02
それから三日後の出張から帰ってくる日に、俺の気持ちはすっかり、どん底にまで落ち込んでいた。
帰りの新幹線を待つホームで、スマートフォンを操作する。
電話をかける相手は、俺の母親だ。
三回目のコールで、電話がとられる。
「ああ、孝之? あんたから電話をかけてくるなんて、珍しいじゃない。どうしたの?」
「あのさ、ミーアちゃん、近くにいる?」
「いるけど」
「声を聞かせて欲しい」
そんな俺の声で、今の俺がどういう状態なのかを、母親は察したらしい。
バタバタと歩く音がして、やがて母親の声が聞こえる。
「ミーアちゃん、鳴いてあげな。バカな息子が、またバカなこと言ってる」
ミーアちゃんは、賢い。
家族の言葉なら、かなりのところまで理解しているフシがある。
やがてミーアちゃんの、可愛らしいニャーという声が聞こえてくる。
俺は目を閉じてその鳴き声を聞いていた。
これで少しは立ち直れる、かも。
その後で聞こえてきたのは、母親の声だった。
「これで満足? あんた、また何か落ち込んでるの?」
実家にいたとき、何か辛いことがあったのなら、俺は大抵ミーアちゃんに話をしていた。
もちろん、一方的な会話だ。
ミーアちゃんはいつも、面倒くさそうに聞いていた。
だけど、それで十分だった。
誰にもぶつけられない感情を、ミーアちゃんなら、なんでも『ニャー』の一言で流してくれる。
そして俺は救われる。
「ううん、落ち込んでた。でも、少しはマシになった」
「あ、そう。……あんた、仕事で出張に行ってるんだってね。落ち込んでるのは、そのせい?」
「そのせいかな。でも、誰から聞いた?」
「決まってるじゃない。彩ちゃんだよ。でもさ、あんた、二人きりだからって変なことしてないだろうね。幼馴染とはいえ、嫁入り前の子を……」
なんてはじまった母親の言葉を、俺はさえぎる。
「ごめん。帰りの新幹線が来たから、切るよ」
「あ、ちょっと」
新幹線の席は窓際だった。
窓の外は、まだ明るい。
俺は予定よりもずっと早く、帰路についている。
理由はかんたん、三日間の研修で、俺の心はすっかりへし折れていたからだ。
バイトをしていたときも、社長から時折、センスを褒められることはあった。
卒業した後の進路について話したとき、すぐに『ウチで働けば』と誘ってくれたのは、社長の誉め言葉が、ウソじゃないからだと、そう思っていた。
「なのにさ」
動き出した新幹線の中で目を閉じ、背もたれに後頭部を預ける。
ミーアちゃんの『ニャー』の一言の効果は、早くも薄れつつある。
研修は厳しく、しかも三日目には研修内でのデザインのコンペまで行われた。
俺が三日間、必死で考えたアイデアは、講師から、こんな一言で切り捨てられた。
『実にありきたりで、センスがない』
採点結果は、参加者の中での最低点だった。
その結果に傷ついていた俺は、研修時間に含められていた最後の打ち上げが、任意参加であることを知った。
『森くんはどうする?』
幹事にそうたずねられ、普段の俺ならすぐに参加を決めただろう。
参加者はみんな、俺よりも年上で、同じ業界の先輩だった。
つまり、ぜひとも話を聞かせてもらいたい相手ばかりなのだ。
だけど俺はこう言った。
『どうせ酒も飲めないんで、遠慮しておきます』
それで俺はいま、まだ窓の外が明るい時間に発車する、この新幹線に乗っている。
頭の中はグチャグチャだ。
研修で酷評されたことも、打ち上げから尻尾を巻くように逃げ帰ってきた自分も、腹立たしい。
「……でも、今日、彩が来なくてよかったな」
そのことに少しだけホッとする。
こんな本気で落ち込んでいるところ、彩には見られたくない。
彩は、今日の深夜まで俺が帰らないと思っているはずだ。
わざわざ、俺のアパートをたずねてこないだろう。
それに明日になれば、少しは気も晴れているだろう。
彩に会っても、俺は普段の俺でいられるだろう。
そう、信じていたかった。
※※※
帰宅中の彩の姿を見てしまったのは、午後五時半、俺のいつもの帰宅時間よりも少し早い夕方だった。
俺はかつて通っていた高校の最寄り駅で、電車を乗り換えていた。
そこから俺のアパートの最寄り駅まではわずか一駅だ。
彩を見かけたのは、乗り換えた電車の中で、発車を待っていたタイミングだった。
跨線橋の下り階段からホームに現れた彩を見て、俺は瞬時に『まずい』と思った。
こんな精神状態では、彩と顔を合わせたくない。
俺がいま乗っている電車は、彩が帰宅に使う電車でもある。
「絶対、こっちを見るな、よ……」
目をそらそう。
そっと姿を隠そう。
そう思った次の瞬間に、俺は、彩の隣を歩く男を見てしまった。
背が高く、すらりとしている。
端正な顔立ちのイケメンだ。
彩の視線は、隣を歩くその男から離れない。
こちらをチラリと見もしない。
何かを楽しそうに話し、笑っている。
その笑顔は、普段俺に向けるものとは、どこか違っているように、見える。
イケメンのカバンに下げられている、キャラクターものの小さなぬいぐるみが目につく。
「……三番線、各駅停車、……行き、間もなく、発車いたします……」
やがてホームでアナウンスが流れる。
三番線に停まっているのは、俺の乗っている電車だ。
彩も同じ電車に乗るはずだ。
そう思っていたけれど、彼女はホームで隣に立つイケメンと話を続けたまま、歩き出そうとはしなかった。
やがて電車の扉が閉じる。
動き出した電車の窓から、俺は彩と、その隣に並ぶ男を見つめる。
やがて窓の外の景色が過ぎ去っていくと、俺は一人、つい、つぶやいてしまう。
「俺、何やってるんだろうな」
三十分後、帰宅した俺が見たアパートの部屋は、三日前の朝に出て行ったときのままだった。
魔改造などされていない。
もちろんその日、彩はウチには来なかった。
※※※
翌日の仕事は散々だった。
帰り際に、社長がニヤニヤしながら、俺に言う。
「孝之、今日一日、いい面してたな。研修で、鼻っ柱を折られたか?」
「……社長、そういうのやめてください。俺、いま、本気で落ち込んでるんです」
「ああ、もっと落ち込んでおけ。自分が井の中の蛙だと知るのは大切だ」
そう言ってウィンクする社長に、俺はぺこりと頭を下げ、そのまま帰路につく。
社長の言っていることは、半分当たっている。
今日一日、俺はまともに仕事に手をつけられなかった。
だけどすべてが研修のせい、というわけじゃない。
モヤモヤした思いを抱えたまま、帰り道でスーパーに周り、食料品の買い物などを終える。
買い物袋を手に下げたまま、自宅の玄関のドアノブを回す。
何の抵抗もなく回るドアノブに、俺は小さく、ため息をつく。
「あっ、帰ってきた。おかえり、久しぶりだね、孝之くん」
ドアを開けてすぐ、現れた彩の笑顔は、いつもと変わらない。
「……彩、お前、また勝手に入ってんの?」
「うん。もうね、待ちきれなかったから、いつもより早く来ちゃった」
だけど俺はその笑顔と、昨日の夕方に見たものと、つい比べてしまう。
俺はそれ以上何も言わず、玄関をあがり、食料品を冷蔵庫に入れる。
「お風呂も沸かしてあるし、いつも通りごはんもすぐに出来るし……ね、孝之くん、どうしたの?」
ロクに返事もしない俺の様子に彩は、どこか違和感を覚えたらしい。
心配そうな声をあげる彩とは目を合わさず、俺は部屋の中に入る。
彩は部屋の中にまでついてこようとする。
そんな彼女を俺は、声で制する。
「今から着替えるんだから、勝手に入ってこないでくれ」
「あ、……うん。ごめん」
部屋の明かりをつけず、俺は着替えを終える。
部屋にはカーテンの隙間から、わずかに光が差し込んでくるだけだ。
着替えを終えてもしばらく、俺は一人で考える。
やがて部屋を出たとき、彩はもう、料理を終えようとしていた。
狭いキッチンに、すでに盛り付けを終えた食器が並んでいる。
こちらに向ける彩の笑顔は、さっきのやり取りのせいか、どこか気がかりそうだ。
「着替え、のぞかなかったよ。えらいでしょ」
その冗談にも、俺は笑わない。
彩は取り繕うように、言葉を続ける。
「ごはん、もう出来ちゃったから、先に食べよ」
「まだ、いい。俺は、風呂に入りたい」
「……あ、そうなんだ。じゃ、待ってるね、……って、孝之くん?」
彩はそう慌てるような声をあげる。
俺がすでに、上着を脱ぎはじめていたからだろう。
すっかり上着を脱いでしまい、上半身をはだけたまま、俺は彩にたずねる。
「なんだよ」
そしてズボンにも手をかける。
「ちょ、ちょっと……わたし、ここにいるのに……」
「……なあ、彩。ここは、俺の家だろ」
「そうだよ、もちろん」
「だったら、どこで何をしていようと、俺の自由だろ。勝手に入ってきて、頼んでもないことをやってるのは、彩、お前の方なんだからな」
俺はじっと彩を見つめた後、並べられた料理へと目を向ける。
「せっかく一人暮らしをはじめたのに、自分の好きなものも食べられない」
「……好きなものじゃなくて、ごめん。だけど、ね、孝之くん……なんか、変だよ。研修で、何かあったの?」
俺は強く首を横に振る。
不意に昨日の悔しさを思い出し、つい、大きな声が出る。
「何にもないよ!」
気づくと、彩は不安げな目を俺に向けている。
「……なあ、彩。お前はいつも俺の家に来るけどさ、他にやることもあるだろ。カッコいいクラスメイトと一緒に帰るとか」
「ううん、そんな人いない」
ウソだ、と俺は思う。
昨日の夕方に見た光景は、まだ、俺の目を離れていない。
「別に毎日、俺のことを構わなくていいんだよ。俺は俺でやっていける。かえって、迷惑なんだよ。余計な世話まで焼かれるのは」
彩は唇をかみしめている。
「でもわたし、孝之くんが大変かなって思って……それに、ずっと一緒だったし……」
「彩、さっき、俺のこと、なんか変だって言ったよな。でも、本当に変なのは、俺たちの関係だよ」
「……どういう意味?」
「こんなに、ウチに入り浸ってさ……おかしいって、思わないのか? 俺たち、ただの幼馴染だろ」
「……どうしてそんなこと言うの? 孝之くんの、バカ」
俺はそのとき、彩の目に涙が光っているのに気づく。
さすがに、心が揺れ動く。
俺は何か言葉を続けようとして、だけど、何も出てこなかった。
その間に彩は、そばにあったリュックサックを背負うと、呼び止めるヒマもなく、玄関を出ていってしまった。
俺はその後を追いかけようとして、自分がそのとき、上半身に何も着ていないことに気づく。
「……何で泣くんだよ、彩」
そうつぶやく部屋には、もう、誰もいない。
※※※
その夜、俺は一晩中、彩が最後に見せた涙のことを考え続けた。
ロクに寝ないまま朝を迎えたとき、昨日の彩とのやり取りについて、俺はこう結論づけた。
俺は何てバカなことをしたんだろう。