小学校6年5月①
その娘と再会したのは引っ越した日のことだった。
*
お父さんが死んで、お母さんは普通じゃなくなった。感情の起伏が激しくなり、些細なことではしゃいだり、泣き出したりするようになった。銀行の仕事も続けられなくなった。
それはお父さんの死に方にも原因がある。出張の途中での事故だったのだが、普通なら新幹線で行くべき静岡県まで、なぜか家の車で向かい、途中で事故を起こしたのだ。しかも部下の女性を巻き添えにして。弔問にきた会社の人達は不倫じゃないかと陰口を叩いていた。二階にいたオレは偶然それを聞いてしまった。
そんなはずはない。前夜、お父さんはオレと話し込んでいた。たしか、ケン・グリフィーJrから三振を取る攻め方について遅くまで議論していた。ケン・グリフィーJrはお父さんが子供のころのメジャーリーグのスーパースターですごかったらしい。もちろんオレはVTRでしか見たことはない。お父さんは今でこそ草野球のエースでしかないが、高校時代は甲子園にも行ったことがある。残念ながらドラフトにはかからず、野球をやめて大学に進み、サラリーマンになった。プロを目指すのは高校までと両親との約束だったそうだ。それでもオレは野球をしているお父さんが大好きだった。いつか、一緒のチームで野球をやるのが夢だった。結局、その夢はかなわなかった。
圧倒的な強打者に対して、お父さんは追い込んでから決め球はフォークだと主張した。本物のフォークはバットに当てることすらかなわない。当時のメジャーで最高のフォークボーラーは大魔神佐々木主浩だ。彼のフォークはストレートの軌道から40cmも落ちる。ストレートと見分けがつかない。バッターにとっては消えるように見えただろう。だがパワーのあるメジャーの強打者はとらえるポイントを前に置く。落ちる前に打ってしまう。捉えさえすれば手打ちになったとしてもスタンドまで軽々と運べる。フォークを捉えるためにグリフィーはあのアッパースイングを完成させたのだ。オレはスライダーで攻めるべきだと言い張った。アウトコースに甘いメジャーのストライクゾーンではバッターは振らざるを得ない。そこから外に逃がす。届かなければ打たれることはない。スライダーを読まれていたならインハイのストレートからツーシームで攻めてもいい。
「ほら、お前だって落ちる球の有効性は認めているじゃないか」
お父さん、ツーシームとフォークは違うからね。
「確かにスライダーは有効だ。だけど逃げる変化球だけでは勝負できないぞ」
「分かってるよ。変化球を活かすためにもストレートを磨け、だろ」
「変化球のためだけじゃない。ピッチャーはただ一人守備で攻めるポジションだ。逃げる躱すだけでは相手になめられる。一試合に何度かは勝負をしなければならない。逃げることも躱すこともできなくなったとき、自身をさらしてストライクゾーンでケリをつけなければならない。自分の最高の決め球を投げなければならない。それは変化球だって構わない。相手もそれを読んでいる。待っている。そんな場面で、塁、お前なら何を投げる?」
「そうだなぁ、インハイのストレートかな。三振が狙えるし、当てられてもポップフライに抑えられる。悪くてもファールで仕切り直し、次はスライダーで泳がせられる」
「70点」
「えーっ!? じゃあお父さんは何投げるのさ」
「そんなの決まってるだろ。ど真ん中のストレート一択だ」
「打たれちゃったらどうするのさ?」
「エースってのはチームに対して責任を持つもんだ」
「お父さん、いつも言ってるじゃん。打たれた責任はピッチャーにあるんでしょ?」
「ああ、だが、その責任は勝負についてだけじゃない。チームの品格についてもだ」
「品格?」
「ああ、そうだ。たとえ勝っても尊敬されないチームがある。負けても評価されるチームもある。彼らがどう戦ったかだ。勝っても負けても結果以外に残るものがある。戦ったことで自分も相手も成長できたと思わせる戦い方がある。そういう相手こそ本当に大切なライバルであり、尊敬しあえる友人になるんだよ。塁、お前はまだ若い。結果を求めて意地汚い勝負はするな。それが勝ち負けより大事なものをチームにもたらすだろう」
「ふーん」
「まだ難しかったかな。でも打たれていいって言う訳ではないからな。ど真ん中のストレートでも空振りをとれるように精進しろということだ」
お父さんは笑ってオレの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。
「やめてよ~。でも、もしさ、どうしても負けたくなくて逃げちゃったらどうすればいいの?」
「負けたくないと思うのは悪いことじゃない。だが相手に礼を失したのなら、その後の行動で取り返すしかないだろ。人生やり直しの利かないことなんかそんなに多くはないぞ。一所懸命練習して早く対等の勝負ができるようになればいいんだよ」
遅くまでそんな話をしていたせいでお父さんは大事な出張の日に寝坊したのだ。それで車を飛ばして事故を起こしたのだ。
オレは、何度もお母さんに言った。お父さんは不倫なんてしていないと。もちろん、巻き添えにした部下の人には悪いことをしたと思う。でも、不倫なんて陰口を叩くのはその人に対しても失礼だと思う。お母さんも「そうね。お母さんもそう思うわ。」と言った。けど、ダメだったのだ。最後の最後で、お母さんはお父さんを信じ切れなかった。お母さんは壊れてしまった。
そうして、オレたちはお母さんの実家に移ることになった。オレは、住み慣れた都会を離れ、郊外の町に引っ越してきた。
祖父母の家には何度も来たことがある。正月や夏休みには何度も泊まった。けど、この町には友達はいない。だいたい小学校6年生という、ある意味完成された子供社会にいきなり紛れ込んだ異物なのだ。都会のいじめは、今、思い出しても本当にえげつない。二つ上の学年では自殺者が出た。クラスは違うがオレの学年でも転校者をだした。そんな空気で育った都会の子は立ち回りに長けている。少なくとも来年の春まではおとなしくしていようと思った。中学に入れば、他の小学校からも生徒が集まる。固定された社会がシャッフルされる。そこからなら、多少目立っても弾かれないはずだ。
*
うまくいかなかった。できれば野球がやりたかった。野球はお父さんがオレに残してくれた遺産のようなものだ。どこのチームに行ってもそこそこやれる自信がオレにはあった。
でもダメだった。
オレは引っ越しの手伝いもせず、トラックの窓から見えた校区のクラブチームの練習を見に行った。眺めているとすぐにわかった。そのチームはワンマンなチームだった。一人の選手がエースで4番でキャプテンを務めていた。元気もいいし、リーダーシップもある。選手としても悪くはない。だが、所詮はその程度だった。オレが元いたチームでは控えに入れるかどうかだろう。コーチはもっと悪かった。明らかにその選手におべっかを使っている。あいつが伸びないのはこいつらのせいだ。手伝いに来ていた母親連中の会話を聞いたところ地元の市会議員の息子なのだそうだ。それが、笹山博樹だった。
少年野球をやるために必要なのは、周囲のサポートだ。実力じゃない。監督の息子はレギュラーが約束されているし、地元の名士の子供も同様だ。子供をレギュラーにするため、父親も母親もこんな面倒くさい仕事を引き受けるのだ。そしてそれはオレが失ったものだ。お父さんは死んでしまったし、お母さんは故障中だ。そんなオレがチームの中心選手より上の実力を見せたら、確実に潰されるだろう。残念だが、野球は諦めるしかない。少なくとも小学校のうちは。
野球クラブの練習を見に行っていたオレは傷心のまま、祖父母の家に帰ってきた。そこで、彼女を見た。
隣の佐々木さんのおばさんはお母さんの友達だ。小中高と同じ学校だったらしい。結婚してからも二世帯住宅にして家を離れなかった。佐々木家にはオレも小さい頃、里帰りしたお母さんによく連れてかれた。そこの一人娘が佐々木桃子だった。オレとは同い年でよく一緒に遊ばされた。それも2年生頃までだ。オレが野球をやるようになってからは休みに祖父母の家に来ることもなくなっていた。
彼女は庭で子犬と戯れていた。懸命に言い聞かせていたが、分別のつかない子犬は言うことを聞かずにホースで水遣りをしている彼女にじゃれついた。彼女も笑っていた。屈託のない笑顔だった。芝生の庭に、血統書付きらしい手入れの行き届いた子犬。楽し気に笑う少女とそれを見守る両親。絵にかいたような幸せそうな家庭だった。
幸せそうな家庭を目にして、失ったばかりのオレには妬ましく思っても不思議はない。だが、羨ましいとは感じなかった。オレはお父さんに十分なものをもらっている。オレはかわいそうな子供ではないのだ。
気が付かれる前に帰ろう。そう思ったときだった。飛びついてきた子犬を避けるように腕を振った彼女の持つホースは、軌道を大きく逸らし、生け垣の前に立つオレにしぶきを浴びせた。
「あっ、ごめんなさい!」
初めてオレが見ていることに気が付いた彼女は駆け寄ってくると謝った。
「大したことない。気にするな」
「でも、濡れちゃった。拭かないと風邪ひいちゃう。うちに来て」
申し訳なさそうに言う彼女の申し出を断る。
「いい、うち、そこだから。」
顎で隣の家を指し示す。
「あっ、もしかして塁君? 覚えてる? わたし桃子」
「ああ……」
彼女の後ろから近付いてきたおばさんもオレに気が付いたようだ。だが、掛ける言葉に迷って結局黙ってしまった。
オレとしてはむしろホッとした。大人から何を言われても同情になる。
彼女もおばさんからなにか聞かされていたようだ。微妙な影が黒目がちの瞳に映る。
次の彼女の台詞を想像して逃げ出したかった。聞きたくなかった。けれど、オレの足は動かなかった。
「お父さんのこと聞いた。大変だったね。」
「事故だ。しょうがない。じゃあ。」
そっけなく切り捨てようとしたが、続く彼女の言葉に足が止まる。
「塁君、お父さんのこと大好きだったもんね……」
オレの頬は濡れていた。そのことにしばらく気が付かなかった。滴り落ちる温かさに気が付いてオレはうろたえた。なんでオレは泣いているのだろう。
考えなくてもわかることだった。事故以来、オレはお父さんのことを思ったことなどなかった。同僚の陰口を聞いてからはお母さんを守ることばかり考えていた。お葬式のときもお母さんのことばかり気にしてお父さんの死に顔すら覚えていない。彼女の言葉で思い出すことができた。オレは大好きなお父さんを失っても涙一つ流さなかった。思い出しもしなかった。彼女がそれを思い出させてくれた。
お父さん、ごめん……
瞼の裏でお父さんは『お父さんこそすまん。お母さんをよろしくな』と笑ってくれたような気がした。
6年生にもなって人前で泣くのは恥ずかしい。濡れた袖口で涙をぬぐう。
「ありがとう」
なぜだか口をついて出てきたのは感謝の言葉だった。子供の頃からそうだった。彼女の言葉は自分でも気が付いていないオレの心の弱いところを突いてくるのだった。彼女のまっすぐな人柄がそうさせるのだろう。オレはそれがうれしかった。だが、オレが相手だからと思うのはうぬぼれだろう。
「ごめんね。へんなこと言っちゃって」
彼女はオレの言葉に戸惑っている。泣かせたと思っていたのにお礼を言われてのだから当然だろう。だが、やはりそれがオレの気持ちだった。
「塁君、明日から学校来るの?」
「明日は手続きだけ。登校は明後日から」
「そうなんだ。じゃあ、明後日から、一緒に登校しようね」
「ば……馬鹿野郎、女子と一緒に登校なんてできるかよ」
あまりにもまっすぐな彼女にこっちが恥ずかしくなる。思わず言い返した。
「なんで? うちの学校、集団登校だよ?」
勘違いしていたことに気が付き、顔から火がでそうになる。
改めて佐々木を見た。あまり背は伸びてはいないようだ。オレの肩くらいまでしかない。クリっとしたよく動く目は昔と変わらない。少し色素の薄い髪をショートボブにしている。そういえばおとなしそうに見えて結構押しが強かった。何で遊ぶか決めるとき、いつもままごとに押し切られたことを思い出した。
「7時50分にそこの角に集合だよ。遅れないでね」
「ああ……」
それが、彼女、佐々木桃子との再会だった。