04
想像していたよりもずっと早く、夜に訪れた店での用件は終わった。
その後で俺が電話をしたのは、実家にいる母親だった。
「母さん。今からそっち、行ってもいいかな?」
「……孝之、あんたはいつも急だね。どうしたの? もしや、また落ち込んでる?」
「ううん。今回は、少し用事があって。泊っていってもいい?」
「どうぞ、お好きに。あんたの部屋も、そのままだし」
俺のアパートから実家までは、電車に十分も揺られていればたどり着く。
久しぶりに訪れた実家の玄関のカギは開いていた。
俺が靴を脱いでいると、トコトコとミーアちゃんが俺を出迎えに現れる。
「ただいま。帰ってきたよ、ミーアちゃん」
しかし、俺へのミーアちゃんの塩対応はもともとだ。
ただ、ニャーという一言を発しただけで、ミーアちゃんは再びトコトコと歩み去る。
両親は二人とも、リビングでテレビを眺めている。
「おかえり。あんた、毎日どうしてるの?」
そんな言葉からはじまり、一人暮らしの生活をあれこれ、たずねられる。
「夕飯はもう食べてきたの?」
「うん。だから、今日は要らないよ」
「ていうか、いつもはどうしてるのさ」
「……大抵、彩が作ってくれてる」
母はため息をつく。
「あんたと彩ちゃん、一緒に育てるの、いいアイデアだと思ったんだけどなあ。まさか、そんなことになるとはね」
「そんなこと、って?」
「ウチのバカ息子の面倒、ずっと見てくれるなんてさ。ホント、あの子には頭が上がらない。だけど、迷惑かけどおしじゃ、ダメだからね」
そこまで言ってから、なぜか母親はニヤニヤする。
「最近、たまに彩ちゃんのところには、カッコいい男の子が来てるみたいだし」
それはきっと、あのイケメンのことだろう。
でももう、俺にとっては、彼のことはどうでもいい。
しばらくぶりに入った自分の部屋は、やっぱり物が多い。
だけど、どこか整然とした印象がある。
それはやっぱり、彩がよく、この部屋に来ていたからだ。
彩はよく、模様替えをするように、俺の部屋の物を並び替えて、必要があれば収納まで作り、広いスペースを生み出してくれていた。
そのとき、ニャーと声がして、俺は部屋のドアへ目を向ける。
わずかに開けていたドアの隙間から、ミーアちゃんが現れる。
そしてどこか不服そうな顔をしているのは、部屋に俺一人しかいないからだろう。
俺が部屋にいるときは、大抵、彩もいる。
ミーアちゃんが遊んで欲しい相手は、彩なのだ。
そんなミーアちゃんを、俺は抱きかかえる。
そして、昔よくそうしていたように、語りかける。
「ごめんな、今日は一人なんだ」
「ニャー」
「もう、ずっと一人かもしれない。……それは、それでいいんだ。それが、彩の決めたことなら」
「ニャー」
「だけどさ、俺、気づいたんだ。このままじゃ終われない、って。彩がいなくなることだけじゃない。彩に何も伝えられないまま、……俺たちがただの幼馴染のままで、このまま全部が終わってしまうのが、俺は嫌なんだ」
それが、俺の痛みだ。
「ニャー」
ミーアちゃんのする返事はいつもそうだ。
でも、俺にはそれで十分だった。
身をよじるミーアちゃんを床に下ろすと、あっという間にドアの隙間から逃げ去っていく。
そして俺は部屋の天井を見つめながら、昔のことを思い返す。
ずっと一緒だった彩に、想いを伝える。
それはそうと決めてしまえば、何で今までそうしていなかったのか不思議になるぐらい、自然な感情だった。
もちろん俺は彩のことが好きだった。
だけどそれは、他の誰にも渡したくないと思うぐらい、強い感情だったんだ。
※※※
翌日の朝は早くに目覚めた。
午前六時。
カーテンを開けると、窓の外にある、もう一つの窓のカーテンはまだ、閉じられている。
俺は窓を開け、以前はよくそうしていたように、窓の奥へと呼びかける。
「彩。なあ、彩。起きてるんだろう?」
もちろん俺は、彩の朝が早いことを知っている。
カーテンはやがて、ゆっくりと開く。
現れた彩は、複雑そうな表情をしながら、窓を開ける。
そんな彩に、俺はたずねる。
「驚いた?」
彩はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。昨日の夜、部屋の電気がついているのに気づいたから。孝之くん、来てるんだ、って思って」
「登校まで、まだ時間があるだろ? その辺、歩かない?」
「……うん」
俺が玄関から出たのと、彩がドアの向こうから現れるのはほぼ同時だった。
共に寝間着から動きやすいジャージに着替えている。
「考えることは、同じだね」
彩は久しぶりに、わずかに俺に笑顔を見せる。
うなずいて、俺は歩き出す。
彩もそんな俺に並ぶ。
何から話していいか、わからない。
ただ、歩いていると、色んなことを思い出す。
幼い頃も、よくこうして二人で並んで、遊びに行った。
そうすると、近所の悪ガキたちに見つかって、冷やかされたりした。
『あの二人はラブラブで、将来結婚するんだって』なんて、そんな言葉もかけられたり。
当時の俺は、必死になって否定した。
今にして思えば、そんな思い出が、俺の彩への感情に影響していたのかもしれない。
やがて、近所にある、大きな公園へとたどり着く。
ゾウの形をした巨大な滑り台があり、その近くにはブランコがある。
毎日のように遊んだその公園に、どちらからともなく足を向ける。
そして俺たちはブランコに座った。
やがて、ゆっくりと無言でブランコを揺らす俺に、彩が聞く。
「何か、話でもあるの?」
「ああ。……彩、あのさ、ごめん」
「……それ、この間も聞いた。それで何が、ごめん、なの?」
「俺、彩に、ひどいこと言ったよ。あんなに色々してくれてたのに、迷惑だ、なんてさ。……それ、言いたくないけど、全部、あのイケメンに嫉妬したからなんだ」
「イケメンって?」
彩は心底、不思議そうな顔をしている。
「ほら、この間も一緒だった。すらっとした、背の高い……」
「ああ、三井くん」
そのとき俺は、彼の名前を思い出す。
その名前が彩の口から出ると、少し胸が痛むけれど、仕方がない。
「でも、その前にも、一緒だったの、見たんだ」
そう言って俺は、あの日の出張の帰り道の話をする。
彩はうなずきながら聞いていたけれど、その口元は、どことなくきつく締められている。
「なるほど、ね。だからつまり、孝之くんはこう思ったんだ。わたしが、三井くんに惹かれてるかもしれない」
「うん」
「違います」
「えっ?」
俺はまじまじと彩のことを見てしまう。
「そんなわけ、ないでしょ。なんか、心外だな。……ああ、ちょっと、ムカムカしてきた。孝之くんって、わたしのこと、そんな風に見てたんだ」
「でも、だって、……ウチの母親だって、最近、カッコいい男の子が来てる、って……」
「そりゃ、来てるよ。仲、いいもの」
彩は微笑んで、言葉を続ける。
「三井くんは、わたしの料理の師匠なの。わたし、毎日、修行してるって言ったでしょ」
そう言って彩が教えてくれたあのイケメンとの関係は、少し意外なものだった。
三井というあの男は、今年の二月に、引っ越しのために、彩のクラスに転校してきたらしい。
「それで、ちょっとしたきっかけがあって……三井くんが料理上手だって、知ったの」
俺が一人暮らしをはじめた後は、放課後になるたびに、彼から料理を教わっていた。
その関係で、彩の家にまで彼がやってくることもあるそうだった。
「……でも、料理って、どこで? 家庭科室とか?」
「それは……この間、孝之くんと会ったところだよ。名前でピンとこない? 『three-I』つまり、『三井』。あのお店、三井くんのウチでやってるの」
話を聞いてさえしまえば、なんでもないことだった。
彩はただ、俺の帰りを待つのと、料理の腕をあげるために、よく三井という彼と放課後の時間を過ごしているらしい。
「……でもさ、向こうは彩のこと、どう思ってるかわからないじゃないか。そうやって料理を教えているのも、彩に好意があるからなのかも」
「それは、もう、ないんじゃないかな」
いや、そんなの、わからない……と反論しかけて、彩の発したある言葉が気になる。
「『もう』?」
「だって、一回、断ってるもの。三井くんのこと、友達以上には好きになれないと思う、って」
戸惑う俺に、彩は言葉を重ねる。
「……転校してきてすぐで、ロクに話したこともなかったのにさ。かわいいね、付き合ってみない? なんて、言われて。でもそれが会話のきっかけで、三井くんの料理のこと、知ったんだよね。色んなことが、つながるものだね」
彩はなぜかしみじみとそんなことを言う。
「なるほどな」
俺はそう言って、もう高く登りはじめた六月の太陽へと目を向ける。
ほとんど全部、俺の勘違いのような話だったのか。
彩はただ、俺のために、料理の練習をしてくれていただけで。
「それで? ……孝之くんは、幼馴染に、やきもち焼いたんだ?」
もちろん話はそれで終わらないわけで。
彩は少しすねるように、そんなことを言う。
「悪かったよ」
「ほんとに、傷ついたんだから。孝之くんのことなんか知らない、って本気で思ってた。だってそれならわたし、いつまでも……ただの幼馴染ってこと、でしょう」
彩はじっと俺を見つめる。
もちろん俺は、もう覚悟はできている。
例え彩に、誰か他に好きな人がいたところで、この気持ちは伝えるつもりだった。
俺はポケットに入れた手を握りしめると、高鳴る胸の鼓動を感じながら、口を開く。
「あのさ、彩。何を、どこから言っていいか、わからないけど……」
「好きなところからで、いいよ」
「俺、彩が来なくなってはじめて、彩がしてくれてたことの大変さがわかったんだ。遅くなったけど、本当に、ありがとう」
「どういたしまして」
「……それで、彩に会えなくなって、やっぱり、こんなの、嫌だと思った。ずっと一緒にいたし、これからも、ずっと一緒にいたい」
「孝之くんは、そう、思ってるんだ? でも、それ……幼馴染だから?」
そこで俺は、ポケットから手を引き抜く。
そして彩の前で、握りしめた右手を開く。
そこには昨夜、急いで作ってもらったものがある。
彩は俺の手の中のものを見つめ、そっと声をあげる。
「これ……合カギ?」
「彩、進路はまだ決めてないって言ってただろ。だから、先がどうなるか、全然わからないけどさ……別にいつでもいいから、俺、ずっと待ってるから、彩が卒業して、もしよかったら、その……」
彩の目は、合カギから、俺へと向けられる。
最後の言葉を、俺は思い切って口にする。
「俺と結婚して欲しい」
彩はじっと俺を見つめる。
答えは、すぐには返ってこない。
と、思ったそのとき、彩の目が濡れ、やがて大粒の涙が彼女の瞳からこぼれはじめる。
「あ、彩?」
俺がうろたえていると、彩は両手で顔を覆う。
どう声をかけていいか迷っているうちに、手の甲で顔をこすりながら、彩が顔をあげる。
その目にはまだ涙が光っているけれど、口元は微笑んでいる。
「ありがと、孝之くん。……でも、わたし、思ったんだけどさ、わたしたちの関係って、やっぱり、変だよ」
「……変?」
その言葉に、俺は少しどきりとする。
やっぱり彩は、俺のことは、ただの世話の焼ける幼馴染としか思っていなかったのかも。
「うん。だって、今までずっと、幼馴染だったのに。急に結婚相手になるなんて、やっぱり、変」
「……そうかな」
「だから、恋人からはじめるのは、どう?」
俺たちは見つめ合う。
そうして、彩は手を伸ばし、俺の手から合カギを受け取る。
「これ、喜んで使わせてもらうね。わたしたちが、また違う関係になる日まで」
「うん」
そう答えたとき、六時半に流れる、朝のチャイムが流れる。
そろそろ仕事の準備をはじめないと、出勤時間に間に合わない。
「そろそろ、行かないとな」
「そうだね」
俺たちはブランコから立ち上がり、公園の入り口へと歩き出す。
「……それで、一応聞いておくけどさ、孝之くんは、わたしのこと、どう思ってるの?」
「好きだよ」
彩は隣で、ガッツポーズをきめた。
それから、小さくつぶやいた。
「もちろん、わたしもだよ。ずっと、……好きだったんだよ」
※※※
その日の夕方、社長はぶらぶらと俺のデスクに歩み寄ってきた。
「孝之、今日のオマエのアイデア、よかったぞ。明日はあの線でもう少し、作り込んでみろ。よければ先方に提案してみる」
「本当ですか? ありがとうございます」
俺は社長に頭を下げる。
これまで、社長や他の社員の手伝いはやってきたけれど、俺のアイデアがメインに使われるのははじめてだ。
「あくまで、オレが納得したら、だけどな。……ところで、森孝之くん。NTR問題はどうなった? 戦線には異状なしか?」
「いえ、解決しました」
「そうか。そうだと思ったよ。オマエの面を見てれば、そのぐらいはわかる」
社長は、またもや俺の肩を叩く。
「今後もこの調子で、ガンバレよ」
※※※
そして俺は帰路につく。
職場から俺の自宅のアパートまでは、歩いて十分もあれば着く。
ふつう、自宅というものは、例えそれがアパートといえども、もっともプライベートでかつ、安心できる場所であるべきだ。
そんなことを考えながら、俺は自宅にたどり着き、玄関のドアノブを回す。
ドアノブは、何の抵抗もなく回った。
「おかえり、孝之くん。今日もお仕事、大変だったね」
ドアを開けると、幼馴染の山本彩が、やっぱりおたまを手にしている。
「ただいま、彩」
俺のその返事を聞いて、彩は満面の笑みを浮かべる。
「この家で、孝之くんが『ただいま』っていうの、はじめて聞いたかも」
「だってそれ、待っててくれる人にいう言葉だろ。勝手に入り込んでる人じゃなくてさ」
「……じゃ、もう一回言って」
「ただいま」
「よし。それじゃ、さっそくだけど、……お風呂にする? ごはんにする? それとも、……わ、た、し?」
「急にそういうの、やんなくていいからっ!」
彩は『にひひ』と笑い、それから普段の笑顔に戻る。
「それじゃ、先にお風呂をどうぞ」
「うん」
そう答えてから、俺は玄関で、改めてアパートの様子をながめる。
ふつう、自宅というものは、例えそれがアパートといえども、もっともプライベートでかつ、安心できる場所であるべきだ。
今の俺が見ているのは、そんな場所だ。
視界の中心にいる彩は、すこし不思議そうな顔をしている。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
彼女は高校の制服を着たままで、上からエプロンをつけている。
つい最近まで彼女は、頼んでもいないのに、勝手に俺の自宅に侵入し、色々世話を焼いてくれていた。
どうやって入っていたのか、その方法は未だに秘密だ。
だけど秘密の方法はもう、知る必要はない。
今の山本彩は、まだ女子高生で幼馴染、だけどもう合カギを渡した、俺の彼女だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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