01
ふつう自宅というものは、例えそれがアパートといえども、もっともプライベートでかつ、安心できる場所であるべきだ。
俺はそんなことを考えながら、自宅の玄関のドアノブを回す。
ドアノブは何の抵抗もなく回った。
つまり、カギが開けられているということだ。
「おかえり、孝之くん。今日もお仕事、大変だったね」
この春から引っ越した俺の自宅は、ワンルームの狭いアパートだ。
扉を開けてすぐのところに小さなキッチンがある。
キッチンでは、幼馴染の山本彩がおたまを握っている。
彼女はまだ高校の制服を着たままで、その上にエプロンをつけている。
彼女がぐるぐるとかき混ぜていたお鍋からは、おみそ汁のいい香りがする。
仕事から疲れて帰ってくると、すでに食事ができていて、それに、幼馴染が待っている。
普通ならコレ、幸せそのものの姿だろう。
だけど俺は笑わない。
笑えない。
「彩、お前、また勝手に入ってきたのか! 毎度毎度、カギかけてるのに、どうやって?」
そうなのだ。
彼女は勝手に入ってくる。
毎日夕方になると、俺のアパートに侵入し、食事を作って待っている。
どうしてこんなことになったのかは、よくわからない。
「それは、秘密」
「いい加減に、やめてくれっ!」
「じゃあ、合カギ、くれるの?」
すまし顔で聞いていた彩が、その言葉を口にする時だけ、謎めいた笑みを浮かべる。
そうたずねられるともう、俺は何も言えない。
「ほら、ね。……孝之くん、ごはんはもうすぐできるけど、お風呂はもう入れてるから、先に入っちゃえば」
「……そうする」
俺は玄関を抜け、ワンルームのアパートの部屋へと入る。
……浸食されている。
自宅のはずなのに、部屋に戻るとそんなことを思う。
俺の部屋はどちらかといえば殺風景だ。
もともと、片づけがあまり得意じゃない。
だからこそ、最低限のものしかアパートには持ってきていない。
それなのに、俺の部屋のところどころには、さりげなく、彩の好きなキャラクターもののグッズが飾られている。
そしてそれは、日を追うごとに増えている。
俺はため息をつき、部屋着を準備する。
ワンルームのアパートには脱衣場はない。
代わりに彩がどこからか持ち込んできた軽いパーテーションの影で、俺は服を脱ぐ。
「ね、背中、流そっか?」
「ああ、もう、頼むからそっとしておいてくれよ!」
にひひ、という彩の笑い声を聞きながら俺はバスルームに入る。
浴槽にはすでになみなみと暖かいお湯が張られている。
体を流してから、俺は肩までお湯に沈める。
今日も仕事で疲れている。
なのに、家に帰ると彩がいる。
だからこそ、気が休まらない。
※※※
彩が手際よくテーブルに並べた食器は、いつの間にかすべてキャラクターものに代わっている。
肉と野菜の炒め物と、白いお米が湯気を放っている。
「俺の食器、どうしたの?」
「ああ、孝之くんの家に持って行ったよ。お母さんに渡しておいた」
「……ウチの母親は、なんて?」
「孝之は幸せものねえ、って」
彩の作る食事は、正直なところ、うまい。
家が隣同士、幼いころから一緒にいるせいで、俺の味付けの好みも熟知しているらしい。
俺があっという間に食べ終えた頃には、彩はまだ、玉ねぎとピーマンをかみしめている。
「今日のごはん、どうだった?」
「……美味しかったよ」
「なら、よかった。ここ最近、毎日修行してるからね」
勝手に毎日家に押しかけてくるくせに。
確かに、お互いに実家にいた頃は、彩が料理をしているところはほとんど見なかった。
だから、俺の家に勝手に押しかけて料理を作ることを『修行』というのなら、間違いなくそうなのだけれど。
空になった食器を重ね、シンクに持っていこうとすると、彩が言う。
「あ、そこ置いといていいよ。わたし、片付けるから」
「いいよ。いつもやってもらってるし、このぐらい、自分で出来る」
「いいんだってば、疲れてるんでしょ。……それより、仕事の話、して」
「どうして? この間も話したろ」
「聞きたいから」
彩にそう促されて、俺はついつい、グチ交じりの仕事の話をはじめてしまう。
この春に俺は、デザイン会社に就職していた。
業務の内容は様々で、主に広告制作に携わっている。
といっても、ほとんど個人経営の、小さな会社だ。
社員は四人。
俺は高校生の頃からその会社でバイトをしていた。
雑用ばかりやっていたけれど、日々の仕事の内容に興味を持った俺は、知り合いになった会社の社長と相談した結果、進学はせず、そのまま会社に就職をしていた。
「バイトの頃はさ、みんな和気あいあいと、楽しくやってるように見えるわけ。俺にも優しかったしさ。でもそれって、たぶん、仕事に対する責任がないからなんだよな」
「責任?」
「そう。バイトは社員の指示を受けて仕事をする。それにバイトは俺一人だったから、みんなそれなりに、出来そうな仕事を分けてくれるわけ。だけど社員になるとそうはいかない。今日も社長に怒られたよ、『オマエ、いつまでバイト気分なんだ』って」
「あの、たまに孝之くんの話に出てくる、若い社長?」
「そう。『まるっきり新人をとるより気が楽だ、しばらくはバイト気分でがんばれってくれ』って言ったのはアンタだろ、って文句も言いたくもなる」
ふむふむ、と鼻を鳴らしながら、食事を終えた彩が食器を重ねはじめる。
俺はその食器をつかみ、彩に言う。
「やっぱ俺、やるよ」
「いいって。それより、話を続けて」
「こんなグチ、つまらないだろ。洗うからさ」
俺は半ば強引に、彩の食器も取り上げて、シンクへと運ぶ。
食器を洗っている間、彩は部屋の入り口に立ち、俺の姿をながめていた。
俺は無言で食器をスポンジでこする。
就職をいい機会に、近所にある自宅を離れ、一人暮らしをはじめて二ヶ月になる。
その間、彩はほとんど毎日のように家に来て(勝手に侵入して)、頼みもしていないのに俺の世話を焼いている。
いろんなことを彩に任せていると、なんだか自分がどんどん……、ダメになっていくような気がする。
今日も放っておくと、彩が食器洗いまでやってしまいそうだった。
「でもさ、少し前まで、孝之くんも同じ高校生だったのに。今じゃ全然、わたしと違う毎日を送ってると思うと、変な気分だな。すごく、成長してるっていうか」
「そうか? 俺自身はあんまり変わってないっていうか……後退してる感じだけどな。彩の方こそ、進路、どうするの?」
「わたし? ……まだ決めてない。そろそろ決めないと、遅いぐらい」
シンクに向かって食器をこする俺の背後に、彩はそっと近づいてきて、ささやくように言う。
「わたしが進学して遠くに行っちゃったら……孝之くん、さびしい?」
俺はすぐには答えられない。
どう答えていいかわからない。
「たぶん、さびしいな」
「ホントに?」
「ああ。いまも俺、ミーアちゃんに会えなくて、さびしいから、似たようなものだろ」
「……ミーアちゃん、元気だよ。孝之くんがいなくなって、のびのびしてる」
彩は笑って、そんなことを言う。
ミーアちゃんとは、森家、つまり俺の実家で飼っている猫のことだ。
「でも、彩も進路はさ、よく考えた方がいいぞ。うっかり流されると、いろいろ思い通りにはいかなくて、結局、世話を焼いてくれる幼馴染にグチることになる」
彩はじっと俺を見つめ、小さくため息をつく。
「そうだね」
※※※
いつものように、彩は結局、午後八時まで俺の部屋にいた。
別に何をするでもない。
二人で並んでソファーに座っているだけ。
テレビを見たり、雑誌を開いたり、ゲームをしたり、スマートフォンを操作したり、お茶やコーヒーを飲んだり、お互いに何でもない話をしたり。
その時間は、少し前、俺が高校生だったころとそう変わらない。
そもそもは家が隣同士で、しかも仲がよかった森家・山本家の両親が、こう考えたことがはじまりだった。
『節約のため、両家の子どもを一つのところにまとめ、遊び道具をシェアさせよう』
彩と俺は幼い頃から同じ部屋にいることが多かった。
そのせいか、一歳違いの異性であるにも関わらず、成長してからも多くの点で気が合った。
それがずっと当たり前だったせいか、高校生になっても、彩は毎日俺の部屋にやってきた。
そして二人でやっていたことは、いま、俺のアパートにいてやっていることとそう変わらない。
違うのは、彩の遊び相手のミーアちゃんがいないこと。
そして二人きりで、他に誰もいない空間に、俺たちがいること。
「ね、もう海開きなんだって。九州ってすごいね。同じ日本なのに」
テレビでは、近々海開きをするらしい海水浴場を、芸能人が訪れていた。
画面に映っているのは、青い海と白い砂浜。
そして水着を着たアイドル。
「いーな、海。ね、孝之くん、夏休みに入ったら久しぶりに、海に行かない?」
そう言いながら、そっと隣に寄ってくる彩のことを、つい、俺は意識してしまう。
テレビ画面の中の、水着姿のアイドルの笑顔に、彩の笑顔が重なる。
六月を迎え、彩の着ている制服は、すでに夏服になっている。
彩とわずかに触れ合っている肩と、その夏服の生地の薄さが、どうも気になる。
「……進学するんなら、海になんか遊びにいくヒマないだろ」
「えー、じゃあ就職する」
彩は笑いながらそっと俺から離れる。
「海で決めるのかよ。……どっちにしろ、俺、仕事で忙しいかもしれないし」
「あ、そっか。それはホントに、残念だな」
彩は軽く首をかしげると、壁にかけた時計に目をやった。
「もうこんな時間だ。わたし、そろそろ帰らないと」
その言葉に、俺はこっそり、ホッとする。
パッパッと身支度をして、彩はリュックサックを背負う。
そのリュックサックの中に、俺のアパートのカギを開ける、秘密の何かが入っているはずだけれど、中をのぞいたことはない。
「じゃあ、またね、孝之くん。明日は何食べたい?」
「明日も来るのかよっ! ……いいよ、別に毎日来なくて。彩だって、他にも色々あるだろ」
「ううん。全然、何もない。あ、そうだ、孝之くん、今度は洗濯物も出しておいてよ。そしたら孝之くんのパンツとかをさ、すみずみまで、キレイに洗っておくから」
「もう二度と入ってこないでくれっ!」
俺のその嘆くような言葉を聞きながら、彩は『にひひ』と笑って玄関を出ていく。
俺が玄関の扉を開けると、すぐそばにある最寄り駅の改札に歩いていく彩の姿が見えた。
彼女は振り返り、大きくこちらへ手を振ると、改札を抜けていった。
俺は玄関の扉を閉じ、カギをかける。
そして改めて、ふぅと息をつく。
※※※
その翌日、俺は職場で、社長からこんな話をされた。
「孝之、お前、出張な」
「え?」
「明日から三日間、オレの知り合いの会社で研修だ。高卒ホヤホヤの、新人有望株だって宣伝しておいた。勉強してこい」
そう言って渡されたプラスチックケースには、一通りの書類がそろっていた。
新幹線の切符まである。
「急すぎません?」
「急にしてみたんだよ。オマエのリアクションが見たいから」
「……何のために?」
「今後の新人教育のため。オマエも知ってのとおりだけど、ウチ、新人とるのはじめてなんだよ、有望株の森孝之くん」
※※※
「というわけでさ、俺、明日から出張なんだ」
その日も帰宅してみると、やっぱり彩が自宅にいた。
彩の作ってくれた夕食を食べながら、出張の話をすると、さすがの彩もポカンとしていた。
「それって、ふつうなの?」
「いや、泊りがけの研修だぞ? 普通じゃないだろ。ウチの社長、あんなんだから、楽しんでるんだよ」
「そうなんだ。……でも、そしたら、急いで準備しないとね。明日からなんでしょ?」
彩の言葉通りだった。
食事を終えると、その日の食器洗いは彩に任せ、俺は出張の準備に取りかかる。
幸いにも、旅行用の小さめのキャリーバッグは実家から持ってきていた。
書類関係は社長から渡されたものだけあればいい。
宿泊はホテルらしいから、必要なものはあまり多くない。
収納ケースから必要な着替えを引っ張り出していると、彩がその中の一枚を手に取りながら言う。
「……これが孝之くんのパンツ」
彩が広げているその下着を俺は奪い取る。
「やめろ。広げて、見つめるな」
「ウソウソ、冗談。服、たたむの手伝うよ」
その言葉には甘えて、俺は彩の前に着替え用のワイシャツを重ねる。
下着や靴下の、たたみ方なんてどうでもいいモノは、俺自身でまとめる。
三日分、三枚渡したワイシャツを、彩はあっという間にシワもなくコンパクトに折りたたんでしまう。
「それにしても、出張はスーツなんだね。いつもの仕事ではもっと、ラフな格好してるのに」
「色んな会社から研修の人が来るから、かなりキッチリやるんだってさ。……もしかしたらそれも、社長が適当なノリで言った冗談だったらどうしよう、って思ってるけど」
「それは、怖いね」
彩の手伝いもあり、出張の準備は早めに終わる。
二人でソファーに座りながら、彩が準備してくれたお茶を、二人で飲む。
「あの、これは本気のお願いなんだけどさ、俺がいない間、勝手にこの部屋に入らないでくれよな」
「何で?」
「何で、って……三日間もいないんだぞ」
「三日間、十分な時間だよね。この部屋、魔改造でもしちゃおっかな」
「…………」
「……わたしが本気でそんなことすると思う?」
「ちょっとは」
「やだなあ」
彩はそう言って笑うと、その後で指を折りながら日付を数える。
「今日が月曜日だから、そこから三日間。……木曜日の夜に帰ってくるってこと?」
「そう。でも、帰ってくる時間は遅いはずだ。だから……」
木曜日は来なくていいよ、というのもなんか違うな、と俺は思う。
それはまるで、彩から来てもらうのが当たり前のような言い方だ。
「孝之くんが帰ってくるの、三つ指をついて遅くまで待ってればいい?」
「……もし来たいのなら、金曜日からにしてくれ」
「わかった。いつも通り、勝手に入って、待ってるね」
俺は何も言わない。
やめてくれ、と言ったところで、彩がそうしたいと思えば、勝手に入ってくるはずだろうから。
それに、本心からやめて欲しいわけでもない。
「さびしいけど、うれしいな」
「何が?」
「金曜日から、また来ていい、って言われたみたいだから」
彩はそう言って俺をじっと見つめる。その目からそっと、俺は視線をそらす。
「いい、とは言ってない」
「ダメだ、とも言われてないよ」
「だけど、そう言っても勝手に入ってくるんだろ。幼馴染だから、まあ、いいけど」
次に俺が彩の視線に気づいたとき、彼女はすこし、不満そうな目をしていた。
「ちょっと、うれしくなくなった」
「何が?」
「教えない」
彼女は小さくため息をつくと、また笑顔に戻って、俺に言う。
「じゃ、次は金曜日に会おうね。すごく美味しいものを準備しておいてあげる」
「楽しみだな」
素直な気持ちでそう言うと、彩は嬉しそうに笑った。