03
帰り際の俺に社長が声をかけてきたのは、それから三日後。
土日を挟んだ後の、月曜日の夕方だった。
「孝之、お前、まだ落ち込んでんのか」
俺がうつろな目を向けると、社長は俺のデスクに近寄りながら、俺の肩を叩く。
「マジな話、オレはオマエに期待してるんだぞ。あんな研修での失敗ぐらい、なんだ。アイデアってのは数うつものだ。センスってのは磨くものだ。だからな、孝之、そんなに落ち込むな……って、なんか様子が違うな。孝之、本当にオマエ、どうしたの?」
いつになく真面目な表情をしていた社長が、どこか不思議そうな顔に変わる。
何をどう話していいか、俺は迷う。
「もう、就業時間は終わってる。なんでもいいから、話してみろよ」
ここ数日、すっかり気持ちがしおれていた俺は、社長のその言葉に気を許してしまう。
「社長、実は、俺には幼馴染がいまして……」
話しはじめたときは、社長は真剣な目で、大きくうなずきながら聞いていた。
だがその話が中盤に差し掛かったころには、もうニヤニヤと、普段の軽い笑顔を浮かべはじめている。
「つまり、その子がオマエの知らないイケメンと仲良さそうにしてた、と。一方、オマエはその子とケンカをした」
「ええ」
彩と俺との幼い頃からの関係や、彩が毎日俺の家に押しかけてくることなんかは、詳しくは話さなかった。
ただ昔からよく知っている女の幼馴染がいて、俺は彼女とケンカをした。
そのきっかけは、俺の知らない、イケメンと一緒にいたことだった。
社長に話したのは、せいぜいそのぐらいだ。
だが社長は、目をキラキラさせながら、言葉を続ける。
「そりゃ、マズいな。NTRだ」
「エヌティーアール?」
「つまり、『寝取られ』だよ、森孝之くん。業界ではそう呼ぶんだ」
その業界がどこの業界なのかは、俺は知らない。
だが社長が説明したところによると、恋人が奪われることを、NTRと呼ぶらしい。
「……俺たち、恋人じゃないですよ。幼馴染です」
「でも、ケンカしたぐらいですっかり気落ちするぐらいの幼馴染なんだろ? それでも単なる幼馴染、っていうんなら、オレに紹介して」
「イヤです。俺より年下ですよ。その子の年齢、いくつだと思ってるんです」
「あのな、オレ、若い子にも人気あるんだぜ。渋いおヒゲがチャーミングですね、ってさ。……だからさ、要するにだな、孝之。オレは現役女子高生をオマエに紹介してもらいたい」
「だから、イヤですって」
「そしてオマエは、社長であるオレの要望も聞かず、イヤだと即答できる相手とケンカをしてる。つまりオマエは、どうしたいんだ?」
社長はそこで言葉を切り、再びニヤニヤと笑い、俺の肩を叩く。
「考えるのなら、そういうところからだな」
そう言うと社長は背を向けて、ゆっくりと歩み去っていく。
俺はその背中を見つめる。
俺はどうしたいんだろう。
確かに、社長の言う通りかもしれない。
※※※
その日も帰宅した俺が、自宅の玄関のドアノブを回しても、固い手ごたえが返ってきただけだった。
彩が俺の家に侵入しなくなって、もう三日になる。
その三日間、俺は毎日、さびしい夕食を取っている。
自分でお米を炊いてみてはじめて、彩の炊くお米の柔らかさが絶妙な加減であることを知った。
保温機能のない我が家の浴槽で、帰ってきてすぐお風呂に入れる温度を保つことがどれほど面倒か、自分でやってみてはじめてわかった。
「……たぶん、部屋だって掃除してくれてたんだよな」
その事実に俺は、気づいていなかった。
わずか三日間なのに、テレビの上にわずかにホコリがたまりはじめている。
研修から帰ってきた日にだって、そんなことはなかった。
それなのに、俺は。
「……彩に、謝らないと」
簡単な夕食を終えた後、俺はスマートフォンを操作して、彩の名前を探す。
山本彩の文字は、すぐに見つかった。
その番号には、ほとんど発信をしたことがない。
実家は隣同士だ。
お互いに部屋は二階で、窓は同じ高さで向き合っている。
もし俺の部屋にいなければ、窓を開けて呼べば、すぐに彩と話すことができた。
そして一人暮らしをはじめてからは、ほとんど毎日、彩はウチに来てくれていた。
迷うことなく、俺はスマートフォンの『発信』の表示をタップする。
トゥルルル、……そんな風に聞こえるコール音が、一回、二回と鳴る。
そんな音がいくら回数を重ねても、結局、彩は電話に出てはくれなかった。
※※※
俺が彩と、高校からの帰り道を歩いたことはあまりない。
お互いに友人もいたし、家に帰ればすぐに会うことが出来る。
あえて、学校帰りの時間を共有しようとはしなかった。
だが、去年まで通っていた高校のタイムスケジュールを、俺はまだよく覚えている。
翌日の朝、出勤した俺は、すぐに社長のそばに行った。
「社長、今日は俺、少し早く上がります」
「ほう。朝から、突然だな。体調でも悪いのか?」
「社長から言われたこと、よく考えてみたんです。……ダメですか?」
「いや、いいよ」
高校の授業が終わる少し前の午後三時に、俺は仕事を終えた。
他のみんなが仕事をしている中、先に帰るのはなんだか違和感がある。
まごついていると社長がしっしっと追い払うような手つきをする。
「オマエがそんなところにいると、みんな気が散るの。さっさと帰れ」
追い出されるように会社を出る。
外はまだ明るい。
とはいえ高校の授業はもうすぐ終わる。
忙しく感じていた高校生活も、仕事に比べれば、ずいぶん余裕があったんだな。
歩きながら、そんなことを思う。
俺の職場から、彩が使っているはずの通学路までは、歩いて五分ほどだった。
どこで彩の帰りを待つべきか、少し考える必要があった。
「何しろ、まだ知ってる後輩も多いからな……」
人通りは多いけれど、俺はもう制服姿ではない。
路上で誰かを待っていたりすると、それなりに目立つだろう。
そして俺は、少し前に彩から聞いた話を思い出す。
俺が卒業してから、通学路に面して、新しくカフェが開店したらしい。
その店のウリは、軽食としてメニューに載っている、多彩な料理にあるらしい。
以前に話を聞いたときは、彩もまだ、その店に行ったことはないと言っていた。
その店で、彩が通学路を通りかかるのを待つ。
そんな案を考え、俺は通学路を進む。
「この店か……」
彩が言っていたと思われる店は、比較的レトロな雰囲気だった。
『three-I』という看板が通りに出ており、テラスには木製の椅子やテーブルが置かれている。
カウンターで注文したコーヒーを手に、テラスに座って、彩を待つ。
彩はどう思うんだろうな、と一人の時間で考える。
その反応が、一番、気になる。
何しろこれまで、彩とケンカしたことなんか、一度もなかった。
だいたいいつも一緒で、しかも妙に気が合った。
なのに、不用意なことを言って怒らせて、そのくせ勝手に待ち伏せみたいなことをして、謝りにくる。
そんな俺は、どうなんだろう。
「……考えても、わかりっこないか」
ともあれ、彩に、素直に謝ろう。
そう決めて、通りを見つめる。
目の前の通学路には徐々に、制服姿の男女が増えてきている。
帰り道を歩く彼らに目を向けていた俺は、やがて目的の相手を見つけた。
三日ぶりに見るその姿には、当然ながら、あまり変化は見当たらない。
いつもの彩だ。
俺はカフェの席から立ち上がり、彼女に近づこうとする。
しかし、そのとき気づいてしまう。
彩の隣に、誰かいる。
「……孝之くん?」
笑顔を浮かべて歩いていた彩が、カフェのそばまで歩いてくると、俺を見つける。
俺はその視線を、どう受け止めていいか、わからない。
あの日のことをすぐに謝ろう。
そう思っていたのに、つい、彩の隣に立つ男に目を向けてしまう。
三日前、駅でも見た、あの背の高いイケメン。
彼は今日も、彩と一緒にいる。
彩は俺が、その男を見ているのに気づいたらしい。
少し険しい目を、俺に向ける。
「どうしたの? 孝之くん。ここで何してたの?」
「ああ、いや、あの、俺……」
「誰、この人?」
隣にいたイケメンが、そっと彩に聞く。
「……ただの幼馴染。そうなんでしょ、孝之くん」
彩の冷たく口にしたその答えは、俺の言った言葉でもあった。
でも、思っている以上に、心に突き刺さる。
そう、俺たちは幼馴染だ。
二人で、いつも一緒だった。
それはいいことだったはずなのに。
「ああ、例の、幼馴染」
少し驚いたように、イケメンは声をあげる。
なぜか、俺のことを知っていたらしい。
「なるほど。それで、彩ちゃんに何の話なの?」
俺は彩を見つめる。
彩は少し、いつもとは違う、固い表情をしている。
そのとき俺は、彩のことを、本当の意味では何もわかっていなかったことに気づく。
俺は彩に謝るつもりだった。
せっかく色々やってくれたのに、余計なお世話だ、なんて言ってしまって。
そして気が向くのなら、また遊びに来て欲しい、というつもりだった。
前みたいに。
だけど、彩とこの男との関係がわからない。
彩の気持ちも。
俺がここで何か余計なことを言うと、彩がこの男と作ってきた関係性……例えば恋を、邪魔してしまうんじゃないか。
「あのさ、彩……ごめん」
だから、俺にはそう言うのが精いっぱいだった。
「……何が、ごめん?」
そう彩に聞かれても、俺にはそれ以上何も言えない。
首を横に振り、カフェに背を向けて歩き出す。
「あ、孝之くん……」
「いいよ、彩ちゃん。大丈夫だって」
「でも、三井くん」
「行こうよ」
彩にそう、三井と呼ばれたイケメンがそっとささやく声が聞こえ、俺はちらりと後ろを振り返る。
彩とイケメン、二人が並んでカフェの中に入っていくところだった。
俺はアパートに向かう道を歩きはじめる。
これでよかったのかもな、と歩きながら俺は思う。
謝ることは何とかできた。
それに彩には二人でカフェに行く相手がいる。
なのに、いつまでも幼馴染の世話を焼かせるわけにはいかない。
俺たちはただの幼馴染なんだから。
※※※
翌日の朝、出勤すると、社長が真っ先に俺のデスクに近づいてきた。
「で?」
「……は?」
「『は?』じゃないよ。昨日休みをとったのは、あのNTR問題を解決しにいったんだろう。それで、どうなったんだよ」
「……社長、それ、俺のプライベートです」
「仕事をブン投げてプライベートにいそしんでるんだから、社長に報告するのは当たり前だろ。さ、話してみたまえ、森孝之くん」
俺は小さくため息をつく。
それでも、社長に簡単なあらましを話す。
改めて言葉にすることで、もうこれでいいと自分で決めたことに、納得できるような気がしたからだ。
一通り聞き終えた社長は、俺に肩をすくめてみせる。
「キミは実にバカだな」
「……え?」
「それが本当に、オマエのしたかったことなわけ? ケンカしたのを謝りたい、なんてさ。しかもまともに謝ってすらいない。だから研修でもダメ出しされるんだよ、オマエは本当に無能だな」
「……社長、それって、今の時代だと何らかのハラスメントですよ」
「だとしてもオレはオマエに問いたい。これは、オレたちの仕事にも通じているぞ。オレたちを動かすのは、『痛み』だ。『痛み』があるから、人は動く」
「『痛み』ですか」
「そう。だが、例え痛くても、それがなんだかわかっていないと、人は動かない。動けない。動いても、間違っていたりする。……それで、孝之、オマエの『痛み』はなんだ?」
俺はじっと社長の目を見て、考える。
やがて、始業のチャイムが鳴る。
社長はポンと、俺の肩を叩く。
「オマエ、仕事中は真面目に、仕事のことを考えろよな」
「……社長だって」
※※※
その日の夜、早めにベッドに入った俺は、社長からかけられた言葉のことを考えていた。
痛み。
一体、今の俺は何が痛いんだろう。
目を開けて、暗い部屋の中に目を向ける。
俺は一人だ。
「そして、彩がいない」
物心もつかないうちに彼女と出会ってから、こんなに長く顔を見なかったのははじめてかもしれない。
俺が先に中学校にあがったとき、彩とはもうあまり遊ばなくなるのかと思っていた。
でも、そうはならなかった。
高校に入ったときも、まだ中学生の彩はもう、俺の部屋に来なくなるのかと思っていた。
だけど、違った。
卒業して、就職し、一人暮らしをはじめた。
親元を離れ、自立しようと考えていたけれど、同時にこうも思っていた。
彩とはもう、疎遠になってしまうかもしれない。
今はそうなりつつある。
……俺は、枕元にあったスマートフォンを手に取り、ネットで検索をかける。
近くにあったお店は、二十四時間営業だった。
一応、電話をかけてみる。
「今から、お店に行ってもだいじょうぶですか。緊急なんです」
「いいですよ」
外出の準備を整えながら、俺は考える。
俺はたぶん、ずっと恐れてきた。
何かをはっきりさせることで、心が傷つくのを、避けようとしていた。
だけど、今は違う。
「俺の痛みは、もう、違う」
誰もいない部屋を見て生まれる、今の感情がその答えだ。
そして俺はアパートを出る。