもボールを回しなさい」
空気を読まない菊地亜美先生が、勝負を止めに入った。いや、先生ですら笹山に恥をかかせるわけにはいかないらしい。
笹山は、仕方なくボールを外野に回した。しかし、すぐにハンドサインでボールを要求した。笹山も止める気などないのだ。
再開された勝負に、今度は菊地先生も何も言わなかった。
結局、最後まで勝負はつかなかった。
チャイムの音を聞きながら、教室に戻るオレに笹山が声をかけてきた。
「高梨君。なかなかやるな」
「高梨でいい。笹山もな」
「君、野球やっているだろ」
「前の学校ではやってた」
「ピッチャーだろ?」
「ああ」
「やっぱりな。うちのチームに入れよ。高梨が入れば強くなれそうだ」
「いやだよ。お前がいたら、エースになれないじゃんか」
笹山は、一瞬ムッとした顔をした。これだけ続けていれば実力差は隠しようがない。笹山はまだ、肩で息をしている。オレの軽口は彼のプライドを刺激した。だが、笹山は冷静だった。
「そんなことないだろ。それにピッチャーは一枚じゃダメだから」
「冗談だ。それと、悪りぃ。うち、父親がいないから……」
「そうか……ごめん。無神経なこと聞いた」
「そんなことねえよ。それに最後の大会が近いのに出来上がったチームに割り込むのはチームワークが乱れる。だけど、誘ってくれてありがとう」
「そうだな……」
笹山は引いてくれた。交換条件を出して。
「わかった。もう言わない。その代り、俺のことは博樹って呼んでくれ」
「わかった、博樹。オレは塁だ」
「ああ、塁」
大人にまで気を使わせる博樹が、対等と認めたことはオレの立場を後押ししてくれるだろう。なんだかんだ言ってもオレの息も上がっていたのだ。大したやつだった。
教室に戻る前に後ろからもう一人声をかけてくるやつがいた。河原貴大だった。
「さっきは庇ってくれてありがとう。高梨君、運動神経いいんだね」
「別に、庇ったわけじゃねえよ。取れる球だったから取っただけだ」
「うん。でも、俺、運動神経悪いからドッジボールで最後まで残ったの初めてなんだ。お母さんに報告できる」
河原が小太りの身体をゆすって笑いかけてくる。
ものはいいようだな。オレと博樹のマッチプレーを見ていただけじゃないか。
「この借りはいつか返すよ」
妙なやつになつかれてしまった。
*
体育の授業の後、教室は落ち着かなかった。いつもは無愛想で目立たないようにしている転校生がクラスのリーダーの笹山博樹に勝負を挑んだのだ。結局、勝負はつかなかったけど、高梨塁の名前は全校に広まった。放課後、塁は笹山達と一緒にクラスの中心に入って楽しそうに笑っていた。
桃子はほっとしていた。笹山君に名前で呼ばれる友達なら、いじめられることはない。もう、転校生君じゃない。
これまでの塁は慎重に距離を測っていただけなのだろう。幼馴染だった桃子としか話さなかった塁だが、桃子は自分が特別だったわけじゃなかったことに気が付いた。少しがっかりしている自分に気がつき恥ずかしくなる。自分はただのクラスメイトに過ぎない。クラスの女子に「高梨君、格好いいね」などと話しかけられて思い知らされた。
帰り道、桃子は思い切って「塁君」って呼んでみた。塁は黙っていた。
「だめ? 名前で呼んでいいのは笹山君だけ?」
「別に……好きにすればいい。」
許してくれた。けど、塁は桃子のことを名前どころか苗字でも呼ばない。それが桃子にはちょっと不満だった。
この不注意が、桃子の人生を狂わせるきっかけだったとは、そのときの桃子も塁も気がつかなかった。
*
「あの転校生、やるじゃん。博樹とタイマン張るなんて」
「いい勝負だったね」
「いい勝負じゃないよ。博樹が押してた。あのまま続けてたら博樹が勝ったんだから!」
「はいはい、優里菜は博樹贔屓だからね」
「贔屓じゃないよ。絶対勝ってたんだから」
「でもさ。あの高梨もなかなかいいじゃん」
「顔もまあまあだし」
「都会っ子だし。あか抜けててさ」
「まあ、そうだね……博樹ほどじゃないけど」
「高梨塁っていえば、つきまとってるやつがいるじゃん。家が隣だか何だか知らないけど」
「『塁君』とか呼んでるの、聞いちゃった」
「ふーん……調子に乗ってるね……」
*
金曜日の放課後、河原貴大が女子のグループと一緒にいた。意外だった。間違っても女子から声をかけられるようなやつじゃない。しかも、声をかけたのが酒井と三井だ。だとすると佐伯絡みか。
助けてやる義理はないが、見捨てるのも後味悪い。塁はこっそり後をつけることにした。
特別棟の3階、一番奥は理科室だった。午後3時半、放課後のまだ早い時間ではほかに人気がない。声も外までは届かないだろう。いじめをするには絶好の場所だ。あの手の連中は、こういう場所を見つけるのがうまい。
曇りガラスに影が映らないよう、身を屈めて中の様子をうかがう。
!?
声が聞こえた。珍しく、つきまとってこないと思ったら、あいつらに絡まれてたのか。
この時ばかりは、河原に感謝した。あいつが豚でよかった。
勢いよく扉を開ける。7人の視線が一斉に集まる。
取り囲まれて一糸まとわぬ姿をさらしているのは、やはり佐々木桃子だった。その向かいに全裸の河原が突っ立っていた。
「何の用だよ。転校生」
佐伯優里菜が悪びれもせず声をかけてくる。
このときのオレはどうかしていた。「止めろ」と言えばいいだけだった。立ち去って先生を呼びに行けばやつらも逃げ出しただろう。佐伯の持っていたスマートフォンが、オレをそうさせなかった。
写真を取られていたのか? なら、そのままにはしておけない。ここで決着をつけない限り、再発するだろう。
いや……いいわけだ。その瞬間、オレは佐々木桃子に特別な感情を持っていたことを自覚した。まだはっきりとした形にはなっていない。だが、他の奴らに汚されたくはなかった。桃子を辱めたやつらに嫉妬していた。他のやつらに汚されるくらいならオレ自身の手で汚したかった。消えない痕跡を刻み付けたかった。
オレは劣情に屈したのだ。